いつものように買い物に付き合って、夜にはまだ早い時刻に、まるで一仕事を終えた後のように別れる。
別段艶めかしいことを期待しているわけでもなく。周囲が、自分たちの間柄を何と評していようとも興味はない。都合が合うからと理由を述べることすらすでに億劫になりつつある、もはや習慣化した予定。
双方で取り決めがあったわけでも、これが義務だと感じているわけでもない。ただこうした時間を過ごすことが不思議ではないという次元の、ささやかな日常の一風景だった。
その途中、というか、別れ間際。あ、と女の唇が丸い円の形を描いた。
何事かと傍らの影を一瞥すると、細い指を口元に当て、思い出したようにこちらを見上げてきた。
「悪いけど、もう一つ付き合ってくれる」
素っ気ない誘い文句と共に向かった先は、男には馴染みのない洋菓子屋。病院の見舞いにだとてこの手の土産は持参することはないだろうと断言できる、小洒落た佇まいのケーキ屋だった。
向かった当人の様子を探るに、予めここへ立ち寄る計画があったわけではないのだろう。目に入ったから思い出した、その程度の印象だった。
何のために、と目的を尋ねかけ、今までも道すがら随分目にしてきた、赤と緑と白が眩しい鮮やかな色彩に動きを止めた。
完全にこちらの存在を忘れ去ったかのように、硝子越しの小さな王冠のような菓子を身を屈めて眺める紅とそれらを交互に見比べる。
確か女は、甘い物は苦手だと認識していたはずだが。
思い浮かんだ疑問をぼつりと口にすれば、賑やかだが品のある音楽が鳴り響く店内で的確に相手の音を拾ったのか、肩越しに視線が戻った。
「催し事の時くらい、私だって食べるわよ」
割と親しい仲であるみたらし何某ほど病的ではないが、行事であるというなら口にすることも少なくないと言う。
ただ、好んで食す機会がないと言うだけはあり、専ら紅からその手の香りを嗅ぎ取ったことはなかった。普段は、紅(べに)に混ぜられた香料と、私服に染み込んだ香が強過ぎない程度に鼻先を掠めるだけだ。
「けど、それにしちゃ数が多くねえか…?」
ショーウィンドウの前で臆面もなく懐から財布を取り出し、眼前の値段と予算を計算している。それらを前にぶつぶつと考え事に耽っているということは、買い物は一つ二つでは足りないのだろう。
料理に関して素人とは呼べないほど、見かけより知識も腕もある(当人に自覚はないが)猿飛からすれば、こんなものは、買うよりてめえの手で作った方が安上がりだというのは言うまでもない。理屈では確かにそうだが、ふと女の力量を考えて眉を寄せた。
自分で『好きではない』と公言するだけはあり、普段の食事はいざ知らず、洒落た類いの調理は紅には無理ではないかと推測する。
几帳面な体質を象徴するかのように、どこぞの単身赴任中の男のように、調味料一つを取っても匙で測るようなレベルだ。そんなものは適当で良いんだと口を挟んでも、承諾したと言っておきながら、最後まで態度を変えることがない。つくづく手を抜けない質なのだと実感すると共に、料理の完成に無駄な時間を費やしても良いと感じるような、調理それ自体に無関心な人間は、自分で飯を作るモンじゃないとも思った。
だから時々、部屋に寄っては簡単な手料理を食わせてやる。出された物に関しては言うべきことはないのか、黙々と食している姿を見ると、こいつはあまり華やかな女ではないなと感ずる。
受付所ですれ違う度頬を染めたり、途端に元気になる男どもは多いが、それは紅が持つ外見的な特徴に因るものだ。クールで、それでいて艶めかしい風貌。その内面には繊細な男どもの想像を裏切るような大雑把と繊細さ(几帳面さ)が混在していると知れば、半数以上が立候補を辞退するだろう。何の、というのは今更なので省略するが、尽くすタイプの男でなければ本当の意味でこの女を幸せにはできないなと感じる。面倒が苦手な自分は、恐らくその中には入っていないだろう。
だから、手作りにした方が安くつくと諭しても、本人には気の毒としか言い様がなかった。手解きを教えるにしても、うるさいわね、の一言で途中で(自分が)投げ出しそうな予感がする。
ち、と男は内心舌打ちした。
自分こそ、この類いはさほど経験がないというのに。
「この後、何か予定があんのか?」
ないわよ、と店内で振り返ることなく、長い黒髪の女から端的な返答が返る。
耳が良いのか敏いのか、こちらの声を決して聞き逃すことがない。けれど、正面は一向に背後を振り返ろうとはしなかった。
連れのことなどすでに眼中になく、あれにしようかと心を決めかけている最中なのだろう。その剥き出しではない方の細い肩を後ろから掴み、女ばかりが面積を占める店を出た。菓子からだけではない甘ったるい匂いが充満して、気が狂いそうだと感じたのも早々に退出したいと願った一因ではあったが。
何かに気を取られている間は、それらが苦手なはずの紅もさしたるダメージを受けていないようだ。人通りのある道に脱出しても平然としている。咎めるような目線ではなかったが、財布を胸の前に持ち上げたまま見つめ返されている状況というのは、正直居心地が悪かった。
ったく、しようがねえ…。
心中で毒づきながら、苛立たしい心同様、捻り上がってしまった煙草を真っ直ぐに指で整える。実際は更にひん曲げているのだが、そんなことに頓着している余裕はなかった。
「家に寄れる時間があんだったら、作ってやっから付いて来い」
大方紅の頭の中では自分の教え子たちの数を念頭に入れていたのだろう。が、こうなれば三つも六つも同じだ。ついでに食と名の付くものなら大概胃の中に収納できる大食漢も知っていることだし、と腹を括る。
馴染みのない食材の買い足しも、市場を通れば遠回りをする必要もなさそうだ。
気前が良いわね、と驚いたように口にする紅と目線を合わせることができず、負け惜しみのように鼻を鳴らす。ふん、という音と共に、白い息が空気に紛れた。
「催し事には、逆らわねえ方が良いんだろ?」
捨て台詞を吐いてからずかずかと先頭を行く大男の背に、苦笑とも諦めとも付かない声音がかかった。
「随分所帯染みたわね、アンタも私も」
寒い冬空の日に、相応しくない言葉ではあった。
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