土埃を多分に含んだ突風が突然吹いてきて、男は少しだけ眉を顰めた。
仕事柄、土臭い、なんていうことには慣れているも慣れていないもないから、そのにおいのせいではない。
ただ、その土のにおいのなかに別の匂いをかすかに感じ取って、その正体を判じるのに瞬間迷ったからだ。
気づいてみれば何の事はない、落ちた枯葉の匂い。
もうそんな季節なのか、と思ってみてから、そういえばとうに夏など過ぎていたことを思い出して苦笑した。
「枯れもするよな」
くんくん、と鼻を鳴らすようにして匂いをよく嗅ぎ直して、思う。
下忍を担当していると、普通の上忍任務にかまけてばかりいる時とはまた違った「時間狂い」が生じる。
上忍任務の時は、気にしている間もないほど何時の間にか時間が過ぎていくのに対し、下忍の育成をしていると、そのどこか穏やかな時間の流れに感覚が狂う。
どちらが性に合っているかと聞かれたら、昔は即答できただろうが、今はしばし考えるだろう。
そして、考える時間を持ったところではたして答えが出るのか。
そんな他愛もないことを考えて歩いていたら、ふとまた別の匂いが土と枯葉の中に混じり始めたことに気づいた。
そのどちらとも近しいものでありがなら、どちらとも遠いような感覚を覚えるそれ。
遠くからでもそれとわかる匂い。
匂いの記憶に引き摺られて、誰もが覚えるでもなく記憶のどこかに留め置いてしまう。
決して存在も形状も大きなものではないのに、不思議な強さを持っているそれ。
その匂いの主の姿形までを記憶の中から引っ張り出しながら、それを見るならば自分独りよりも誰かを連れてきたいという思いに駆られた。
記憶を共有したい、だなんていうセンチメンタルな気分になったわけではないと思う。
強いて言うとすれば、『ただ、なんとなく』。
そして気心の知れた仲間の名前と姿を何とはなしに思い起こしてみる。
カカシ。イビキ。ガイ。
ぼんやりと出てきたそれらの名前はどうも場にそぐわないような気がして、思い浮かんだ先から却下する。
「あいつしかいねぇか…」
誰も聞いてはいないのに言い訳のように口の端にそんな呟きを乗せて、男は匂いが弱まる方向へと進路を変えた。
まだ、それを見るわけにはいかないのだ。
些細なこだわり。されど、重要なこだわり。
その巨躯と豪放そうな外見からは似合わず、アスマには案外細かいことを気にする一面もある。
お前には似合わないよ、と一笑に付す輩もいるが、アンタらしいと好意的に微笑んでくれる人間もいる。
そんなところの他人の評価などどうでもいいが、良いと云われて臍を曲げるほどひねくれた人間ではないつもりだ。
だからこそ、気が向いたときには花も愛でる。
華を愛でるのは、好きなのだ。これでも。
探していた人物は案外あっさりと見つかった。
終えたばかりの任務の報告書を書いてしまおうと上忍控え室に足を踏み入れると、見知った黒髪の頭が覗いている。
「よお、早かったじゃねぇか」
その線の細めの背中に向かって声をかければ、黒髪がゆらりと動く。
見慣れたはずの肌の白さと紅の赤さ、それに髪の黒さが妙に艶めかしく目に映った。
「アンタも。…それにしても、随分土臭いじゃない」
言う癖にくんくんと匂いを嗅ぐそぶりを見せて、大仰に顔をしかめて見せる。
嫌ならしなきゃいいじゃねえか、と心の中では思いながらもまぁな、とだけアスマは答えておいた。
下手なことを言って噛み付かれてもつまらない。それよりも、この後の誘いを空振りにしたくはなかった。
「…そうね、もう収穫期だものね。どおりで畑仕事が増えるわけだわ」
「お陰でガキどもの愚痴も増えるったらありゃしねえ」
「うちはわりと静かでいいわよ、愚痴を言うのはキバくらいだから。アンタのところとかカカシのところは五月蝿そうね」
「俺のところのは愚痴垂れと面倒臭がりがいるからな。カカシのところは五月蝿いのが人一倍だ」
「いい子たちに当たってよかったわ、ほんと」
「言ってろ」
初めて担当する下忍ということもあって、紅は彼女が担当している子供たちをだいぶ気にかけているふしがある。それはそれでいいことなのだが、いつか彼らが一人前になり、どこかで散るようなことがあったら何を思うだろうか。
今そんなことを考えても詮のないことだし、普段のアスマならば考えないようなことだ。そんな思考をしている自分に、彼は唇の端だけで嗤った。
そしてそんな考えを振り払うように報告書にペンを走らせる。
「そういえば…」
まだ気になることでもあるのだろうか。こんなにひとつの話を紅が引っ張るのも珍しい。
顔を向けることで続きを促すと、書きながらでいいわよ、と言って彼女は続けた。
「どこか、花のあるような場所にでも行った?」
「あん?いのの家か?」
「そうじゃなくて、もっと………野生っぽい花があるところ」
言い方に困ったらしく言葉を選ぶのに手間取り、それでもまだしっくりくる言い方ではなかったらしい。
だが、なんとなく言わんとすることは知れて、アスマはあれのことかと納得した。
「ああ…そんな匂いでもするか?」
「そう、何だっけ…沈丁花じゃなくて」
「沈丁花は春だろう」
「あら、詳しいじゃない…ってそれくらいわかってるわよ」
あれでしょ、オレンジ色の小さな花の…とこめかみを形のよい指先で押している。
こいつが思い出せないだなんて珍しい。そう思いながら、何気ない風を装って助け舟を出した。
「金木犀」
「…今言おうとしたのに」
恨めしそうに言うが、その視線に険はない。どうやら失敗はしなかったようだ。
女というものは些細なことで機嫌を損ねたり良くしたりするもので、彼女とて例外ではない。
付き合いの浅い人間や、ただ彼女を見ているだけの人間にとってはどうやら「冷静で感情に流されにくい女性」と映っているようだが、さてはて。
「満開らしいところの近くを通ってな」
「満開。もうそんな季節なのね…でもその割には匂いが弱いわね」
自分と同じような感想を口にしてから、ふと思い当たる。
満開の金木犀の近くを通ったなら、もう少し強い匂いが付着していてもおかしくはないはず。
「『近く』を通っただけだからな。前を通ったわけじゃない」
「なんだ。見てきたわけじゃないのね」
「ま、そういうことだ。独りで見るのも何かと思ってな」
幾分遠まわしの、しかしあっさりとした答えを貰って紅は納得する。
そして、付け加えられたのがえらく遠まわしの誘いの言葉であることも同時に悟る。
戦場では思い切りのいい立ち回りを演じる男だが、こういうことに関してはてんで思い切りが悪い。
それが彼女を時に苛立たせているということに気づきもせずに。
鈍感。
「いいじゃない、独りでも。見てくればよかったのに」
赤い唇の片端をくいと上げて、意地悪く紅は返した。
「いや、だからさ…」
「だから何」
紅が強く出た途端に幾許か弱腰になる男。これがあの猿飛アスマだとだれが思うだろうか。
「だから…」
手にした煙草をしきりに吸っては吐くその行動は、慌てているのか苛立っているのか判じがたい。
しかし、苛々しているのは自分のほうなのだ。
こんな時、彼女はあまり忍耐づよい方ではない。
「だから何なのよ、言う気がないならアタシもう行くからね」
立ち上がってかつかつと扉に向かう。
背後で起こる動揺、そして明らかに慌てた気配。微かに、乱暴に灰皿に煙草を押し付ける音が聞こえる。
そして、がつんとどこかに何かがぶつかる音。大方、テーブルに足でもぶつけたのだろう。
「ちょ、ちょっと待てよ…」
「日が暮れちゃうわよ」
「あ?」
「金木犀。見に行くんでしょ?早く行かないと日が暮れるって言ってるの」
肩越しにちらりと見れば、ぽかんとした顔。
熊のような大男がぽかんとしている姿は、結構見ものだ。なかなか見ることのできない、貴重な表情でもある。
いつもこんなパターンを繰り返しているというのに、この男はちっとも慣れやしない。
そこにそうやってとどまっているのが逆に気恥ずかしくなって、紅はさっさと扉を開いてそこから一歩踏み出した。
「何してるの、置いてくわよ」
「ち、ちょっと待てって」
忍にあるまじきどたばたという足音を背後に聞きながら、紅はこっそりと声は立てずに、しかし小さく肩を震わせて笑った。
じき、日も暮れる。
昼と夕刻と、そして宵の入りと。
アスマをも誘った秋の花はどんな色と香を見せてくれるだろうか。
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