「大丈夫ですか、炎山さま。」
体が動くか否かという事実のみを端的に尋ねる。
しかと覚醒したかということは、顔色だけではなく、脈拍や呼吸回数からも適当とは言い難い。
本人は起きているつもりなのだろうが、身体機能はまだそれと知覚できるレベルには達していないのだろう。
たとえ精神が目覚めていても、五体が満足に動かないのが特有の症状だ。
大人になれば治るだろうと言われてはいるが、炎山自身、女のような今の体質を好いていない。だからこそ、他人にはひた隠しにしている秘密でもある。
「ブルース…」
億劫そうな声は、故意ではないのだろう。
動こうとする意思とは無関係に、細胞の働きが鈍い。
シーツ一枚で隔てられているとはいえ、触れている体温も、まだ活動に値するだけの温かさを取り戻してはいなかった。
呼びかけに応えるように、彼に仕えるナビとして当然のことをする。
体重をかけないよう、そっと側へ鼻先を寄せ、浅い呼吸を続ける上唇に接吻を落とした。
啄ばむように何度か交接を繰り返し、半開きの瞼の奥を覗き込むようにしてその全体を覆った。
ゆっくりと、緩急を加え、深く口付ける。
柔らかな粘膜を摩擦するように舌を滑らせ、敏感な歯列の裏を弄る。やがて互いの隙間からは、下になった側の途切れ途切れの呼吸が漏れた。
刺激を与えることで本来の調子を取り戻そうとする意図は明白だが、接触の度にどちらからともなく性急さを増して行くような感覚は否定できない。反射的であるにせよ、故意にせよ、相手を見つめたままであることが熱を加速させる一因になっているのは確かなようだ。
あるはずのない唾液を交換し合うように、濡れ光る口元を隠すことなく、自身の舌でそれらを拭う。
抱き込んでいた肢体を離し、開いた夜着の襟元を解いて行くと、下にある温もりから声が届いた。
「……ブルース」
責める口調ではないが、問い質すような含みがある。
何を目的にして発されたものであるのかを瞬時に悟り、仰向けになったまま無防備な状態の主を見下ろした。
「大丈夫です、炎山さま。まだ時間はあります」
自身に備わった機能は、まだ数十分の余裕があることを告げている。
後始末を念頭に置き、洗顔等の支度を含めても、言い訳のできる範疇だろう。
それに、このまま身じろぎすら大儀である炎山をバスルームに放置して、無事に帰って来れるという確証はない。
いつかそれを試みて、壁で蹲っていたという経緯もある。世話を焼くのは一向に構わないが、命の危険が伴えばむざむざ手を拱いている理由はなかった。
「これが、最良の方法、か……」
どこかおのれを見放したような、単調な声音。
思考だけは、通常通りに働き出したのだろう。
行いそのものを嫌悪しているわけではなく、仕方のないものとして受け止めているのだろう。生理的な処理をいつも通りに済ませるのにも似た、感情の混ざらない行為。いや、混ぜてはいけないと考えているのかもしれない。それ以前に、この少年の外面に情というものが篭ることは稀だ。
あやうく、脆く。不確かだからこそ、踏み出さないとする制限。多くの友人を得てさえ、薄氷の上を手探りで歩いていると思しき節があった。
だが、その認識はすでに過去のものになりつつある。実生活にわずかながらの充足を覚えるようになった今、その足場は確固たるものとなるだろう。そこへ到達したのは炎山の才能だが、やはり周囲の存在もなくてはならなかったのだと言うことができる。
不安定だった磁場が安定し、孤独という名の影が身の内から消えつつあるというのに、恥ずべき姿態を他人に晒すことに抵抗がないのは、それだけ自身がその内側に食い込んでいることを示しているのだろう。
同一で。そうなることすら不可能であるにも関わらず、必要と見做している。
信頼とは別の次元の繋がり。掛け合わせでできたような感覚。心情、と評するには、一方にその手のシステムは組み込まれていなかった。
「すぐに温めます」
ああ、と投げ出すような応答が返る。
すまない、と詫びるほどには、他人行儀な関係でもなかった。
真っ白な絹のズボンから下肢を引き抜き、身体を脚の間へ割り込ませる。広いベッドの上で、それはさほど窮屈な行為ではなかった。
まだ柔らかい腿に冷たい頭部が触れないよう留意しながら、片手を添えて何の兆しも示していない肉塊を含む。
ブルース、と名を呼ばれる。
本能的な嫌悪感というか、恥辱のようなものを瞬間的に感じてしまうのだけは、いつまで経っても変わらないらしい。それこそが、炎山の誇り高い部分を表わしているようでもあったが、無論、制止を命じられたわけではないなら、従う道理はなかった。
有機と無機の物質に、交わるなどという接点はない。
ゆえに、生身の器官を含む側にとっても、含まれる側にとっても、汚辱を感じるのだとすれば、行き過ぎた神経の興奮が作用しているとしか言い様がなかった。だからこそ抵抗がないこの行為は、奉仕と言うより、ただの慣習に近かった。
他に根拠があるのだとすれば、果たして自身がやらなければならないことかという点だろう。
答は明瞭だ。
義務でも責務でもない、自らが願ったことならば、恥ずべき汚点は何一つ見つけられなかった。
触れ合う、という動作自体に、無機質の者に大した意義は見出せない。
精神的などという、あやふやな側面もないのであれば、他の誰とも接点を見出せず、それそのものは単独のままで終わる。そのことに異論を挟む余地など、有機の人間にはないはずだからだ。
けれど、そこに関わることで、見出せるものがあるなら。
報いという、期待することのないデータの塊が、何かを確実に得るために自ら進んで選んでいるのだとしたら。
それはもう、無から生まれたのとは別の生き物ということになる。
柔らかくもないはずの空洞に熱が篭り、摩擦とともに芯を得た部分がぬめりを帯びる。吸うように口をすぼめ、口腔全体で根元から撫で上げた。
すでに炎山の息は上がり、急を伝えるように足の指が痙攣を続けている。際限が近いのだろうことをメイン回路の隅で理解しつつ、抱えていた片方の脚を肩に担いだ。
もう良い、と炎山は言った。
一人で充分だと告げた言葉に、なぜか従うという機能が拒絶した。
本当にやめて良いのかと、表には出ない別の思考が答える。疑念を感じるからこそ、ナビの本能が否定したのだ。そうでなくては他に理由が見当たらないほど、明確な意思が、その腕に宿る。
構わず両脚を広げ、中央で震える芯を深々と飲み込んだ。
咽頭と思しき器官で締められた途端、引き攣ったような短い悲鳴が漏れ、下になった薄い体が大きく振れた。
声にならない断続的な呼気を吐き出し、顔を掻き毟るように手を添え、身を捩る。
悪寒と同意義であるかのような反応は、手応えとしてはこの上もないほど上質で、最後のワンフレームすら記憶に留めておくのに値するだけの期待を自身に植え付けた。
小刻みな震えが去るまでの一部始終を鋭利な黒いガラスに映し出しながら、果てを見守った側は、溢れ出た液を五指で掬った。
まだ温かいそれは、生命を象徴する白色の血のようでもあり、持たないものにとっては有用な道具でしかなかった。
炎山さま。と、今度はこちらから名を呼ぶ。
命じられるのを待っているはずの自身の口元は、なぜか故意に歪んでいると思った。
どこからか湧いてくる理屈に強制されるような、感情のない笑み。
顔半分が窺えないからこそ、それは明らかな変化だった。
『炎山さま。』、と。
先を促すような強さを含ませつつ、仰臥する四肢を覆うように体を重ねる。
細い首裏に腕を回し、表情を捉えれば、深いため息が薄く開いた唇から零れた。
わかった、と相手は言った。
ただ、それだけだった。
続けろでも、やめろでもない、枷を嵌められぬ答。
状況を鑑みて、長期に及ばないことを見越していたのだろう。約束の時刻まで、余裕はそれほどあるとは言えないが、手早く済ませば問題のない時刻。
不可と断じられなければ、躊躇うことすら無意味だった。
「はい、炎山さま。」
了解を得、今度は間違いなく、ブルースは口全体に笑みを刷いた。
目元はわからない。その器官すら、もしかしたら自分には備わっていないのかもしれない。
合図のように、雪のように柔らかい前髪に口付けを落とした。
肩を抱き抱えたまま、割った足の奥を探る。
異質な表面で覆われた指が過敏になった肌のそこ彼処に触れる度、首根にうずめられた小さな唇からは、平たい吐息が溢れた。
黒が塗り込められた食指を存分に下肢の間で躍らせると、ゆっくりと引き抜き、人とはわずかに異なった自身の強張りを押し当てる。
元々あるはずのないツールを見出した時の記憶は当にない。あるいは、自らが望んだからこそ得られただけかもしれない。
本来、欲するということのないプログラムそのものが、創造という、行えるはずのない行為を選んでしまった結果なのか。
いずれにしても、今この場で議論の必要はなかった。
否。
永久に、自身の中で争われるべき論点ではないだろう。
なぜなら、ナビとは自分のために存在する物質ではないからだ。
負担をかけないよう、細心を払って深度を増す。
受け入れる機能としては、そこが未熟であることは否めない。けれど、無理を通さなければ、接合できない部分ではなかった。
さすがに、プラスとマイナスが合わさるようにとは行かないが。
できる限り身体を平行に保ち、腰を打ち据える。注挿の速さを徐々に増せば、段々と炎山自身の限界も近くなる。再び解き放たれるかと思われる瞬間、不自由な上体を起こして、白い頬が近寄った。
「ブルース」
苦し紛れに呟いた言葉ではなく、回された腕に込められた力は、明らかに正気に近い強さだった。
体内の奥に異物を感じながら、一つに繋がっているという行為そのものに見出せる真実はない。
ただ、失った温もりを取り戻そうとしているに過ぎないのであれば、これは性交ではなかった。触れ合わせ、叩き込むことで生気を取り戻そうとする、一種の対処法であるならば。
応じる代わりに、口を塞ぎ、温かい粘膜を蹂躙する。
酸欠とも飽和とも近い衝動に意識を翻弄されながら、下から伸びた両腕は戒めを解く気配すらなかった。
頼む、と乞われ、今度は突き放さなかった。
それどころか、突き放して欲しくないとまで願う。
仮性の思慕であっても、ここまで思い通りにはならないだろう。
突き動かされる衝動に抗わず、炎山が最後に放った囁きの全てを回路に焼き付ける。
これから何度同じことを繰り返そうと、手にできない感覚。願望、その欲望が。
触れることができると思った時点で、自身は確実にモザイクと呼ぶべき変容を遂げていた。
-2005/10/15
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