「実力の差を思い知ったか!!!」
すでに幾度目かも忘れた(周りの人間に限ってだが)大きな声が、ホールの壁めがけて響き渡る。
普段の様子からは想像すらできないだろう人物の興奮した姿に、数名を覗いて、誰もが唖然と口を開いたままだ。
無理もないことだ。
だが、言われた側も黙ってばかりではなかった。
「そんなのは、最後までやってみなくちゃわからないだろおッッ!!!!!」
もはや絶叫と言うべき雄叫びを上げ、深緑の台の上で突っ伏していた面を持ち上げ、対する相手を睨み付ける。
まるで一対一の勝負となってしまったかのように、すでに互いしか見えなくなっているのは明白だった。
「行くぞ、ブルース!!!」
常にない強さでそう命じられ、はい、と答える。
ここで負けたら五連敗だぞ、ロックマン、と敵も同じようにパートナーに発破をかけている。
ナビとはいえ、疲労はある。無論、汗を流して長時間アドレナリンを分泌し続ける生身の比ではないが、無駄な動きを省いていてさえ確かに消耗するものはあった。
「これで、終わりだあッ!!!!」
一際高い喚声を上げて、炎山が露な白い腕を眼前で叩きつけるように振り被る。
その素早い動き、タイミング、フォーム。一見非力と思われがちな肉体から放たれるプロも真っ青な決め玉に、ざわっと周囲がざわめいた。
鎌居達でも起こったのではないかと錯覚するような鋭いサービスは、まるで細かなデータの更に際どい部分を的確に射抜いたかのように、軌跡を塞ぐように立ちはだかった少年のラケットをすり抜け、コートの角で勢い良く弾けた。
それが、決定打だった。
「っっっちっくしょおおおお〜〜〜〜〜〜〜っっ!!!」
見ているだけで内心の口惜しさが伝わってくるように、水色のバンダナを巻いた少年は歯を食い縛ってがくんと肩を落とした。
自分の番が回ってきた時を狙ってわざとミスを誘っていることを頭では理解していながら、防げない猛攻に心底悔しがっているようだ。
もっと練習を積んでおけば、とか、昨日インライン・スケートで遊び過ぎて体力を消耗してしまうんじゃなかったとか、負け惜しみのような文句が次から次へと飛び出してくる。けれど、もう少し手加減をしてくれれば勝てたのに、という甘い考えは端から持ち合わせていなかったようだ。
真っ向勝負。正真正銘、真剣勝負だと宣言していた手前、完膚なきまでに叩きのめしてくれた友人に対する恨み言など思いつかなかったのだろう。
それを、ふん、とかなり呼吸を乱した様子で炎山が見下ろす。勝ち誇っているというより、やっと終わったかと極度の疲労を感じているようだった。
実際、彼がここまで本気になるような場面に遭遇したことは少ない。これほどまでに向きになったのは、勝敗が着いたにも関わらず、何度も熱斗が食い下がってきたからだ。いい加減諦めろと切り捨てても、頑と首を縦に振らない少年に、束の間平常心を忘れ去っていたようだ。
冷静さを完全に失したわけではないが、炎山が語気も荒く他人と接するようなことは稀だ。滅多に、と表現するのが適当になった原因には、やはりこのライバルの出現が大きく作用していた。
「……まだだ…」
歯の隙間から搾り出すような一言に、またか、と青い双眸を見開く様を横から窺う。
ナビとオペレーターがタッグを組んで、宿の遊技場で卓球の試合をやろうと言い出したのは、勿論熱斗だ。
それを、面白そうだと快諾したのは炎山だが、正直ここまでしつこく続くものだとは思っていなかったのだろう。二、三回目くらいまでは良いだろうと頷いていたが、何度も懇願を繰り返されるにつれ、気後れしたように息を呑むことも多くなってきた。
口に出したりはしないが、もう勘弁してくれと半ば呆れ果てているからに違いなかった。
「熱斗君、このくらいにしないと、他の人たちに迷惑だから…」
この卓球台は自分たちだけのものじゃないんだし、と軽く疲労困憊しているロックマンが親友を諭す。
すでにギャラリーと化した他のクロスフュージョン・メンバーは、壁にもたれて呆然とこちらを見ているだけだ。
いつか自分たちに出番が回ってくるなどとは、露ほども期待していない体。
確かに、二時間近く白熱した試合を展開していれば、見ているだけで疲れ果てたとしても不思議はなかった。早々に立ち退いてしまえば良かったのに、熱斗と炎山という好カードの試合を見逃す手はないだろうと思った時点で、彼らの計算は甘かったと言えるだろう。
「…大丈夫ですか、炎山さま」
自分たちが泊まる部屋に用意されていたタオルを手に、まだ軽く胸を上下させている主の元へ近づく。
「大したことはない…」
そう言ってはいるが、流れ出す水分の量が半端ではない。
呼吸をする度に溢れて行くのではないかと思しき量の汗を、無意識に何度も手の甲で拭っている。ほとんど変わらないといって差し支えのない表情も、幾分肌が上気して色付いているようだ。
これは早急な休息と水分補給が必要だと結論付けた途端、ブルースはある違和感に気がついた。
炎山の、身体を覆っている浴衣の入口や袖から覗く肌が、異常なほど広い面積を占めているということに。
「………………」
言葉を失ったのは、そこに何らかの障害が生じたからだ。
でなければ、本来機械に分類されるべき自身が、例えコンマ何秒と言えど、行動を停止するわけがなかったからだ。
スリープモードに入っていてさえ、休止状態下で存続する機能は確実に存在する。完全に電源と切り離しては、休止という行動自体が困難であるのと同様、途切れることなくエネルギーを消費し続けるのがナビという生き物の習性だった。
だからこれが、人で言うべきところの動揺であるとの判断が下せなかったのだ。
普段ならば、私服以外の炎山を目にすることは珍しくない。夜着に着替えた姿も幾度も目にしているし、公式の場ではそれに見合った正装で臨む。その下に隠された裸体の詳細なデータを持っていてさえ、何か違うと思わされるのだとすれば、それはどんな要因に端を発しているものなのか。
段々と、意識が混迷してくる。
というか、視線が釘付けになって、相手に渡すはずのタオルが宙に浮いているのが滑稽だった。
「…?…どうした、ブルース」
恐らくこれは受け取っても良いのだろうと解釈した炎山が、差し出された柔らかい布を取る。
どんなに寒かろうと、気合を演出するために常に腕まくりを心掛ける気骨というより、炎山はどちらかと言えば寒がりの方だ。態々、長い浴衣の袖から自身の二の腕を見せることはない。無意識にそれをしていたのだとすれば、それだけ試合が白熱していたという証拠だ。
だが、眼前に晒された大きく開いた隙間からの露出は、腕だけでなく、その奥の体の線までを近くにいた者の眼にはっきりと焼き付けてしまった。
「……………」
ブルースが更に固まったのは、言うまでもない。
「ブルース?」
怪訝な声音が投げつけられ、はっとしたのは何秒くらい経った頃だろうか。
正確な数字を計れば、ほんの一時だろうが、それまでを注視していた炎山にはその微妙な変化が知れただろう。
「何でもありません。炎山さま」
即座に否定すれば、そうか、と納得してくれたようだ。
本来であれば、事細かに自らが置かれた状況というものを説明してもおかしくはないだろうが、パーセントに換算しても小数点の後ろにゼロがいくつも付くような些細な出来事に関しては、何もないで済ませられる。
それを信頼しての受け答えだったが、一般的な生活の中で見出される異変とは明らかに様相が異なっていた。
「このままでは、炎山さまの身体が冷えてしまいます。どこかで休息を取っては如何ですか」
そうだな、とかすかに相手は目線を逸らしながら答えた。
その先にあるのは、まだやるんだと言い張る少年と、まあまあと何が良いのかわからないながらも、宥めておだてる青いネットナビ。
立場上なのか性質上なのか、さすがに強くは言い切れないのか、ロックマンはちらりとこちらに目配せした。
僕が何とかしているうちに、ここからいなくなった方が得策だよ、と。
対戦する相手がいなくなれば、頑固な熱斗も諦めるだろうと考えての提案だろう。
それに軽く頷きを返し、炎山は遊技場を後にした。
成り行きを傍観していたクロスフュージョン・メンバーの一人は、隣で黙々と缶コーヒーを飲み続ける友人にそっと声をかけた。
「ねえ、ライカ。私にも、あの卓球というものを教えてください」
→迂闊2
-2005/10/30