もらったのよと、紅が持っていたのは小さな丸い籠だった。
丸いというには多少の難があったが、楕円というほどでもない。
使い込まれた渋茶色したその籠は、口の部分の狭さに比べて底が深い。魚篭に似ているが、それほどの奥行きも無い。まあ、どこでも見かける程度の小型の籠だ。
その中に橙色と黄を混ぜ合わせたような丸い実が。
まるでアカデミーに入りたての子供のように丸い実が、ころころと。
「キンカン」
何だと目線で問うアスマに、籠の中の実を幾つか手にとって紅は差し出して見せた。
陽に焼けにくいのか、紅の手は白い。その白い手が柔らかい陽射しの色に似た実を掴み取る様は、やさしいものだった。
そこがアカデミーに繋がる廊下である事を一時忘れて、アスマはその手の動きを追っていた。
日が落ちるのが早くなり、まだ夕方には早い時間だというのにその廊下を照らす陽の色は籠の中と似た色で。
茶の籠もその光の中では、幾分華やかに見えるから不思議だった。
もっと不思議だったのは、紅の手だったが。
陽の色にも実の色にも染まらない、その白い指先だったが。
アスマが実を眺めるだけで手を伸ばさなかったので、紅はほらと目の前に突き出すようにして実を示す。
柑橘系の酸味を含んだ甘やかな香りが鼻腔をくすぐり、落ちつかねぇなとアスマは顔を顰めた。
でも綺麗な色でしょうと、笑って紅はそれを籠に戻した。
もらったのよ、いい時期になったからって。
どこでとも誰からとも紅は云わなかったが、アスマはそりゃ良かったなと煙草を燻らせた。煙の向うで紅が少しばかり眉をひそめたが、構うまいと天井目掛けて煙を吐き出す。
乾いた喉に些か煙が染みるようだとふと思った時、咳とも何とも云いがたい奇妙な音が喉から漏れた。
「風邪?」
云う紅の顔には書いてある。吸い過ぎなのよと書いてある。
それを知りつつ、こう見えて繊細な体でなぁと返すアスマの顔にもまた書いてある。
見逃せ、と。
「明日、あげるわ」
紅の手が籠の上でキンカンの実を弄ぶのを眺めつつ、何をくれると云ったのか聞き逃したのだろうかとアスマは目を向けたが、紅はそれじゃあときびすを返した。止める間もな
い、そして止める必要のない、絶妙のタイミングで。
視界の中でどんどん小さくなっていく背を見送って、そろそろ風が乾いて冷たい季節になりやがったなとアスマは煙草をもみ消し、同じように廊下に消える。
紅とは反対の方を向いて――
翌日、陽のよく当たる椅子にどっかりと座り込んだアスマの目の前に、紅は小瓶を差し出した。
面倒だなと目を上げたアスマの目に飛び込んできたのは、鮮やかな橙色。
陽を弾いて光る蜜柑色したその瓶を掴む紅の手はやはり白いと漠と思いつつ、もう一度視点を瓶に戻して――何だこれはと、アスマは嫌そうな顔をした。
橙色した瓶ではなく、橙色した実を詰め込んだ瓶。
実に、砂糖なのだろう白っぽい艶やかさを纏ったキンカンの瓶。
「あげるって云ったでしょう?」
云う紅の目は楽しげだった。それは誰が見ても判ったろうが、今は自分以外の奴が見ていないという事にアスマはふと頬を緩めた。
ささやかな楽しい嫌がらせであったとしても。
してやったりと笑む目元を見るのが自分だけだというのは、悪い気分ではないのだと。
「キンカンの砂糖漬け。喉に効くから」
ガキじゃあるめぇしと思ったものの、昨日帰ってから作ったのだろうと思うとやはり頬が緩む。
どうせ男なんてぇのは、簡単な生き物なんだよと自分自身に言い訳しつつ瓶を受け取ったアスマは、貼られてあるラベルにおやという顔をし。
紅を椅子の上から見上げた。
「ああ、去年の残りよ」
効果は変わらないわと付け加えられ、ふぅんと自分の手の平に納まりきってしまう瓶をポケットに突っ込んで。
残りものねぇと煙を吐き出して。
「昨日のは焼酎漬けにしてあるわよ」
らしいなと漏らした苦笑に気付いたのか、砂糖漬けを平らげたら分けてあげてもいいわよと、返してくる紅の律儀さがまた楽しい。そして、そんな単純な言葉にまた緩む頬に、俺も馬鹿だよとアスマは失笑した。
その隙を狙ったものかどうなのか、すいと伸びてきた紅の手に煙草が奪われ、近場の吸殻入れに捨てられた。その間も、自分の目が指先を追っている事に気付いてさらにアスマは笑った。苦く。
「喉が落ち着くまでは、我慢してる事ね」
「そりゃ難しいな」
そろそろ任務だと立ち上がったアスマは、数歩歩んでから思い出したとばかりに紅を振り返った。
これの礼にと、瓶をかざして。
「こいつの礼に、胡麻焼酎ってなどうだ? 相模屋にいいのが入ったらしいぜ」
「悪くないわね」
素っ気無く返してきた紅の口元にあった笑いに、アスマは肩をすくめて見せた。
春になったらカワラヨモギの葉をどこかで手に入れて、干して紅に渡してやろうと密かに思いつつ。
お前ぇもちったぁ肝臓を労れや。
そう云って渡してやったらば、多分紅は心外だという顔をするに違いないと思うのだが。
それでもきっと、拒みはしないのだろうとと自分は知っているのだとアスマは思った。
また後でね。
背にかかる声に片手を振りつつ、我ながらいい思い付きだと思うアスマは、まだ知らない。
今夜相模屋で、二人で転がすだろう胡麻焼酎の瓶の数を――
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