耳朶


 なんでもかんでも、ということではなかったが、女が口に何かを咥えているのは良いもんだ。例えそれが血生臭いものであろうとも、少々度肝を抜かれる。
 背筋をあわ立てるような、驚愕にも似た感慨を抱かせるのは、女ならではの魅力というべきものだろう。
 けれど、目の前に立っていたのはそんな在り来たりのものではなかった。
 休憩室の椅子の前に立ち塞がったのは、唇に竹で作った耳掻きを咥えたくのいち。しかも少しは恥じらいというものを見せれば可愛げがあるだろうに、すらりと伸びた足を左右に開いた体勢だ。これで両手が縊れた細腰に添えられていたら、仁王立ちだと表現できる。意図することは恐らく、『それを受け取れ』ということなのだろう。
 何だってこう。
 頭の中で溜め息が漏れたが、外へは出さなかった。
 本人としては行使力を意識せずにやって来たつもりなのだろうが、待ち構えていたように見下ろされては自分が目的だと思われても無理はない。他の誰でも構わないのなら、どっか別の奴を当たってくれと言いたかった。しかし、運悪く周囲には誰の姿もない。受付所の混雑を避けて週の中頃の今時間にやって来たのが、功を奏したのか否か。
 厄介事は御免だと腹の中で呟きながら、持ち上げた視線の先の白い手が、漂白された包帯に包まれていることに気がついた。
 そういや、ガキを助けてヘマをやっちまったとか言ってたな。
 人づてに聞いたことなので法螺話かと思ったのだが、どうやら真実だったらしい。
 怪我をしているのは右手。持ってきたのが耳掻き。
 思考を巡らせなくても、頼みの中身が窺えた。
 物言わず大きな掌を開く。眼前で広げ、咥えているものを寄越せと命じた。
 紅い唇をもし物に封じられていなければ、きっと女はこう話しただろう。
 悪いね、と。
 けれど言葉はなく、内側の白い歯が覗いたかと思えた瞬間、ぽとり、と指に落ちてきた。そこでようやく、自由になった口元が言う。
「悪いわね」
 本来なら唾液や紅がついて汚いはずが、細心を払ったのだろう、湿り気一つついてはいなかった。
 男の手には小ぶりだが、柄の部分に和紙が張られた竹細工は、くるりと指で回すと容易に使い勝手の良さを窺わせた。
 物を相手に渡しておきながら微動だにしない影を訝しみ、上部を睨み上げるようにして見上げると、左手が小刻みに痙攣している様が目に入った。
 状態を見るに、神経を痛めているようだ。肘をぶつけたときに感電したような痛みが走るが、それを故意にやられたのだろう。任務が明けても今だ痺れと激痛が取れないのなら、厄介なことだ。総じて判断すれば、両手が塞がっているから仕方なく他人の力を借りに来た、ということか。
 取り立てて知りたくもなかった内情を察し、ばんばんとベンチの隣を叩いた。日の光が薄く差し込めた空間に、小さな埃が舞った。
 ここへ横になれとの意思表示であることは明白。
「くのいちの休憩所には誰もいなくてね」
 緩い軋みとともに少し間を空けて横脇に体重が落ちる。足を揃え、履物を脱いだ。
「言い訳なんぞ聞きたくねえ」
 本心を零し、ちらりと肌白の面を一瞥した。
「身体がそんなんじゃ、不自由じゃねえのか」
 するとくすりと喉の奥で笑う。
「アンタの世話にはならないわ」
 今はなってるじゃねえか、と口中で毒づきながら、ざらりと膝の上に投げ出される黒い波を見た。波間を魚がたゆたう気持ちがよくわかる。そんな想像を抱かせるほど豊かで艶のある羽は、眼前で無防備に広がった。
 一見重そうにもみえるそれらを支えていた卵型のうてなが、黒い羽毛の中から浮き上がる。片手で簡単に手折ってしまえるような、女独特の首の細さが光を含み視界に揺れる。傷一つない身体、というのは忍びには無縁の代物だが、その場所にだけは黒子も何もないことを心の隅で安堵した。折角綺麗に生まれたモンを、わざわざ傷つけるんじゃねえぞ、と無言で念じる。
 お目当ての箇所がよく見えるように、長くうねる髪を掻き分けた。手入れが行き届いているのか、絡まるということがない。むしろ素っ気ないほど指から逃がれ、さらさらと他の連中に倣う。侵入者に対して未練もへったくれもない。さすがはコイツの一部だ、と思う。
 しかし、筋張った硬い男の膝などに頭を預けて、相手は不都合を感じていないのだろうか。ただでさえ煙臭いのだから、匂いが染み付くとは思わないのだろうか。
 あとでぶつくさ文句を言っても取り合わねえぞ。
「アスマ」
 不意に声がかかる。
「アンタさっきから何をぶつぶつ言ってるのよ」
 身じろぎもせずに背後を冷静に窺っていたらしい。他にやることがないのだから仕方がないが、ち、と心中で舌打ちした。
「性分だ。聞くんじゃねえよ」
「変な男ね」
 自分のことを棚に上げて、人の格好や仕草については口うるさく観察している。無精とも思えるこの男は、付き合う女のことにはいちいち細かい。ああしろとかこうしろとか、実は頭の中で言いたいことが山とあるのだろう。けれど実際は言い出さないのだから、無視していれば問題はない。そもそもこちらがどうにかして落ち着くという衝動でもないのだろう。
 確かに、『性分』であると言う以外、適切な表現は他にないだろう。
 難儀な性格だわね。
 太い指を駆使して耳孔の垢を綺麗に取り除いている上空の人物をちらりと流し見る。
 面倒だと嘯きながら、本当は世話を焼かずに入られない質だということも見越している。その上でかまってやらなければ駄目だと思わせる好人物と評したら、相手はどう答えるだろう。あまりに想像が難く、恐らくこれからも言い出すことはないだろうが。
「お礼に何をすれば良いのかしらね」
 ぼつり、と唇から呟きを漏らすと、軽くあしらわれた。
「似合わねえことを」
 それより、と言葉が続いた。
「昨日の焼肉で余った肉があるから、食わせてやるよ」
 家でやったの、と思いながら、食材を集められるだけの手腕があるのだから店で食べるよりは安上がりよね、と考える。生徒に大食漢を抱えた身では、男といえどそろそろ懐が危うくなってきたらしい。
「お金は払うわよ」
 食事の面倒まで看てもらうつもりではなかったと漏らすと、やはり先と同様、鼻で笑われた。
「オマエとの貸し借りなんざ、当に忘れちまったぜ」
 確かに。
 合点し、紅はくく、と喉を鳴らした。
「ならこれからもよろしく、ね」
 今更今日をゼロに置き換えて、改めて貸借の計算などしたくはない。お互い数字に関しては大雑把だとの風聞もある。殊に、限られた人間に対してならば、人付き合いなど自分にとってはこんなものだろう。
「ま、こっちが両手塞がりになったときにゃ」
 頼むぜ、と言葉を飲む。
「覚えていたらね」
 笑みを含ませ、緩慢な時間の流れに瞼を閉じた。
 露であるからこそよく通る男の肉厚な声調に些かの不快も感じず、意識は自然と瞑られた。
 花弁のような耳朶を残し寝息に揺れるその肌を、見下ろす側はどのように眺めていたのだろう。


作者■夕日家下僕
2003.04.29UP

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