ただそれだけのことを、なぜ、と考える自身に疑問を感じる。
データの産物であるナビに、『なぜ』という疑問詞は存在しない。
瞬時に物事を判断し、的確な情報を提供する。時には選択肢を提示し、より良い方向に導くことが彼らの役割であるからだ。
だから、『どうして』と思うことなど、本来であれば許されない事態だ。
なのに、どうしてそれを持ってしまったのかと問われれば、何らかのバグが基本システムを構成する情報の中に発生したのだと言わざるを得ない。あるいはそれとなる原因を、前以て埋め込まれていたか。いずれにせよ、自らの力だけでは調べようのないこともまた事実だった。
「炎山さま。」
ごく当たり前のように発される言葉。
単語は音の羅列であり、自分たちの中では数字の塊でしかない。
ゼロと一を組み合わせて作られた、何万通りにも及ぶ音声データの集合。
「今現在、未読になっているメールは十五件です。件名を表示しますので、確認してください」
わかった、と片言のいらえが返る。
机上のペットになど見向きもせずに答える声は、一見淡々としているように聞こえる。
けれど、人間の声というのは機械のそれとは違い、一つきりではない。声紋は常に一定ではなく、感情というプラスの要素が加わって幾通りもの変化を見せる。例え思考が大人びている炎山とて、例外ではない。ごく小さな規模で変動していたものが、最近奇妙なほど大きくなっていた。
それを、抑揚という形容で片付けることを自身の回路は知らなかった。
「会社関係のメールには、おまえから返事をしておけ、ブルース」
炎山が逐一送信内容をチェックすることはない。
個人的なメールならばまだしも、実行の許可を問うような用件なら、秘書に意向を伝えて以後、それを覆すこと自体が稀だからだ。形式上、最終確認を彼のアドレスに送っているだけで、GOサインを出すのはブルースであっても変わりはない。
「では、そのように手配しておきます」
毎日の、通例となったやり取り。
日々の交流であれば、その口調や台詞が変わらないことなど、他の連中であっても大差ないだろう。
ここにもし光熱斗なる同じクロスフュージョン・メンバーが居合わせていたのなら、折角の休日なのだから、仕事のことはぱーっと忘れろと言い出したことだろう。
だが、ここにその手の思考を持つ者はいない。
「久しぶりですね」
アメロッパの領有圏に入るこのリゾート地にやって来るのは、二年振りだ。
炎山が幼かった頃はもっと頻繁に訪れていたが、IPCの重役を引き受けてからは、一年置きに足を伸ばすのがやっとだった。炎山所有のビーチやホテルがあるのだから、足繁く通ってもおかしくはないはずだが、世界各地にこれと同じものがあるのだとすればここだけが特別というわけではなかった。
「インターネットシティの復興には、まだ大分時間がかかるだろうからな」
だから骨休めをする場所がないだろう、と語尾を切る。
こちらを気遣っての言葉だが、そこに感慨が込められることはない。
「ええ。ですが、仕事が減ったことも事実です」
ナビたちが屯する場所で起こる犯罪を影ながら取り締まっていたブルースにとって、その消滅というのは手痛いものではなかった。
確かにネットナビ同士で交流を深め、色々な情報やツールを得ることはできたが、元来群れることを好まない自分にとって、そのコミュニティの消失はさほど大きなダメージではなかった。
無論、そこへ流入する情報を入手する伝手がなくなったことは事実だが、厄介事が減ったというのが最終的な結論だった。
事実、炎山がネットセイバーであることには変わらない。ただ様相を変えただけで、依頼を受ければそれをこなすという本質は、以前と全くと言って良いほど相違はなかった。
「確かにな」
淡々と、応答が返る。
ナビの視点は、彼らが映し出されるPETの画面と平行している。ゆえに、机の上に仰向けで放置されては、相手がどのような恰好でいるのかすら定かではない。しかし、音だけでなく体温感知センサーも備わっているので、近くにいることは間違いないだろうと確信していた。
机の前の椅子に座って、ここからは見えない位置に確実に存在していると。
「泳ぎには行かれないのですか」
矢継ぎ早に質問をしているようで、その間断は広い。
邪魔にならないよう気にかけているわけではなく、必要と思った時に必要とされるだろう事柄を提示しているに過ぎない。ゆえに、炎山の返答は些かも億劫そうではなかった。
「やることがある。遊びに興じている暇はない」
「そうですか」
つっけんどんな物言いであるのに、他人行儀だと思えないのは、そこに何らかの含みがあるからだろう。
可能性とでも言うべきそれは、感じ取れるだけの確証に満ちているわけではない。単純な異変とも違う。認識、という表現が最もそれに近いだろうか。
ブルースというナビが、ここにあるという認識。
「…ブルース」
呼ぶ声に込められる、以前とは少し異なる呼びかけ。
「少し眠る。留守番を頼む」
物が重量という名の負荷を受け、ぎし、と傾いたと思しき音をセンサーが拾う。
明確に聞き分けるのは、端末の持ち主の声紋だけだ。
他はすべて意味を理解する前の、波長の形に留められる。ナビ同士の会話のように、五感ではない概観だけをそれと識別した。
個体とその他を判別する機能が付けられているのは、最新型のPETだけだ。常に進化を遂げている、最先端技術を保有する組織に関わった存在だけだった。
高機能であるからこそ、小さな変化をいち早く察知できるのだとすれば、なぜ、と思うことは不要であるはずだ。なのに、進歩するにつれ、その比重が大きくなるのだとしたら。
戸惑いなどという不条理なものを、いつか自身は味わわなければならなくなるのだろうか。
「はい、炎山さま。」
了解した旨を、肉音と見分けのつかない自らの音で返す。
そこに込められた変調を自覚する日は、そう遠くない。
-2005/09/14
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