迂闊2
「………ブルース…」
 荒い息遣いの合間、途切れ途切れに零れていただけだった音が、数秒の間を経てひとつになる。それすら、もどかしいという思いに囚われるのは、自分の中に焦りというものが存在していたからだろう。
 心地良いはずの本来の声音すら、搾り取ってしまいたいと願っているのだとしたら、自身はよくよく現実世界の住人となってしまっていたのだろうか。
「何でもないと、言っていなかったか……?」
 両腕の戒めからようやく解放された顔を傾げ、息を乱しながら下になった者が問う。
「…申し訳ありません」
 明らかな謝罪であるのに、一向に行為を遠慮しようという気にならないのが更に深刻な事態だった。
 長い接吻で得た収穫とばかりに、炎山から移された唾液を執拗に口内の舌で拭う。
 生身から齎された液体は、体温と同じ温度をそれほど長く保持してはいられない。しかし、有機世界で物体となった今、自らにもPET同様の熱が備わっていた。今までのように感覚だけでなく、こうして交歓したものを、極めて体液に近い状態のまま留めていられる。
 存分にその温もりを味わったはずだというのに、まだ枯渇していると言ったら、相手はどんな反応を見せるだろう。
「ここが、俺だけ泊まれるようになっていて、良かった」
 科学省とネット警察が合同で企画した慰安旅行であるとはいえ、宿屋の主人がIPCと少なからず関わりがあったために、強引な理由でこの部屋を割り当てられたのだが、炎山は他に人の目がなかったことを心底から安堵しているようだ。
 宛がわれた部屋に戻ってくるなり壁に押し付けられ、貪られたのだから、我に返った後で現状を正確に理解するのも無理はない。
 身体を押し付けられた時点で、やめろとか待てとかいう制止は確かにあったのだが、まるで回路が途切れたようにその命令を素通りしてしまったのだ。それに対する憤りは皆無であるらしい。むしろ、本当に幸運だったと認識しているのだろう。
 この、二人きりであるという現実を。
「炎山さま…」
 再び間合いを詰め、近寄ると、背を向けていた肩口から返事が返った。
「俺は、さっきの試合で大分汗をかいた」
 言わんとしていることが飲み込めず、言葉の先に聴覚を研ぎ澄ませる。
「だから、多分汗のにおいがひどいはずだ」
 最後までを拾い、ブルースはふと口端を持ち上げた。
「俺はナビです。嗅覚は、人間ほど鋭くありません」
 数値として拾っているだけに過ぎないのだから、炎山が危惧するような不快だという感想は持ち合わせていない。
 もしあるのだとしても、人間である炎山に有害かそうでないかを判断する基準だけだ。肉体が自らの整調ために機能した結果だというなら、流れた水分に伴う微量な体臭の変化も気にならないと言える。
 それに、これは一般的な解釈かはわからないが、炎山から齎されるものはどれも平均的な値を示している。混血である以上、片親の影響を受けているのではないかと思われるような懸念する類いは存在しない。外観はニホン人離れしているが、体質的には父親の遺伝を色濃く受け継いでいると言えば、適当だろうか。
 当人はあまり意識していないようだが、物質世界で同じ線の上に立っていてさえ炎山らしい空気というか、佇まいであることは違えようもなかった。
 不快と名のつくものよりももっと。更に強い欲求を興させるものがあるのだとしたら、それは何と表現するのが相応しいのだろう。その先に続く形容は、自身の中でまだ形にならなかったが。
 そうか、と心なしか炎山は嘆息したようだ。
 自分が邪魔をしなければ、大浴場でもう一度風呂に浸かろうと考えていたのだろう。
 計画を頓挫させたことに関して、若干の後ろめたさはあるが、幸いなことにこの部屋には個室の温泉がある。流石にこの宿で一番上等だと言われるだけはあり、一人で泊まるには些か広過ぎた。尤も、VIPやスウィートが当たり前の環境である炎山にとっては、物寂しいという感覚とは程遠いだろう。
「……あとで」
 ぼそり、と呟くような低い問いが返る。
「一緒に入るか」
 ナビに湯浴みは必要ない。
 それでも口にしてくれた事柄に、知らず自分は微笑ったようだ。
「はい。炎山さま。」


→迂闊3

-2005/11/06
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