いつものように、当たり前のように待ち合わせていた場所で顔を見た瞬間、口から飛び出した一声は間の抜けた声だったと思う。
「なんだあ、そりゃあ…」
細身の美女、というよりは、同じ忍びであるのだから少しだけ逞しい感じもないわけではない女は、胸に見慣れないものを着けていた。正確には、くっつけていた。
「見ればわかるでしょ」
馬鹿ね、と暗に釘を指し、紅は男を振り返らずその場を通り過ぎようとした。出会うべくして出会わなければならないわけではないなら、素通りするのがいつものやり方だった。それに男の方も異存はない。
肩を並べて歩き出しながら、不可解な表情を崩すことはなかった。
女の柔らかな膨らみの上には、どう見ても不釣合いな黒い物体がしっかりと張り付いていたからだ。思案げに沈黙を続けていると、やがて、知らないの?と紅が白い顔を傾けた。
「生憎、哺乳類以外にゃ詳しくねえ」
さも興味がないとばかりに目線を他方にずらして答えれば、別段それに不審を感じることはなかったのか、平然とした口調が返った。
「ライデンクワイ。電気を食べる虫よ」
もともと字の如く『雷電喰らい』というのが名前だったそうだが、長いこと言われ続けているうちに『クワイ』と音を変えたのだそうだ。また、植物のクワイの花を食べるからだという言い伝えもある。カブトムシのメスのようなずんぐりとした虫がそうだと教えられ、一瞬猿飛はなんのことかわからなかった。
そもそも、年頃の女がこんなものを胸にくっつけて何も思わないのはおかしいのではないかとまで考える。虫など、気味が悪いとまでは言い切らないが、大して愛着を湧かせる類のものではない。少なくとも、胃に収めても腹いっぱいになるには大層な量が必要となるような非常用の食糧だと考えれば、よっぽど動物の方がかわいらしいと思った。その価値観が、教え子チョウジの影響を受けているのかどうかは知らない。
酔狂な真似をしやがると心中で呟き、煙草の煙とともに嘆息を吐き出すと、不意に眼前へ細い手が伸びた。歩き煙草を目の前でするのはよせ、という仕草なのだということはわかりきっていたので、その白魚のような指が口角に触れんばかりに近づいてくるのを止める気はなかった。が、匂いが女の肌についてしまうということに些かの抵抗を感じ、自身の手でそれを掴み潰そうとした瞬間。
強烈な痛みが眼光と手の先を襲った。
「……悪いわね」
あら、と自分でも驚いたように、紅は軽く目を見開いて放言した。頭上の男はといえば、立ったまま硬直している。が、それも束の間。反射的に相手を睨み据えると、普段と取り立てて変わるところもなく淡々と女は事実だけを口にした。
「静電気よ」
たとえ小さな接触でも、火花が散るほど大きな感電でも、それはそれでしかないと公言する。
確かにそうだ。しかし、今までの長い付き合いの中で、紅からそれを感じたことはあまりない。むしろ、自分の方が男のくせに、と笑われるほど体内に帯電していたような時期もある。頻繁に手を洗うなどしてなんとか対処法を見つけ、ここ最近は滅多に遭うこともなかったというのに。
「だから、そんな虫をひっつけてるってわけか」
身体の中に溜まった電気を、電気食いの虫に食べてもらっているのだろう。
「ヒナタがひどい静電気体質なのよ」
もちろん本人にその意識はないのだが、好んで着る服装によって更にその効果を増しているのだという。悪気はないことは重々承知していても、犬の毛でいつも包まれているような生活を送っているキバにとっては、冬の彼女の存在は凶器と言えるものであるらしい。
それを見かねて、というか、興味深いとでも感じたのか、シノが家で育てている『ライデンクワイ』をヒナタに一匹やったのだ。大きさは、ライデンクワイの大親分とでも思しき大きさで、キバの忍犬赤丸などは当初、その威圧に耐えかねて騒ぎ続けたくらいだ。家で飼う犬だと思えば良い、とシノはヒナタに虫を常に側に置くようアドバイスをしたが、やはり少女自身も少し怯えていたようだ。
しかし、その甲斐あってか、最近ヒナタによる静電気の被害は確実に減ってきている。
余談だが、その虫は木の葉の病院で医療用に研究されているのだとシノが言っていた。大親分の親族を病院に貸し出し、体内に蓄えた電気を使って最新の医療に役立てているのだという。人の身体から出た電気を掻き集めたものだから人体に悪影響を及ぼすことはなく、電圧の調整も虫を使えばより簡単にできるのだそうだ。
虫って便利よねえ、と紅は心底関心しているようだった。
「で、なんでオマエが静電気なんかと仲良くなりやがったんだ?」
その虫をくっつけなければならないくらい。
冬の風物(?)と無縁であったはずの紅が、なぜ教え子同様電気食いなんかをお供に連れなければならなくなったのか。
「どうも、ヒナタからもらって来ちゃったらしいのよね」
上忍になる前は特定の他人との接触が少なかったのだが、今現在教え子を持つという身分では、悪くすれば四六時中子守という状況にもなり得る。日々の勤労が祟ってか、彼らの持ち物が自身の身体に影響を及ぼしてしまったのだそうだ。野良犬に追いかけられるとか、なんとなく虫と意思疎通ができるようになったとか。
んな、風邪や猫の仔っこをもらってくるんじゃねえんだから。
静電気なんか移されるんじゃねえよ、と男は腹の中で呟いた。忌々しげに口元から引き剥がした煙草の火を指で潰し、ズボンの後ろポケットから携帯用の灰皿を取り出してそこへ放り込む。
女が突然静電気体質になったのは、わざとではないことは承知していたがそれにしても目障りだと思う。マスコット、というほど可愛らしいみてくれでもないような代物を、なんで女の胸元に居候させて置かねばならないのか。
「冬なんぞ、さっさと終わりやがれ、だぜ」
いつもならば、鍋が旨い時期だからいいところで上等な肉を仕入れて一杯やろうぜと持ちかけるところだが、どうにも居場所を奪われたような感慨が去らず、苦々しい言葉を吐いてしまう。嫉妬というより八つ当たりのような台詞を受け、紅は上目遣いに相手を見つめた。
「そんなに気に食わないなら、アンタがつけたら?」
その方がお似合いよ。
「馬鹿言うんじゃねえよ」
野郎が野郎にひっつかれて嬉しいものかと反論すると、紅は長い睫毛をしばたいた。
「このコ、雌よ。シノが言ってたけど」
「……………」
それから、いつものように飯を食いに行って夜空に浮かんだ遠い月を眺めている間中。女の傍らに寄り添う黒熊のような男の髭の下には、ちょこんと丸い虫が隠れていたとか。
間の抜けた格好だと噂しかねないその様を一瞥し、紅い唇を歪めて、「アンタもおかしな男ね」と紅は言った。
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