開くものがある。
音にはならず、形もないそれは、不自然ではない声質と同様、自身の目の前で繰り返される。
それは呼吸でもあるし、気配という、生きている者の証であると言う。
例え同じ動作をする人形を作り上げたとしても、まるで音階を示すように動かされるそれを、正確に再現することはできない。
時に優しく、一瞬の硬直さえなく。知らぬ間に停止し、かすかに影を落とす、鼓動にも似た所作。
人間とナビとの違いは、歴然としている。
片方は有機体で、一方は無機の産物でしかない。同時に創造主と、それらによって作られた製造物と言っても通用するだろう。
自分があるのは、必要とされたからだ。優秀なナビをサポート役として保持する人種は、まださほど多くない。なぜなら、自分たちは単純なツールとしてしか認識されていないからだ。
その道具を、更に発展させ、進化させたのは、彼の背後にある組織だった。いや、半ば掌握していると言っても過言ではない、巨大なネットワークとでも評する、技能と権力を行使する機関。
渡された当初は、自身も、所有者も、単純な労使関係でしかなかったように思う。けれど実際は他のナビたちよりも、大きな期待をかけられていたのだろう。無論、IPCで最も多くの機能を備えたナビとして設計されたのなら、応答機能を持つだけの従来の物とは比べ物にならないはずだった。
メモリとして識別される、過去の記憶は刻々と蓄積される膨大なデータだ。本来の能力を束縛しない程度に軽量化が図られているが、無論それ自体を取り込むことはない。すべてPETに記録され、必要と思った時に引き出すことが自身の行うべき処理だった。
だから、あの当時は、と人が昔を回想するようなことはない。要求されれば、適合する資料を提示するだけだ。なのに、トラックバックするようにそれらを重ね合わせるのはなぜなのか。
まただ、と思う。
決して面には出ない、背後の思惟。
思考という働きは、比較検討する対象があって初めて作用する。では、自分にはこれ以外に知っている側面があったのだろうか。
一方的に開かれる視界の中の光景以外に、それと同じで、そして異なる面をどこで拾ったのか。
答は、明瞭だった。
ただ、同じ地に立ったというそれだけ。
無機質の集合体である者の身を、有機の磁場で形作らせるプログラム。
あの時、あの場面で、何度遭遇したかも忘れた、PETからではない、開かれた世界での対面。
そこに佇む気配は一様ではなく、見えていたはずの呼吸とも違う。姿形のすべてから認識し把握した、元自身の保持者という存在。
それまであるべきだと思っていたおぼろげな知覚とは一八〇度異なった、多次元の対象。計算では割り切れない、変化する者のかたち。そこで動く、自らには備わっていない技。
曖昧で、密やかだった呼気すら鮮やかに。
知ったのは、過失ではない。
その記憶が残されていたのも。
汚染されたにも等しいデータの抹消は行われたものの、当時の光景はまだ本体の奥底に断片的なメモリとして残留している。完全にデリートしてしまえば、思考プログラムに影響が出るとも限らないと見做されたためだ。それ以前に、戒めとして認知していたものが。
あの時あった、冷たさと熱さを混交させたような眼差しは、二度と自身に向けられることはないだろう。
代わりに今あるのは、私室でだけ見せる緩やかな時の流れ。
瞬きという、一瞬の羽音に隠された、無防備に近い安息の呼吸。
発声するよりも容易く、得難い。見逃してしまうほどささやかなそれは。
何よりも確かな、ここに在るという確証。
-2005/09/23
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