何であんなものを持っているのだろうかと、取り出しては元の場所――ポケットの奥深くに戻されるそれを眺めて、紅は捨てないのかと目で問う。
それは今日に限った話ではない。
気が付けば…という程度ではあるが、何度も目にした光景だ。
自分にとってはほとんど用の無いそれは、相手にとっては日常の一部なのだろうと理解しているつもりでいたが、使えなくなっているはずのものでは用を足さない。だからどうして、それがいつまでも同じ場所にあり続けるのか、彼女には不思議だった。
何度試しても火の点かなくなったライターなど。
はじめは、何某かの拘りだと思ってもいた。
このライターでなけりゃなぁと、あの顔が云うのなら理解はできなくても納得はできると。
だが、そうではない事にすぐに気付く。
ポケットから出されたライターは火が点くかどうか試されるでなく、ただ出されて、それだけだ。代わりに煙草に火を付けるのは、飲み屋でもらったマッチだったりライターだったり、それもない時は不謹慎な事に火遁の術だったりもした。件のライターは出されて、それだけ。おやと眉を動かす時もあれば動かさずに苦笑する時もあるが、捨てたりせずにまたポケットにしまいこむだけ。
それがレア物だというのならば、点かなくなったとはいえ持ち歩くのは理解できないでもないのだが、素っ気無い100円ライターでは疑問に思うだけだ。
だいたい…と、またしても同じライターを取り出しては別のを探る手の動きを見て考える。
だいたい、自分にとって必要なものならば、それなりにいいものを使えばいいのだと。
詳しくは知らないが、今はオイルでもガスでも交換できるものも多いと聞く。であれば、そういったものの中から気に入った一品を選びだせばいいのだと。
それとなくそういった事を云った事もないではないが、面倒だと返されるのもいつもの事だった。
火ぃなんざ、点きゃあいいんだよ。
至極ご尤もだとは思う。重要なのは煙草に火が点く事であって、火を点けるという行為ではない。結果として煙が出れば過程などはどうでもいい。
だったら尚の事、用を為さないもなど無用というものだろう――と、紅は云いはしなかった。云ったところで、相手はそうだなと短く返し、やがて会話を忘れたかのように――或いは完全に忘れて――ポケットを探るのだと知っていたからだ。
今、目の前で繰り返されているのと同じように。
充分に変人の域に入っているんじゃないのと、結局はどこぞの飲み屋のマッチで火を点ける男を眺めていると、これで終いかと空になった箱を捨てる姿が映る。
マッチにしろライターにしろ指定席に居場所を作ってやったもの以外なら簡単に捨てられるのに、あれだけが特別なのか。それとも、ただ動物の習性と同じく「そこにあるべきもの」となっているのか。
まったく訳が判らない。
何だという目を向けられて、別にと言葉にしないで返す自分も判らない。
二人揃って用もないのに、座り心地のいいわけでもない上忍部屋のソファに座り続けている理由も、判らない。
そろそろ日も暮れようかという頃合なのに。
腹が減ったなという呟きに、そりゃあねと肩を竦めて見せたのは、暮れる日の残像が赤く窓を染め上げた時だったろうか。
この男にしては少なめの喫煙量に気付いたのも、その頃だ。
そういえばマッチもこれで終わりだと云っていたはずだ、いい加減火種も尽きたのかもしれないと、紅は窓の外へ目を向けた。暇だったここ数日を振り返りつつ。
暇――というか、奇妙に周りの空気はざわついていたが、自身と相手は暇のようだった。ぽっかりとあいた時間を持てるというのは指導上忍の特権だと思うが、その空き時間を些か持て余しかけている自分というのは不慣れなのだと思う。
馴染みきれないと思う部分が、不慣れなのだ。
この、穏やかなのだろう時間に馴染みきれないと思う部分が…
「何だ、この後用があるんじゃねぇのか?」
呟きよりも明確な発音で告げられた時、何でよと片眉が跳ね上がったのは自分でも意外な反応だったが、云った相手が何となく意地悪げに笑ったのも意外な事だ。笑ったと云っても口の端が少し動いた程度だが。
「じゃ、これ、行くか」
これ、と手でぐい飲みを傾ける仕草をされて、いつもの所でいいわよねと腰を上げると、いつものところはちとマズイなぁと髭を撫でる。何がマズイのかと立ち上がった相手を見上げると、だってなぁと歯切れの悪い呟きが落とされた。
「お前、気付いてねぇかもしれなぇけどな」
賭けの対象になっているぜと言葉が続き、何の賭けよと首を傾げて見せれば頭を掻きつつ示されたのはポケットから覗くピンクの紙で包まれた小箱だった。子供向けの駄菓子屋あたりでよく見かけるその箱に、珍しい取り合わせだなと思うと同時に、今日はそういう日だったのだと改めて思い知る。道理でここ数日周囲がざわめいていたわけだわと、その程度に。
「あの飲み屋でな、今日お前が誰を連れて来るかってな賭けにされてる」
だから何よ。
重ねて態度で示してやると、別にと返す男の機微など別に知りたいとは思わなかった。
だいたい、今更だろうと思う。
飲み歩く時には必ずといっていいほど一緒のくせに、何を今更と。
そこに相手の意思ばかりではなく自分の意思も加わっているのだと気付かないのだとしたなら、本当にこの男は鈍い。それとも相手のこちらに対する認識と、自分の相手に対する認識に、微妙だが絶対的な差異があるという事なのか。
それは何とも情けないと思う彼女だったが、またポケットを漁る手に気付いて、それも情けないと眉をひそめた。
いい加減に捨てなさいよ。
云い掛けて、ふと気付く。
去年のこの日。
同じように火を探していた相手に、たまたま持っていたそれを差し出した自分――
何だと、呆れたような安堵したような、どちらともとれる吐息を漏らした時には、すでに背が向けられていた。
これ以上もなく頼もしいと思う時もあれば、あまりの動きの無さに焦れて押してやりたくなる時もある、多くを語ろうとしない背が。
もう少しその背も口も動いてくれれば判りやすいのにと思いつつ、紅は背を追った。
いつもの場所で充分よ、あそこは酒も料理も美味しいし。
云いながら並ぼうとすると、片手がまたポケットをまさぐっていた。
癖になってしまっているその動きを目で追って、ああと呟いてまたポケットに押し込まれようとするそれを取り上げると、目の端に訝しげに動く目が映る。
「新しいのあげるから、今日はそっちのおごりよ」
何云ってやがる。
そんな呟きが耳に届いたような気がした。
苦い笑いと共に――
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