「炎山さま。」
それは、毎日と変わらぬ光景だった。
命じられていた時間より、わずかに早い時刻。
ビルの最上階。見渡す限り硝子で仕切られたような、広い空間の中央から少し外れた場所に、この部屋の主としては不相応なほど小さな人間が横たわっている。
正確にはシーツを被って丸くなっているのだが、自身を差した呼びかけにも無応答だ。
それも、いつものことと言える。
「炎山さま、時間です」
単調な繰り返しにも似た台詞を吐きながら、元はPETとして机上に残されていた物質が別の形を取る。
その間も、相手からは何のいらえもない。
長身でありながら、動作に一切の逡巡もなく、無駄のない速さと的確な歩調で歩み寄る。動きに倣うように、頭部の裾から生えた銀糸が揺れたが、その変化すらどことなく映像を目で追うような感覚に近かった。
ナビの造形は、無論カスタマイズした人間の手に因るものだ。
だが、ブルース自身、炎山が自分の容姿を作ったとは認識していない。
プログラムの最も基礎の部分で幼少時の彼が関わっていることは何となく知っていたが、炎山と初めて対面した時も、向こうは取り立てて驚きはしなかった。
昔、少々いじったものを、しっかりとした記憶の中に留めておく者は少ない。構築に苦労して、苦心惨憺した結果、現実の物として創造できたのならばともかく、炎山にとってはただ手を出してみただけの、まさに児戯に等しい行為だったのだろう。
子どもが、空想のままに本の端に描くような、落書きの類い。そこに如何なる創造性を見出そうとも、発生させた当人に力作だという自負がなければ大意はない。本来の目的として関わったわけではないのなら、たとえそれがある物を作り出すための切っ掛けとなろうとも、全くと言って良いほど無意味なものだからだ。
だから、どこかで見覚えがあったかもしれないが、ブルースを得た時の炎山の対応は、非常に冷静だった。
元より、子どもらしからぬ沈着な物腰であるために、感情の起伏という点では少量だっただけかもしれない。その表情の中に見受けられるべき感情というものは、初対面の時点で、ブルースに窺える余地はなかった。
「炎山さま。」
呼称を反復することに抵抗はない。
慣れ親しんだ名と音調は、人が発声するよりも更に容易に音にすることができるからだ。
様子を確かめるようにベッドの脇へ進み、シーツからはみ出した彼の白毛を覗き込む。
自分以外の他人の気配があることにも気づいていないのか、固まったまま身じろぎすらしないのは、深い眠りに落ちているというより、そうできない理由があるからだ。
バイタルチェック機能が備わっているとはいえ、オペレーター自身がPETに触れない限り、調べることすらできはしない。
炎山は、決して不摂生な生活を送っていないとは言い切れなかった。
海外での生活が長いので、当たり前のように自己管理に関しては同年齢の人間よりも徹底している。が、それも彼の精神が健全である場合に於いてのみだ。
残念ながら、そうでない部分では、彼らをサポートするナビによる管理が必要だった。
昨夜もかなり遅くまで、デスクの前で上がってきた報告データのチェックを行っていた。
一旦集中し出すと、根を詰めてしまうのは他の人間と変わらない。だが炎山の場合は、今でなければ処理できないと考えているからこそ、夜更けまで仕事に没頭してしまうのだ。
その原因というのが、自らの体調だというのは因果な話だ。
息をしているのかすら定かではないほど、そこに漂う空気には変動がない。しかし間違いなく呼吸をしているだろうことは、わずかに上下する肩の動きからも明らかだった。
起きる兆しがどこにもないことなど、端から理解していた風に、ブルースはベッドサイドへ腰を下ろした。
元々自分たちに重量など存在しないが、現実世界で実体化した結果、ナビと言えどある程度の重みを伴う。人と比較すれば、機械の塊と評せなくもないほど頑強な体躯であるかもしれない。
スプリングが軋み、音を立てる。衝撃を抑えるように、極力緩慢な動作を心がけながら、一回り小さな体積へ覆い被さった。
「炎山さま。」
耳元が隠されているだろうと思しき位置へ、白い羽毛のような頭髪を掻き分けるよう、唇を寄せて囁きかける。
いらえは、やはりない。
重さをかけているわけではないので、音以外に拾うものがないためだ。けれど、それすらまだ深い眠りの中にいる者にとっては、戸を叩く風ほどの威力もないのだろう。
死んだように瞼を閉じ、動かなくなって眠るなど、恐らく生き物にとってこの上なく幸福な瞬間であるということは、何となく推測できる。
常に齷齪働くのは、ナビである自分たちも変わらないが、人間は不条理と思われるべき感情というものに調子を左右されがちだ。一定の能力値を保持するには、よほどの準備や気負いが必要だとも言える。
炎山にとっての至福を打ち壊してしまうことは、さすがのブルースにも憚られた。
しかし、この時間に起床をさせるよう命じたのは、他でもない炎山自身だ。然るに命令に逆らうことなど、ナビにとっては当然のように不可能だった。
そこでふと、以前友人であるロックマンが口にしていたことを思い出す。
数ヶ月前。
時季から言ってかなり昔の話だが、一度光熱斗なる人間と、PETを交換した時があったのだ。勿論、それは光何某なる人物の手違いによる事故だったのだが、そのために一日、ブルースがロックマンのオペレーターの世話を焼く羽目になった。
そして、ロックマンは炎山の。
思い出しても虫の居所が悪くなるような話だが、苦労して本来の持ち主の下へようやく帰り着いた後、IPCが管理しているとあるインターネット・シティで昨日はごめんとロックマンに謝られたのだ。オペレーターの代わりにナビが陳謝する必要はないというのに、その時の相手の気持ちを慮って素直に受けたが、確かに謝られて正解だったように思う。
あの、光熱斗というマイペースな人間は、全く他人の言うことを聞こうとしないからだ。それだけならまだしも、思いつきだけで計画性のないことを実行しようとするから、手に負えない。まるで駄々をこねる子どもをナビゲートしている気になってくる。
不毛だ、と思うことを一々繰り返し、繰り返しても聞かない時は、ナビとしては珍しく怒鳴りもしたものだ。炎山の下にあっては、決して体験できないことだった。いや、したくなかったというのが正しい。
それに引き換え、ロックマンはと言えば、ブルースは凄いの一点張りだった。あんなに過密なスケジュールを管理して、炎山のサポートや護衛も兼ねているのだから大したものだと。
慣れない仕事であったおかげで、ロックマン自身も相当疲れ果てていたようだ。だが、多分彼ほど優秀なネットナビであれば、時間が経てば大企業の一員としてすぐに順応できるだろう。
何より、炎山が買っているほど優秀であることは間違いない。同じ次元の存在として、確かに認めざるを得ないと考えている。尤も、それが引け目であるとは露ほども思わないが。
そのロックマンが、思い出したように笑った時の様子が、まだ回路の片隅に残っている。
面白いこと、と相手は言ったが、どの辺がということに関しては言葉を濁した。
伝える必要もないと思ったのだろう。事実、それは形として示されはしなかったが。
『不思議なことがあったんだ』
理屈では説明できない事象があるということ自体、ナビが口にするには不適切な表現だ。
けれど平然と、やけに柔軟な思考を持つロックマンは続けて言った。
『炎山は、朝、中々起きてくれなかったんだけど…』
それは光熱斗を上回るくらい、簡単には起床しなかったという。
理由は炎山の体内の血の巡りに因るものだと理解していたブルースは、何の感慨もなくその話を聞いていた。むしろ自分が預かった光熱斗などは、布団ごとロングソードで叩き斬ってやろうかと思ったほど、意地汚い寝方だったのだから、おあいこだろう。
しかし、ロックマンが言うには、普通に起きてよと言うだけでは効果がなかったらしい。
自身の経験上、何度か呼びかけていればそのうち無言で起き上がってくるのだが、炎山の朝の具合を知らないロックマンは、健気にも宥めたりすかしたりと方法を模索しながら、覚醒を促したらしい。夢境の中にある者を起こすには、言い方を変えたくらいでは甲斐のないことなど、考えるまでもないだろう。無駄なことをよくやるなと思った瞬間、またしてもそこに笑顔が広がった。
どうやっても起きてきてくれなくて、最後に彼が取った方法というのが。
『……ブルースの、声真似だったんだよね』
「炎山さま。」
声に空気を含ませ、鼓膜から、安んじている脳全体へ行き渡らせるように音を伝える。
抑揚というものを持たない声音は、ストレートに感知する器官へと伝達されるだろう。何よりも、馴染んだ音調をその内側へ伝えようと。
果たして、かすかな嘆息にも似た応答が返る。
「……………」
言葉もなく、真っ白なシーツから青い鉱物のような眸が覗いた。
黒い腕の下で何度か物憂げに睫毛をしばたたかせ、上にいる者が誰であるかを確認するように眉根を寄せる。
ああ、と彼は言った。
掠れた喘ぎのような、小さな返答。
それだけで、おのれの役目が何であるのかを再認識できる。
「おはようございます。炎山さま。」
やがて、してやったりな笑みが、赤いナビの口元に浮かんだのは言うまでもない。
-2005/10/08
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