ひめごと2
 ロックマンが去り際、何かを言ったように思う。
 ブルース、気をしっかり持ってね、とか、何とか。
 いつもなら、余計な世話だと断言できたはずが、ああ、とか、おお、とか、呟きでしか返すことができなかった。
 つまり、これは。
 どういうことだ……?

「ブルース。週末打ち合わせ予定のB社の系列会社に関する資料を、明日の十時までに集められるか?」
 人間の秘書には別件を頼んでいるから、その情報はこちらで収集するしかないと説く。
 尤も、インターネットを通じて必要な条件を入手するのは、その間を自ら往き来できるネットナビ以上に優れたツールは存在しない。それらを有効活用するために、彼らが作られたと信じる者も少なくなかった。
「あ、はい。炎山さま」
 意味もなく、返事が痞えてしまう。
 伝達回路に、支障が生じたか?
 先週、定期メンテナンスから戻ったばかりなのに、そこでは見つからなかった不符合でも影響しているのだろうか。
「…ブルース。今から出かけるつもりか?」
 情報の渦とも言うべき場所と回線をつなげたナビに、怪訝な声がかかる。
「は?…いえ、明日でも遅くならないでしょうか」
「…………」
 どうかしたのか、と炎山の顔はそう言っているようだった。
 面に感情を表さない分、表情の変化はあからさまだ。それにも増して、自分が何を言っているのか、理解すること自体が困難であったのかもしれない。
 ネット世界に朝昼夜の区別はない。現実世界に於けるスーパーのように、いつ頃開店で、閉店する時間は何時という制限もない。だからこそ膨大なデータを保有していられるのだから、今行おうが命じられた時間直前に出かけようが、時間的な長短は皆無であるはずだ。
 行けばすぐさま得るべき回答を手にすることができるのだから、急ぐ急がないは物質世界の住人である人間だけの感覚だ。ほぼ同時刻にサーチした情報を入手できるナビにとって、その差異はあって無きものに等しかった。
 であるのに、自分は今、何と答えたのだろう。
「申し訳ありません、炎山さま」
 謝罪を前に、ふう、と炎山は嘆息したようだ。
 腰掛けていた上質のチェアの上で、足を組む。
 まだ全容が明らかになっていない取引の場で、相手を挑発するために腰から下を故意に動かすことはあるが、それを部下に見せることは稀だ。
 懐を探るような動作である以上に、対する側の不明を責めているような印象がある。
 しかし、あちらから状態を尋ねてくるような素振りは微塵もない。確かめているようでもあり、同時に内面で思考する様子が見て取れた。
「そこまで…」
 不意に言葉を発しかけ、炎山はつと口を噤んだ。
 またしても、今度は細いため息がその唇から漏れた。
 長い熟考、というわけではなかったが、どこか思うところがあったのだろう。
「いや、良い。…ブルース」
 かぶりを振るように言いかけた台詞を打ち消し、強い調子で炎山は名を呼んだ。
 些細なことではあるが、こちらの不手際に関して叱責を受けるな、と覚悟した途端、その口から発されたのは、予想したのとはまったく逆の内容だった。
 画面の中の赤い影を見据え、常に閉ざされたままの唇を開く。
「俺を責めたければ、そうしろ。自尊心を傷つけられたのなら、放置するな」
 苛立たしげに、少年は命じた。
 何を指しての命令であるのかがわからず、黒いグラスの奥で眉をひそめる。
 一抹の不信感にも似た感情をあからさまに表面に出すことはしなかったが、発言の意図が瞬時には理解できなかったからだ。
 例え傷つけたのがオペレーターであっても、それを抱え込んでしまうなと言っているのだろう。そう解釈する以外、相手の言葉は判読のしようがなかった。
 不可解だと感じたのは、沈着冷静であるはずの自分のナビが醜態を晒しているのが我慢ならないのではなく、怒りは半ば炎山自身に向けられているように見受けられたからだ。
 何故、そんな感想を持ってしまったのだろう。
 意識が更に、混沌としてくる。
「そんなことは…」
 辛うじて、ない、と答える。
 炎山は自分に不満があって、あの時隠し事ならあると真実を言ったわけではないだろう。
 これはプライバシーの問題であり、知らぬことはないはずだと自惚れていたこちらが未熟だっただけで、炎山を責める理由は一つもない。むしろ、今辛さを抱えているのはあちらなのではないかとさえ思う。
 なぜ言わないのか、と炎山は言った。
 ほとんどそれは、悲鳴に近かった。
「俺が、そうしろ、と言っている…!」
 明確な反応を示さないナビに業を煮やしたかのように、机の端を拳で叩き、舌打ちする様など滅多に見られない姿だ。
 いや、感情の昂ぶりそのものが、やはり相手自身に向けられていると感じざるを得ない。
 炎山は、他人を無用だと切り捨てることはあっても、身内と見做した者を平気で侮辱できるような人間ではない。
 それゆえに、何か他に原因があるのではないかと気を揉まずにはいられなかった。
 心拍数が普段より増え、発汗もわずかにあるようだ。
 過度の精神的負荷が、少年の心や身体を圧迫しているのは明白だった。
「ご気分が優れないのですか?炎山さま」
 問えば、炎山は椅子から立ち上がり様に違う、と退けた。
 こんな時ほど、ナビがPETから出られるよう進化していて幸いだったと思うことはない。傍らへ歩み寄り、明らかな動揺を示す五体に直接触れられるからだ。
 同じ生身ではない者同士が触れ合ったからといって、同様の効果があるわけではない。だがそれを差し引いても、手を伸ばさずにはいられなかった。
「炎山さま?」
 真っ白な前髪に隠れた瞼を掌で覆い、違う、と呻くように呟く。
 そんなつもりじゃなかった、と炎山は言った。
 それは懺悔のようでもあり、制御できない本心の発露そのものであるかのように映る。
「…俺は、そんなに無様だったでしょうか」
 炎山が取り乱さねばならないほど、不相応な態度だったかと尋ねる。
 落ち度があったのならば、断罪されるべきは自身だろう。それを甘んじて受け入れるだけの自覚はある。
 オペレーターとナビは同等だと評す連中もいるが、それを一般的な認識と捉えるのは誤りだ。例え現実にそれらが通念としてまかり通っていようと、自分にとって炎山は同列に配すべき人物ではない。対等な存在だと公言しても、価値観まで等しくするつもりはないからだ。
 違う、とまたしても、同音が返った。
 俯き、目元を隠したまま、細い顎と鮮やかな唇の色彩だけが見下ろす視界に映し出された。
 炎山は否定したが、うろたえたのは事実だ。
 深い信頼関係にあると思い込んでいたのは、まったくの見当違いだと言われたも同然のように感じたのは、一瞬とはいえゼロではない。
 そのわずかな惑いが、おのれの炎山への信頼に水を差したというなら、やはり非があるべきはこちらなのだ。彼が後悔しなければならない根拠は、どこにも見当たらない。冷静に処理できなかった自分の対処法に、誤差があったに過ぎないのだから。
「俺は、自分などより、炎山さまの意思を尊重します」
 所詮はナビだと告げるつもりはないが、すべてを重ね合わせて共有することは、重きを置く部分だけで充分ではないか。
 気に留める必要のない些細な事例で、炎山が内心に秘めていることなど、当然のようにあるだろう。そこに後ろめたさも、回りくどい理屈もないのであれば、執心すべき物事ではない。傷心するなど、論外だ。
 一見突き放すような物言いだが、互いに距離を置くことは、正確に他者を捉えることとイコールだ。見誤ることは決してないと言い切ることはできても、馴れ合いなどという価値の低い関係は御免蒙りたいというのが正直な感想だった。 
 恐らく、炎山もそれを望んでいるはずだ。
 なのに苦しめたのだとしたら、素直にそうできないだけの意義が、どこかにあったのだということだろう。

「………もし、」
 おまえが、知りたいと思うのなら。
 呟きよりも低い囁きは、触れている肌を通して直接伝わってくるようだった。
 振動が、心音と穏やかな呼吸を伴って訪れるように。
 望むなら、自分が隠していると言っていたことについて教えることはできる、と炎山は言った。
 黒い腕の中で身体を預けたまま、その形の良い口端をわずかに持ち上げる。
 しかしそれに、応という答は返らなかった。
 短く辞退する旨を示し、主の柔らかい髪に鼻先をうずめる。それだけの相違で、心の曇りが晴れたと明かせば、深い青色の光彩に皮肉な笑みを浮かべただろうか。
「…今は」
 いや、だからこそ。
 このままで。
 触れ合っている時間だけが、互いの距離を埋める一つの手段だと信じられるのならば。


「だがおまえなら、大方の予想は付いているんじゃないか…?」
 白いカップから苦味のある液体を一口含み、炎山はPETに戻ったナビに問いかけた。
 一度落ち着いてしまえば、当分は二度と気を荒げるような状況に陥ることはないだろう。
 あれは一種のヒステリーだったのではないかと、恥じているような気配は否めない。目線を真っ直ぐに合わせないのは、少年独特の照れ隠しであることをよく理解しているからだ。
 相手にそれほどの異変を起こさせてしまった原因が自らにあるのなら、恐悦至極というか、何と言うか。そんな話をさせた光熱斗の存在が忌々しいとさえ思ってしまう。
 無論、それが逆恨みであることも重々承知の上でだ。
「炎山さまへの推測は、侮辱に当たるのではないでしょうか」
 周囲の人間に勝手に心中を想像されるのも、斟酌されるのもあまり得意ではないことを見越して答える。
 まあな、とブルースが知る中で誰よりも青い眸を持つ少年は、ナビの返答を肯定した。
「相手によりけり、といったところだ」
 自分が対等だと思っている奴なら、迷惑じゃない、と言っているようでもある。
「…わかりました。炎山さま」
 束の間、炎山は椅子の上で小首を傾げたようだった。
 何がわかったと言ったのか、その真意を探りたかったのだろう。
 しかし、後に続く言葉を呑んで、受け皿の上に手にしたカップを下ろした。
 センサーは飽くまで忠実に、慎ましげな音の余韻を記録した。


-2005/11/20
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