「え、もうこんな時季なの」
任務報告に立寄った受付所から帰る寸前、廊下の掲示板に無造作に飾られているどこぞの酒屋の広告の入ったカレンダーの前で立ち止まる。ぺらりといつのまにかめくられ、破かれたのだろう先月までのページはすでに失せ、目の前にあるのは意識しなくとも季節感の溢れるどこぞの国の風景。
こんな偶然がなければ、年月というものを指折り数える習慣のない人間にとっては、一生気づくことがない。ふとした拍子で視界に入った、誰のものでもない生活雑貨に目を留め、眠っていた実感がようやく呼び起こされるのだ。
咄嗟に頭に浮かんだのは、参った、の一言。
表情には出ていないと思ったのだが、それは随分甘い見解だったようだ。
「先生、どうしたんですか?」
彼女とともに報告に来ていた生徒に声をかけられる。
それに二言三言生返事を繰り返し、数秒間を置いてからやっとのことでその場を離れることに成功した。それでも、突如その身に降りかかった現実から受けたダメージは殊の外大きく、何度か問われては何を考えているのか自分でもわからないような返事をすることくらいしかできなかった。
同時に、やれやれ、と思う。
別段、もうすぐだということを予測できていれば、事態を好転に向かわせることが可能な類いの代物ではない。思い悩んだところで、徒労に終わる。ならば、どうやり過ごすか、が最大の難関であるということは自ずと知れた。
教え子たちに用が残っていると言い、建物の入口の前で別れを告げる。明日の予定を確認してから小走りに散って行く小さな影を見送りながら、意を決して上忍専用となっている階に足を向けた。
彼らの”専用”だけはあり、そこに辿りつくための入口には表立った目印はない。
階段で向かうことのできる場所でもなく、かといって何か細工が施されているのでもない。
他を締め出すように、いちいちトラップを仕掛けていたら、侵入者に対して親切に『ここには何かあります』と告げているようなものだ。そう滅多やたらと外部の人間がここに忍び込むことはないが、他国の”依頼主”も大勢足を運ぶことが多いことから、ある程度の『目晦まし』は用意されている。
とはいえ、誰も正攻法で自分たちがくつろぐべき階へやってくる者はいない。各々好き勝手に、彼らの手法で『潜り込む』のだ。上忍になったら伝授されるような技法でもない。勝手に忍術を駆使して入りこむ者もいれば、堂々と外の窓枠を伝って登場する者もいる。幸い、そこに辿りつくまで同じ上忍と顔を合わせたことはないが、忍び込む最中はあまり見られたくないとの思いがある。
誰が正しい方法であるわけではないし、自身のやり方が少し変わっているだろうという、ささやかでもっともらしい自覚のためだ。
大体、上忍という身分の人間は、あまり互いに挨拶を交わさない。けじめをつけるのが面倒だというか、常に他人を意識の外に置く。空気のような、いないものでありながら、あっても不思議を感じさせない対象として放置している感がある。それに慣れるのも、自身の順応性を試す材料になるのだろう。そして、上忍となった者はその現実に適合して当たり前の存在なのだ。
探していたわけではなかったが、『用』のあった人物が向かい側から歩いてくる姿を察知する。予想していたとおり、というか、些か物珍しい恰好をしていた。生憎周囲にはそれに目を見張るような酔狂はいない。幸いしていたが、ここに来る以前はどうだったか。あまり、頭を巡らせないでおこう。
「押忍」
くわえた煙草と唇の隙間から、ぼそりと呟く。片言の挨拶。耳障りな音を立てていた、スーパーの袋が目の前でようやく静かになる。両手をズボンのポケットに突っ込んだまま手首にそれを引っ掛けていたので、歩く度にがさがさと鳴っていたのだ。
小さく息を吐きながら、紅は答えた。
「もう少し量を減らしてくれれば良いのに」
思わず呆れたような声が洩れる。片手を腰に当て、ビニール袋の中身を見下ろす。
わざわざ確かめなくとも、その内容が野菜や肉の、とにかく食物であることは外見だけで知れる。何を目的にしてか。それは、あまり真正面から尋ねたことはない。そうすることが億劫だというより、この男だから、という諦めに似た印象が強い。
嫌がらせとの認識はないのだが、なぜこの季節になると相手が色々食べ物を持って会いに来るのか。正確には『やって来るのか』。任務や私用でどこにいようと、里の中に帰ってきてさえいれば必ず男は袋に食物を山と詰めてそれを渡しに来るのだ。
その慣習が始まったのはいつからだったのかは覚えていない。懐がひもじいわけでも、食料に不足しているわけではない。ただ相手の理由らしき言い分としては、住処の周りにある畑から勝手に出来ているものを持ってきているだけだと。
あまり多くを語らない性分と、あまり立ち入ったことを聞く気のない性格が相乗したために、事の真相と言うのは未だに謎であったりする。きっかけは、ぼやけた思念の奥にある。そんな気がする。
ただ、なんとなくではあったが、それは自分が上忍になるかならないかの頃から始まっていたようにも思える。
根拠に関して興味がないためそのまま放置されているが、目下紅にとって重要なのは、この現状に如何に対処すべきかという現実だった。
紅自身は、自分の体が決して『細い』部類には入らないことを自覚している。骨格がそうなのか、身体の筋がさほど減らない構造になっているのかは知らないが、食べればその分増えるし、摂取したものは恐らく際限なく肉と変わるだろう。タッパがあるだけ見栄え的にはそれほど気にはならなかったが、数値にすれば明白だ。
自己管理というものが最低限の職務であるのが、忍職に就く身としては当然だとの認識はあるが、それ以上に肉体の管理には人一倍気を使う質だ。相手が何の意図もなく食料を持ってきてくれるのは構わないのだが、それらを処理する身体は年々その昇華可能な量を減らしてきている。過度の摂食を戒めている以上、そろそろ明確な答えを出さねばとすら考えているのだ。ただ、この類いの切り出し方には些か免疫がない。二の足を踏む理由はそんなところだ。
喜ばしくない土産を持参した当人は、見下ろす先にある表情があまり冴えないことに気づいているようだ。敢えて会話を急がず、沈黙のまま佇んでいる。
ここで何の気遣いもなく一方的にべらべらと喋られたら、その勢いを返すようにして本心をぴしゃりと言い放てたかもしれないのだが、見守られているのでは余計に後ろめたさを感じ、それも適わない。
いつも通り出てきたのは、半ばヤケになったような投げやりな口調。
「アンタも半分は協力してよね」
遅まきながら反応が返り、男がにやりと口を歪めたのが気配で知れた。
家に迎え入れ適当な場所に座るよう勧めると、簡単に辺りを見回し、居間に入ってきた位置に座りこむ。入口付近に居座られては出入りの邪魔になるのだが、いちいち注意するのは面倒なので省いた。
幼い頃は何でも自身の定規で測る癖があったため、『口うるさい』と異性の兄弟には言われたものだ。だが時を経るにつれ、『そういうこともある』と他人に対して妥協を見出せるようになっていた。
細かい性格の人間は極端に自分と逆のものぐさな人間とぶつかると、過敏に反応して自分の殻に閉じこもるか、開き直ってないがしろにするかのどちらからしい。どうやら自分は後者に落ちついたらしく、もし良く知っている兄がその場に居たならば『オマエも変わったもんだ』と感嘆さえしたかもしれない。
だがその手の称賛は、嫌でも年月が嵩になっているのだということを思い知らされて、嬉しくはないことだったかもしれない。
などと尽かぬことに思いを馳せつつビニール袋に入った中身を台所に広げれば、多種多様な秋の幸が転がり出してきた。量は大方どの程度か知覚していたが、種類が多いということは全部を使い切らないとならないわけだ。必然的に料理の品数も増え、胃袋に入るだろう規模も容易に想像できる。種類が少なければ持って帰ってもらうなり、他人に分けるなりできたのだが、どうやらその手は使えないらしい。あるいは、同じモノでは飽きるだろうとの男の繊細な配慮があったのかもしれない。
しかもどう見てもその中には、畑には絶対に転がっていない、店で買ってきたと思しき食品まで入っている。
「アスマ」
ぼつり、と洩らし、振り向く。
「何なの、これは」
黒髪の美女の尖指には相応しくないような、赤い塊がある。しかも、パックされたセール品ではなく、生臭さが外に洩れないよう紙で包まれた極上の品だ。
一般には面倒臭がり屋として知られている男が、殊料理と趣味の煙草に関しては極めて細かく豊富な知識を持ち、時間も惜しまず良品を求めてさすらうことは、意外と知られていない。だが、食料品で良いものを見つけ出す行為は、自分が作るためではなく、誰かが料理するためにすることだ。手前の食べるものなら、1週間同じ品目でも全然飽きないのだということは、アカデミーに通っていた頃、相手の昼食の中身を知っていた間柄である者にとっては今更驚くべき事柄ではない。
美食家ではないくせに、モノの知識を豊富に備え、良質な品物を手に入れるための労力は惜しまないというのは、はっきり言って紅には理解し難い思考回路だった。
男は変人。
そう思うしか、異性の自分には納得が行かないのだ。半ば乱暴に結論付けている。一生かかってもわからない、と思っているのは、身内に本当に理解に悩むような男がいたためであり、決して浅はかな空想からではない。
思わず値段を吟味して、さらに舌を巻く。恐らく市場では100グラム2〜3千円はする肉だろう。そんなものをどこから、というか、購買欲はどこから生まれてくるのか。買いに出向こうとする動機は漠然とはいえ理解するものの、その上大金をはたいてまで購入しなければならない理由を考えれば、さらに不可解だった。思わず本音が洩れる。
「何で男は、こんな無駄なことに金をかけるのかしらね」
無駄な、と言われた本人は鼻白んだようだった。思ってもみなかったことを指摘され、わずかに臍を曲げたような声が胡座から横臥に転じた背中から返る。
「野郎は昔っから無駄なことに命を賭けんだよ」
そういうもんだろ、と同意を求めるのは、女に説明するのは面倒だと早々に放棄したような印象だ。根底から理解を得られないことがわかっているからこそ、その存在を必要ともする。対極であり続ける対象すらも、理念として腹に据えた上での言だったかもしれない。
つまり、男にとっても女は永遠の謎なのだ。
結局、話のオチはそこに行き着く。
これに関する問答はもはや無用だと切り捨て、互いにそれ以上言葉を交わすことはなかった。
「紅。オマエ腕を上げたんじゃねえか」
適当なことを言って味噌汁をすする。手伝いもせずできるまで横になっていた人間を胡乱そうな目つきで正面から眺め、紅と呼ばれた女は完成させた料理に箸をつけた。
食前酒はすでに干され、卓上に並ぶのは湯気を放つ出来立ての料理が乗った皿だ。全部で9品目。これだけあっては、小分けにすることは家の主にとって甚だ有意義ではなかったため、取り皿の他は4つの大皿で済ませてしまった。食器の数を減らしたのは、卓袱台の上に全部納まりきらないだろうとの理由もある。
「誰かさんのおかげでね。文句を言われない程度には上達したわよ」
その誰か、というのは、もちろん自分の作ったものを食す他人である。それなくして、多忙を極める身の上で食物を美味しく調理しようという気にはなれまい。根っから食べ物に愛着を持っていない限りは。
満足したようにわずかに頬を歪めたまま、次々と料理を頬張る。食べっぷりの良さは、そのまま男の良し悪しを判断するバロメータだ。人の作ったものに小うるさく注釈するのは、決して親切心からではない。申し訳なさそうにいつも一言だけ忠告していた男もいた。相手を慮っての態度なら、その程度であれば悪い気はしないものだが。
「アンタなら自分で作った方がおいしいんじゃない?」
何気なく尋ねる。美味い食材を選べる眼力があるのなら、それを最も有効に調理する方法も自ずと心得ているのではないか。勘は十中八九当たっている、との自信もあった。
「んな横暴な真似ができるわけがねえだろうが」
さも呆れたと言わんばかりの口調で突き返されれば、何が横暴なのかと問いたくなるものだ。
「半々だから良いんだよ」
言葉を繰り出すことすら億劫そうに、淡々と繋げて行く。
「全部が全部仕切ってみろ。窮屈で息ができなくなっちまうだろうが」
例えば。
言われた単語を咀嚼して、脳裏に具体的な例を思い浮かべる。
そして、次に浮かんだのは呆れるくらいすんなりと事実を納得した感嘆だった。間の抜けたように、ははあ、と呟く。おおよそ『女らしく』ないしぐさであったことは認めるが、それが正直な感想だった。
どっちつかずでぐらぐらしているような人間を、一定の場所に留まることで安堵する部類の者は”不実”と評す。だが、安定を厭うということは、常に変革に対処できる心構えでいられるということでもある。
確かに心身も立場も不安定ではあろうが、そこでも生き抜けるという強さを兼ね備えている。強かであり、同時に危険と紙一重であることを楽しんでもいるのだろう。そして、その理念を精神の面でも実行している。決して自分の意思を他者に強要することはなく、当たり障りのない程度で妥協する。世界の調和がそれで成り立っているのだということを実践しているようでもあった。
だが恐らく、この気概というものは家庭を持つことによって均衡を失うのだろう、とも思えた。強固な礎の上に座りこまなければならない立場になってしまえば、どっちつかずというスタンスではいられなくなる。守るべきものを内に抱えてしまったとき、人格という内部の形は、硬化してしまうのか、あるいはより深みを増しながらそれでも流動を保っていられるのか。
しかし例え未来像が不確かであれ、男の思考は賞賛に値するものだった。
一方的になりすぎることが生む、非生産的な側面を的確に捉え、表わした。
言われなければ気づけぬモノの真理だ。少なくとも、紅はそう理解した。
「アスマ、アンタは頭が良いわね」
くすりと微笑を添えれば、わずかの間を設けたのち、ぼそりと呟く。
「よせ。照れるじゃねえか」
もがもがと白飯を口にかきこむ振りをして台詞をよく聞こえないよう隠す素振りを見せる。
『らしくない』様子にたまらず体を折ると、くそ、と小さく舌打ちする音が響いた。
こうなれば明日からしばらく自己訓練のメニューを増やそうと心に誓い、紅はためらうのをやめ、素直に食事を続けることを決めた。
皿を全部空けるのにどれだけ時間がかかるか。
互いに暗黙の競争を誓い、静かににぎやかな食卓の和は続いた。
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