伝言板にオマエの名前が載っている。
口伝えでそんな情報を耳にして、自然と足はそこへ向く。
別段気になったわけではなかったし、気のせいだと頭から無視すればそれで事足りた。大体、用件を伝言板などというレトロなものに頼らなくとも、電子機械なる便利な端末が幅を利かせるご時世だ。伝書鳩を使う方が盗聴される危険性のないことから高価なのだというのも頓狂な話だが、今時誰が使うのか知らないが、伝言掲示板などという古臭いものが受付所の一階に設置してあるというのもおかしな感慨がある。
そして当然、そこへ向かおうとする人物には、そんなものを逐一チェックするような殊勝な心がけなど当然ない。であれば、これが正真証明の初対面ということになる。今まで略式ではお目にかかったことはあれど、正式に目的としてそこに向かおうというのなら。
しかし実際はと言えば、単に人と”待ち合わせた”場所がその近辺だったからという、実に合理的な理由からだ。
時間には幾分、というか、随分早かったらしい。柱の壁にかかっている時計から察するに、まだ1時間も先だ。
約束の時刻よりも前に来過ぎてしまうというのも『ルーズ』と称すべきなのだろうか。とはいえ、待ち合わせは具体的な場所で示されたわけではなく、目的が一致した時点で『あそこで』、の一言で終わってしまったような代物だ。余計なことを言わない主義、なのではなく、もし待ち合わせている相手が見つからなかったら探せ、という横柄な態度も窺える。それがどっちもどっちなので、この事柄で口論になったことはない。
ぶらぶらそこら辺を歩いていると、季節の催し物のチラシや、特売の広告などが乱雑に張り出された掲示板の前へと辿りつく。受付所の責任者に許可を得て掲出された諸々の紙片のすぐ横に、胸の位置より下ほどの背の低い黒板がある。なぜこれを『黒板』と言ったのか。深い緑というよりも真緑に近い板の上に、塗ったような太い白線が引かれ、同色のチョークでだらだらと汚い文字が並ぶ。今日び携帯などという機種が持てはやされている時分、こんなものをまだ頼りにする奴もいるんだな、と閉口しながら、身体一つで掲示板を隠してしまうような体格の男は、それをずらっと見下ろした。
目線は擦れたような白い文字面を億劫そうに追いながら、この中のどこに自分の名前が入っているのかを探している。
伝言板には意味のないようなものも少なくなく、『アジの塩焼きが食べたい』などと、わけのわからない能書きもあったりした。そういったものを全部視界から削除して、必要そうなものだけをピックアップする。
公衆に晒されてもあまり『誰か』ということがわからないようにするのが、この手の公共物を使用するに当たっての暗黙の了解だ。二人、ないし複数の間でしかわからないような『通称』を用いて相手に呼びかけるのが当たり前なので、それがどうして自分の名前なのだと他人に知れたのか。ふと疑問に思いつつも、本名を名指しされていればそれまでか、と思い至った瞬間に思考を巡らせることをやめた途端。
「………………」
束の間、沈黙。
視界に飛びこんできたのは、○の中にア。いや、正確に表現すれば、片仮名のアの上から採点で○をつけたような書き殴りの記号が宛名になっている。
これが例の、とは確実に断言はできなかったが、他の記事を最後まで目を通しても自身の名前を彷彿とさせるようなものがなかったため、否応なく件のものなのだろうと察した。
身を屈めなければ書き込むことは不可能であろうほど、その伝言板の背は低い。おまけに垂直に立つ壁に文字を書くという行為は、普段の机の上で筆を滑らせる感覚とは全く違う。誰かの字の癖、というものを覚えていても少し異なってしまえば分かりづらいのだが、これが誰の手によるものなのかということを男は正確に把握した。
こんな、色気のない文章を書いて放置するのは、アイツしかいねえ。
文面は端的に、『今日はキャンセル』。書き手の名前はと言えば○、に『く』。今夜、ともに酒を飲もうと約束していた当人からだ。
恐らく急用でも入ったのだろうと考えたが、自然と足は受付の係が座る机へと向かっていた。無意識のうちにそこから顔見知りを探し出し、それとなく情報を聞き出す。片言で済ませられた情報交換は、伝言板にメッセージを残した者には本日割り振られた任務はないということ。直感したのは、体調不良か何かではないか、ということだ。
そういえば、昨日の夕刻、受け持ちの子どもらを従えてすれ違ったとき、髪が少し濡れていたような覚えがあった。滅多に、公式の場でない限り着用することのない忍者服を着ていたことも不可解だったが、恐らくそうなのだ。
大体見当がついてきたところで口の煙草をはずし、廊下の脇に備えつけられていた灰皿に指で潰して押し込む。
やれやれ、と。
消え行く最後の紫煙を視界に留めながら、お決まりの文句を呟くのも忘れない。
支度を整え向かった先は、すでに宵闇に紛れ、中秋の名月が顔を覗かせていた。
本来ならそれを肴に酒を引っ掛ける目論みのはずだった。最終的には約束は不履行となったことがなんとはなく、悔やまれる。呼び鈴を押しても返事のないドアから家の内部へと入ると、分厚いカーテンで外の光が遮られた暗室が目の前に広がった。
来訪者が如何なる者かを熟知していたのか、あるいは頓着していないのか。家の主は居間の横の寝室で布団を被ったまま伏せっていた。
ざまあねえな、とか。軽口を叩くような状態ではなかったのだが、気合を入れる意味でも似たようなことを言う。それに怒りを感じるならば、まだ体力があるという証拠だ。
「一体どうした」
約束事をすっぽかし家で寝ている相手を、多少咎める口調だったかもしれない。伝言板にキャンセルと書き置いていたとはいえ、もし見る機会がなかったらどうしてくれたのだろう。
かけ布団をすっぽり頭から被ったままだった『馴染み』が、もぞもぞと動き出す。気持ち良く休んでいたのに叩き起こされたようなものなのだろう。覗かせた顔は、化粧っ気がない上にあまりご機嫌麗しくないしかめっ面だった。それは、まあ。無理もないのだろう。
色気のない室内の、その枕元には解熱剤と思しき錠剤と空のコップが置いてある。大方そんなことだろうと予測していただけに、とりたてて驚くようなことではなかった。
仕様がねえ、とその場で胡座をかく。どすん、とわずかに地面が揺れたのか、横になっていた人物の眉間に、また一筋縦皺が刻まれた。
「………悪かったわよ」
声音を聞いて内心ぎょっとする。高熱によってつぶれた声帯は、本格的な風邪であることを訪問者に告げていた。こんな良い晩だというのについていないな、と素直に同情する。
「氷枕は作ってねえのか」
ざっと辺りを見回してから立ちあがる。他人が側で座ったり立ったりするだけで不快なのだろう。しゃべることすら億劫なのか、返答は返らなかった。
もともと了承を得るつもりなどなかった男は、勝手知ったるなんとやらで台所の上の棚を開き、お目当てのものを手に取る。ざ、と水が流れる音がして、冷凍庫からざらざらと氷を取り出す気配がした。
身体が辛かったために、薬を取って横になるだけで精一杯だったのだろう。どうやら昼食も満足に摂っていないらしかった。ついでだ、と合理的に割り切って、手早く氷枕を完成させたあと、改めて台所に立った。
見舞いの品というわけではなかったが、本来なら今夜勧めるはずだった銘酒の瓶を卓に置く。炊飯器の中身を確認してから、白飯を持ってきて正解だったな、と思った。材料は冷蔵庫を覗いたところ、普段よりはモノが多めに入っていたことを幸いに思う。いつもは何も入っていない箱なのだ。こちらとて買いだめするような質ではないので無理はないと思えなくもなかったが、それにしても紅はモノを貯蓄しない。本人がモノで周囲を埋め尽くすことを嫌っているのかは知らないが、買い物らしい買い物をしているところも見たことがない。
ともあれ、少量ではあったが、今回はそれを使って粥をつくることにした。飯粒だけの粥ではあまりに殺風景だという、男が他人にするのは珍しい真っ当な配慮からだというのは、本人のみが知ることで。
ざくざくと、先端が少し黄色みがかりはじめている青菜を刻み、持ってきた冷や飯とともに鍋にかける。物音をうるさく感じているのだろうが、部屋の主人は文句も言わず横になっていた。
紅が言うには、昨日の下忍班同行の任務で犬塚キバの所有する忍犬赤丸が誤って池に落ちてしまったのだそうだ。生憎、それを見つけたのが自分以外にいなかったらしく、服が濡れるのも構わず自らが水中に入り、動転し慌てふためく濡れ犬をなんとか救出したという。
しかも不運なことに辺りは田園だけで家もなく、服を乾かすことができなかったのだそうだ。ひっきりなしに生徒であるキバに頭を下げられながら、結局夕刻になってから任務の報告のために里へ帰るまで、そのままの姿でいたのだという。
自分のことに関しては、男に劣らないくらい物臭さな質である同僚に対して、下らないと言えば下らない理由に、猿飛は何も言う気はなかった。
ただ、食事中、ぼつりぼつりと洩れるだみ声で喋る相手の言葉を全部聞き終えたあと、一度だけ短い嘆息を放った。が、それだけだった。今更小言を言われたとて、紅にしても反省済みなのだろうからあまり意味はない。けれど、馬鹿だ、という思いはそう簡単に心から剥がれそうになかった。
「犬っころ一匹とは言わねえが、オマエも災難だったな」
呆れたような顔で労いの言葉を紡いでくる男の顔を、熱に浮かされているのかどてらを羽織った美女は胡乱そうな目つきで眺めた。
「アンタもこんなときに私が風邪を引いて災難だったわね」
笑う余力も残っていないのか、無表情のまま告ぐ。
確かに、折角の名月の下、家に閉じこもったまま過ごさなければならないというのは、酒の肴に風情を求める者にとっては忍びないことだろう。
なるようにしかならねえさ。
ふ、と呟き、肩を竦めた瞬間、ようやく紅は頬にわずかの笑みを見せた。平らげた椀を差し出し、もう寝る、と宣言する。つまりは邪魔をしてくれるなという命令だったのだが、相手がそこまで物好きでないことを見越しているようでもあった。
再び布団を被り、それでも今度は顔だけを出して横になった。形の良い頭の下には、烏の濡れ羽色のような黒髪が散り、氷枕が敷かれている。気持ちだけでも大分楽になったのか、表情も先程より幾分力が抜けているようだった。
一人でいるとき、どうしても自分がやらなければ、と責任を感じていたのだろう。自身がどうにかなってしまったら、誰が8班の子どもらを指揮するのか、と。
部下がいなかっとしても、それなりの責任感というものを常に携えているような人間だ。大雑把だが、自分個人に対してはいつも厳しい。一見矛盾してそうで、それでもそれが紅だった。
女としての寛容さを持ち、几帳面で自分を裏切らない。時が熟しきっていないためか、まだ込める力の配分というものが掴めていないようだったが、それでも人としての魅力が損なわれることはない。
水を張った桶に残りの氷を入れ、濡れたタオルを適度に絞る。
なるべく音を立てないよう細心の注意を払いつつ、汗が滲んだ額に張りつく髪を横に流す。拓けた白い、地上の名月を俗世の汚れた空気から遮るように、水を絞った手ぬぐいをそ、と乗せた。
筋の通った小さな鼻から寝息が届き、沈黙してしまった部屋に優しく響く。
外は晧晧とさやけき月の光がひっそりと降り注いでいるのだろう。光を受けてそよぐ草原を思い浮かべながら。密閉した室内に、心安らぐ生身の月を眺めた。
呼吸に黒髪が揺れ、静かに、平穏な闇に染め上げる。
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