迂闊3
「さて、どうすべきか」
 割と安穏とした様子であるのは、これから何が起こるかを納得しているからだろう。
 人間同士、それが恋人同士でもあれば、こんな間の抜けた会話はしなくとも、早々に行為を再開すれば良い。しかし、手順を踏むためなのか、あるいは単なる無表情の下の照れ隠しなのか、炎山は真剣に思考しているようだった。
「身体を洗ったら、さっさと横になりたいしな…」
 腰に片手を当てたまま、綺麗にベッド・メイキングされた寝台と自身の居場所へ今一度視線を延ばす。
 ブルースに用意させるとしても、一緒にバスルームを使うとなればそうも行かない。無駄な時間をぼんやり過ごすことに慣れていない少年は、その無為な時を何とかして省いてしまいたいと考えているのだろう。ナビとしては当然、補わなければならない部分に関しての知識は備えている。…はずだった。
「…では」
 提案を察し、下方に傾いていた青い眸が持ち上がる。
「ここでしては如何でしょう」
 此処。
 廊下から離れた場所であるとはいえ、壁際で、掴まるものは何もない。恐らく隣室とはかなり距離があるだろうが、こんな隅で騒いで怪しまれはしないだろうか。
 せめて中央に近い位置にあるソファの上にしてはどうだと、炎山は頭上の影に一瞥を送ったが、微動だにせず見つめてくるナビの前に自身の案は見送ったようだ。
 ブルースならば一も二もなく賛成してくれるだろうと信頼していたかどうかは不明だが、せめてもの意思表示とばかりに炎山はコップ一杯の水を所望した。
 冷水を男らしく一気に飲み干した後、ふうと小さな吐息が赤みの宿る唇から零れる。
 体内に浄水が巡り、目に見えない場所で失われた滑らかな流動が徐々に回復しつつあるのだろう。
 皮膚の下の組織を構造として認識しているとしても、生憎自分は千里眼とやらではない。どのような作用が実際その姿態の中で起こっているのかなど、想像という名のフィルタを当てはめない限り見えることはなかった。
 けれど、いつもは隠れている額や目元の血色が良くなったのが傍目にも明らかである以上、人間にとっての水分摂取は欠かすことのできない要素であるらしい。生体機能を維持するためとはいえ、自分たちにはない性能であるだけに、溢れる汗に不安を煽られることは少なくない。
 血と同じ、と言えば大げさ過ぎただろうが、普段外観が変容することのないナビにとって、その時々によって起こる外見の変化は、頭で理解していても対処にわずかな隙が生じる。
 それがこちらにとって何の斟酌も必要のない者ならば平静なままで処理できるが、殊炎山に関して、自身は相当過保護であるらしい。
 相手に言わせれば、そんなに脆い作りはしていないと反論されるだろうが、体調の管理を任されていながら、一方で自らにその健康、即ちIPCという巨大企業の次代のすべてを委ねられているとなれば、容易に見過ごすことはできなかった。
 だというのに、傾倒し過ぎれば不利益を蒙ることを意識しながら、炎山と身体を合わせることに抵抗がないのが厄介だった。矛盾している、と一言で評されるそれは、間違いなく不要な行いだ。
 ナビが、存在自体、否。発生自体も異なる人間と交わって何の得があるのか。
 ある、と肯定する者と、ないと断罪する者。
 どちらも自我であり、冷静且つ的確な観察眼を持っていた。
 開いた袖の入口から掌をさ迷わせ、三次元の肌へ直に触れる。
 今までは、どんなに足掻いたところで手にすることのできなかった感触。ただ温度センサーが色で識別された数字を拾い、視覚装置が人と同じ景色をそのメモリに記録した。
 指に張り付くような手応えは、炎山が流した生命の証拠だった。
 脇をくすぐられ、途端に薄い布で隠された身体がびくりと震える。表情が乏しいと思われがちだが、それゆえに言葉にできない部分での感度は野生の動物並みに優れていると思う。
 過敏になる理由が、自分が触れているからとは思わない。幼い頃から母方の肉親以外、彼に触れる者はいなかったから、その所為で他人との接触に不慣れであると認識していた。
 一度覚えた温もりを、まるで秒刻みに記憶するかのように、二人きりの時間に炎山からこちらへ手を伸ばすことは珍しくない。
 現実世界に身体を現せるようになる以前からも、ふとした拍子にPETに掌を重ねる仕草をしていたことを思い起こす。
 いつからそうするようになったかは定かではないが、ここに自分がいることを確認するような所作は、たった一度きりとはいえ彼に喪失という重責を負わせたあの一件が起因しているのだろう。
 本当にここに、側にいることを確かめたいと願っているような。そして、精神的な安息すらそこに託しているような印象を与えた。
 カバー越しにその温もりを感じていたが、今はこうして実感し、自らも触れることができる。
 驚くほどの科学の進歩が、ナビというデータの産物をより人に近い場所へ導いた。
 上質の絨毯が敷き詰められた床へ衣服を落とすことなく、器用に肩や腕に炎山の浴衣の帯を引っ掛けながら、まだ肉の薄い身体を引き寄せる。
 本来自分本位である少年にとって、この時間と言うのは若干手持ち無沙汰であるのか、わずかに眉をしかめつつ相手の手の動きを見守っている。反応らしい反応は時折見せるものの、形の良い唇は結ばれたままだ。
 上空からそれを眺め、さらに距離を縮めるように額を寄せた。
 硬質な頭部の前面が、柔らかな羽毛のような前髪に埋まる。
「…炎山さま」
 乞うように唇を寄せ、近距離から囁きかければ、すぐに細い頤が上向いた。
 半ば脱げかけた腕を伸ばし、後ろ髪と首裏の間へ手を忍び込ませる。慣れた動作には、少しの逡巡すらない。
 端正と言うには整い過ぎている容貌が、どんな風に相手に映っているのかは定かではない。大きな違いはあれど、すべてが画一的な技術から作られているのだとしたら、自分たちの姿はある意味単調だ。何億もの遺伝情報を受け継ぐ生身のように、固有の形状はしていない。
 それでも、ブルースという名のナビを認識するのと同様、この容姿を識別の対象と考えているなら、拘ることではないのかもしれない。
 人間のように微細な感情までをも面に出すことはできないが、わずかに覗いた肌と思しき部分を炎山が気に入ってくれているのだとしたら問題はなかった。ナビの姿形など、本質とは無関係であるとはいえ、確かにその一端を担えるだけの要素ではあるのだろう。
 啄ばむように薄い皮膚が何度も近づき、細い吐息が途切れ途切れに漏れる。
 敢えて受身に回りながら、その下で蠢く食指を更に下方へ忍ばせた。
 常にクールであり続ける白い面の、その中で一際異彩を放つ紺青の眸がかすかな信号を発する。
 例え黒で塗り潰されたような自身のグラス越しでも、その変化を正確に捉えることができる。瞬きの合間に映し出される青は、決して光を失うことはないが、おのれの指一つで確実にそれらを覆う透明な膜を歪ませることができた。
 二つの体積の隙間で、最も敏感な箇所を捕らえられ、上体に預けた二の腕が震える。呼吸すら、内面の動揺に倣うように振動しているかのようだ。
 俯き、長い前髪で隠された口元が、とうとう戒めを解く。
 歯を食い縛り、衝撃を受け流そうと足掻く様は、戦いや日常の生活では見られないものだった。だからこそ、もっと知りたいと願うのかもしれない。
 捕らえた生身を乱暴にならない程度の強さで扱き、溢れた先走りの液を親指で弾く。もう一方で相手を逃がすまいと、後ろの双丘を侵蝕する。滲み出した汗で濡れそぼったそこは、異物を拒むように入口だけがかすかに乾いているようだった。
「炎山さま」
 再び問うように囁くと、相も変わらず律儀に応答を返す。
 持ち上がったおとがいとともに、影になっていた目元が現れる。普段は強い眼差しが、羞恥と快感に弱弱しく歪んでいる。
 具体的に言葉を発するより先に、噤んでいた唇を開く。口端に力を込め、歯列から舌が覗きそうな気配を察して、炎山は何かを悟ったように瞑目した。
 やがて小さな顔が吸い寄せられるように近づき、半開きだった口を覆った。口腔をすぼめ、狭い器官から有りっ丈の水分を引き出すように、体液を持たないナビへ唾液を譲り渡す。
 口内にそれらを留めたまま離れ、後方を探っていた指先を躊躇わずおのれの口に招き入れた。
 丹念に潤し、引き抜くと、徐に空いた側の腕で浴衣の裾をたくし上げた。露になった白い面積へ、今度は明らかな目的を持って進入する。腰の前面を自身の足に密着させ、擦るように動きを加えると、絡めた腕に力が篭った。
 どんなに押し殺しても、本能的な衝動だけは防ぎきれない。下肢を細い固体に侵略され、それだけで炎山は喉を反らせた。
 抑えきれない衝撃がその全身を襲うだろうことを見越して、強烈な刺激を伝える箇所を執拗に攻めた。まるで相手を陥落させたいとでも願っているかのように、指一本で感覚を支配する。搾り出される声音よりも、浮かされたような熱を感じたいと思った。
 辛うじて地面に接していた両脚を抱え上げるように脇の位置へ持ち上げると、その動作を手伝うように肘の裏が首に回った。
 幸いなことに、発達した部位は炎山の性器から溢れたもので濡れている。それを塗り込めるように一度掌で扱き、まだ乾ききっていない秘口に宛がった。
 先端を押し付けただけで、大きく体の軸が振れる。急速に硬化し、成長した雄の象徴に臆したようでもあり、文字通り反射であったのかもしれない。
 性急過ぎたかと逸る気持ちを嗜めながら、慰めるような手つきで前を愛撫した。
 一瞬固まった呼吸が、やがて緩やかなリズムを取り戻す。弾むようでもあり、また惑乱の中に消え入ってしまうかのような危うい呼気が肩を唇を奮わせる。
 まだ全部を収めきっていないとはいえ、緊張が解かれるにつれて炎山の秘所は受け入れる準備を整え始めていた。
「…何というか」
 掠れたような低音が、熱い息とともに吐き出される。
「今更だが、この恰好は、少々堪えるな……」
 体勢が辛いと感じているのではなく、単純に気恥ずかしいと考えているらしい。
 しっかりと全体を抱えられているとはいえ、背に壁があるわけではない。掴まるものは目の前のナビしかいないという事実に、自分がどんな体位でいるのかを正確に捉えてしまったからだろう。
 とはいえ、快楽に溺れかける理性を必死に保つための苦し紛れなのか、本音なのかはわからないが、それを言葉にできた時点で、心理的な余裕が多少なりと生まれたということに他ならない。そして、それは紛れもない合図でもあった。
「そうですか?」
 口調は些かも卑屈ではないが、どこか底意地悪く聞こえなくもない答を返す。
「俺は、炎山さまをどんな角度からも知りたいと思っています」
 こうして触れている確証を、どんな些細な視点からも手に入れたいと。
 そうか、と小さく呟くような返答がある。
 目線は真白の髪に隠れて窺うことはできないが、はっきりとした拒絶ではない。無論、喜んで受け止めているわけでもないだろう。
 けれど、確かめたいと願う思いは同じなのだ。
 ずぶりと、柔らかい肉に弾力とは程遠い肉体の一部をうずめる。穿つのではなく、深く繋がるために、強く緩く打ち付ける。動きに変化が生まれ、内壁を掻き回される度に、紅潮した頬に無数の汗の筋が伝った。
 肉薄の箇所を男根で刺し貫かれる都度、浮ついたような喘ぎが強張っていたはずの唇の封印を解く。細い肩が乱れた呼吸と律動に揺れ、忙しなく上下する胸は濡れて、張り付いた衣に肌の色を滲ませた。
 それでも視線を隠そうとしないのは、こちらに何かを訴えるためであるかのように黒い視界に映し出される。
 ブルース、と名を呼ぶ、その一声を待ちわびるように。
 奥深くまで揺さぶるように両腿を掻き抱き、舌を絡めて束縛する。もはや、おのれの欲求を禁じる何者をも感知できないのなら。
「………っ」
 引き攣れるような悲鳴が、喉奥から届いたかと思われた瞬間、背に回っていた足指が痙攣し、身体にかかる重量が増した。
 同時に、受け入れていた器官が収縮し、心音が移りでもしたかのような固体に、新たな刺激を刻んだ。
 まるですべてが白色がかった光彩に飲み込まれてしまったかのように、思考を司る機関が閃光に包まれる。長い空白であるかのように見えて、覆われたと思ったのは時間と知覚するには短過ぎたかもしれない。
 ぐったりと全身を弛緩させ、途切れたように逼迫した息を漏らす。高熱に浮かされたように熱くなった体をしっかりと抱きとめ、意識が正常に戻るまでを待つ。
 一度際を見ると容易に復活はしないが、その時間というものを酷く満足して受け止めているのは、無防備な姿を自分だけが知っているという優越感からだろうか。動きが再開されるまでの始終を、護ることができるのは、今は自身だけなのだという自覚。
 絶頂という互いの性を交わらせるために不可欠な結果を得ることはなくても、炎山を手にしている事実には相違がない。繋がることに何らかの意図を見出しているのだとすれば、まさに行為そのものがそれなのだろう。
 肩口に預けられた白い髪を優しく梳きながら、訳知り顔に口元が綻ぶのを留める術は見つからなかった。


「……申し訳ありません」
 多分、こうして炎山に頭を下げるのは一日に一度や二度では済まないような気がする。
 いや、とベッドに突っ伏したまま、がらがらに掠れた声が眼下の裸の背から返る。その様子を、幾分はらはらした面持ちで赤いナビは眺めた。
「…許可したのは俺だ。おまえの責任じゃない」
 言ってはいるが、シーツに埋もれたまま身じろぎすらできないのが、極度の体力の消耗を示す良い証拠だった。
 白い肌には、これまで行った行為の回数を表すような、無数の痕跡が刻まれている。
「…ったら……」
 渇ききった気管から搾り出せなかった言葉を反復し、半分枕に沈んだ頭部を動かさないまま炎山は物憂げな調子でブルースに告げた。
「明日、俺がベッドから起きることができなかったら……」
 全部、熱斗の所為にしろ。
 備え付けの簡易な卓球場で好き放題食い下がってくれた親友に、全部責任を押し付けろと命じる。
 無論、言い逃れというか、ここにはいない仲間に罪をなすり付けているのは明白だが、流石に夜励み過ぎて倒れましたと公言できる立場にはいない。
 はい、と承諾する以外、自身が取れる選択は当然のようになく。
 結果、ブルースらが光熱斗へ一つ借りを作ったというのは、質す必要もない事実だった。


-2005/11/06
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