馴染みの焼肉屋の慣れ親しんだ染みの滲んだ壁に、何やら場違いな文句を見つけた。言うにそれはお品書きではなくポスターなのだが、どう見ても店の主人が走り書きしたらしき筆跡だった。
『親父吟醸』。
次々に肉を焼いては口に放り込んで行く猛者たちの小さな頭越し、そんな文句が目に付いて抜け目なくお目当てを物色しながらついつい目線はそこへ流れる。あまりどこを見ているのか、また見ていてもあまり頓着しなさそうな表情であるのにそこに目ざとく気づいたいのが声を上げる。
「アスマ先生、お酒頼んだ方が良いー?」
彼女なりに気を利かせているのは確かめずともわかる。恐らく三人内では最も人の洞察力が優れているだろう。それも、女ならではの習性であることは言わずもがなだ。
酒と飯とビールの間を行ったり来たりしているのでそれほどジョッキの中身は減っていない。しばらく置いておくと泡が減って本来の旨味がなくなるから好きじゃない人もいるのよねーと何気なしに自身の親のことを身振り手振りで話をする。聞いているのは隣に座ったシカマルくらいだろう。最も、少年の顔を窺えば、白け切っている痕跡がある。目の前に豚のように(本人には言うなかれ)飯をかっ食らっている相手がいれば無理からないことだろう。やっぱ隣に座れば良かった、と真向かえに席を定めたことを後悔しているらしかった。
「おう、親父」
ガキは食っとけと顎でしゃくりつつ、親指で例の張り紙を指す。分厚い太字で書かれた文句が一体何を意味しているのかを片言で尋ねた。
「ありゃあ、バレンタインの景品でさあ」
あまりに聞きなれない言葉に男はわずかに目を見開く。その奥に座っていた少女が代わりとばかりに割って入った。
「お酒が当たるのー!?」
一瞬で注目の的になったことに機嫌を良くした焼肉屋の大将は、かわいらしいお客にとうとうと説明をし始めた。元気のある娘は誰もがかわいいと思っている年頃、つまりは親心であるのだ。
「一本極上の酒が手に入ったんでさぁ」
木の葉では滅多に手に入らない特上の大吟醸。つまり等級がさらに上と言われる『極吟醸』のラベルだと胸を張る。時季が丁度バレンタインだというから、日頃の感謝の意味を込めて応募してくれたお客に一升そのままを贈呈しようと決めたらしい。折角手に入ったものをわざわざ他人にくれてやるのではなく、店に商品として出せば良いだろうと思ったのだが、やはり商売人として客に対する感謝の念は強かったらしい。主はカウンターから身を乗り出し、髭の大男の影に隠れそうな少女に、お父さんにどうだい?と誘いをかける。
「ねーねー、それって競争率どれくらいー?」
一番美味いと聞かされて、娘心に親に対する情が湧いたらしい。俄然乗り気で応募方法が書かれた用紙に目を通す。
「木の葉じゃ滅多に手に入らないっつってんだから、高いに決まってんだろ」
忍者になるのとどっちが難しいんだろ、と本気で顔をしかめる少女に呆れ顔を見せつつ、シカマルは彼女の手の中の用紙を盗み見る仕草をする。くだらないと思いつつも周囲を無視できないのは、班のリーダー格の悲しい性か。
ふうむ、とくわえた煙草を口の端に除け、いのが持っているのと同じ紙切れを眺める。
「先生も応募する気ー?」
何気なく投げかけられた問いに、男は黙秘を貫いた。
それから人街へ出向く用事を受け、郵便局に足を運んだ。一般に流通している書簡や葉書の類いは忍者が居住する区域では手に入らない。隠れ里には彼らの街と一般人の街の二つがある。他に裏街というきな臭い通りもあるが、上忍のようなランクの高い仕事を引き受ける連中でない限りは一生出向く必要のない場所を除けば忍街と人街の二つが里に住まう人間にとっての主な生活の拠点になった。無論、外食の店は人街にしかないのだから、郵便が届くのはそこの範疇だけになる。忍び同士やその他の場合、それ専門の機関が忍者の組織で設けられているので、あまり訪れる機会はない。ゆえに葉書自体は手製でできたが、貼る切手というものは買いに行かねば手に入らなかった。小さな出張所のような小屋から出ると、軽い足取りで跳ねるようにこちらへ向かってきた少女とばったりと出くわした。
「アスマ先生、どうしたのー!?」
里の人街と火の国の国境付近にある場所へは、誰も滅多に往き来しない。忍びとなればその通りだが、普通の両親を持つのが大半である同業者ならば、子どもの時分に親の手伝いを兼ねてここへ来ることもあるだろう。
だが、大人の忍者は目立ちすぎた。仕事のついでだということで忍び服を着込んだままだ。無論郵便の窓口の係りにも驚かれはしたが、私用と言っても切手を買うという些細なことだったので怯えられることはなかった。里の中心に住んでいる一般人は忍者の姿には慣れているが、離れにいる人間にはやはりぎょっとするものがあるのだろう。別段、姿形がいかにも怪しいという理由からではないはずだ。
尋ねられたことには答えず、相手の用事を無言で問う。無愛想は班の連中で慣れているのか、気にかけずいのは明瞭な答えを発した。
「家にあった葉書じゃ足りなくて、買い足しに来たのよー」
年賀状用で余っていた葉書も使ったんだけど、と注釈がつく。聞かずとも何のためかは猿飛自身がわかりきっていた。一体どれだけ書くつもりなのか。周囲のイベント事には頓着しないようで、そのくせ一旦手を出せば最後まできちんとやり通そうとする姿勢が見える。相変わらず真面目な奴、と思いながら頭に手を乗せようとした瞬間、本心をズバリと言い当てられた。
「先生も応募するんでしょー。でも自分で消化するならフェアじゃないと思うなあー」
当選した人が自分の大事な人にあげるから良いって、焼肉屋さんが企画したのに。
「誰もオレが自分で飲むたあ言ってねぇだろうが」
へええ、と少女は驚きの声を上げた。目を見開き、上空の大きなガタイを見上げる。
「アスマ先生のお父さんにってわけー?」
バレンタインは男女のイベントだ。その発想は違うだろ、と内心ツッコミつつ、猿飛は簡素に答えた。
「そんなのはいねえよ」
相手の短い文句に他界したのだと悟ったいのは、ごめんなさい、と小さく舌を出した。
「わかった。お詫びに私がもし当選したら、お酒は先生にあげるー」
あとは煮るなり焼くなり好きにしてーと言葉にする。必要だったんじゃねえのか、と彼女の父親のことに水を差し向けると、くすりと笑みがこぼれた。
「うちの父親なら娘の私からってことなら、何をあげても喜んでくれるものー」
安上がりだな、と感想を洩らすと、そうよねーといのは照れくさそうに笑った。
かくして勝負必勝の意気込みが天に通じたのか、3日で560通の葉書を書き上げ当選したいのの手から、木の葉で数少ない極吟醸の銘柄の酒が猿飛何某に手渡された。立派な金の箔が掘られた渋い色合いの箱を安っぽい風呂敷で包み、片肩にかけながら男は夕刻の道を歩いた。
この程度じゃものの数時間も持ちゃしねえな。
どんな美味い酒でもあいつの飲みっぷりを止める効果は期待できないだろうと、白い顔に浮かぶ紅の笑みを思い浮かべて口元を歪めた。
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