春に似た風
 あけましておめでとう、炎山。
 穏やかな表情が垣間見える瞬間、なぜかそこにほっとしたような空間が生まれる。

「あ、炎山?」
 ぱっと、明るい色が画面一杯に広がる。
 声調もそうだが、この少女には独特の雰囲気があった。
 周囲の人間を自身のペースに引き込んでしまうというか、笑顔に釣られて、周りもつい苦笑なり微笑なりを浮かべてしまうのだ。
 あまり口元に表情を浮かべることのないこの少年とて、例外ではない。
「炎山…!」
 本人の姿を確認して、綻んでいた目元が、今度は本当の笑みになる。
「やあ、アネッタ」
 時節通りの挨拶を交わし、今年もよろしく頼む、と告げる。
「うんうん。私もよろしくだよ、炎山」
 話をしている最中も、始終笑顔が絶えない。
 暗く沈んだ顔も、怒りに肩を震わせる光景も知っているから、尚のこと、その上に培われた彼女の前向きな姿勢には尊敬を抱かずにはいられない。
「今ね。実は、アメロッパへ旅行に来てるんだ」
 なるほど。だから、背後の景色が見慣れたそれなのか、と合点する。
「家族旅行か?」
 水を向ければ、うん、と弾むような声が返った。
 少し照れくさそうに眉の端を下げ、心なしか頬を染めながら説明をする。
「お父さんとお母さんが、シルクがいない私を元気付けるために奮発して、ね」
 もう、大丈夫なのに、と呟く面は、完全に吹っ切れたと断言できるほどの強さはない。
 親友だと信じていたナビを失った痛手は、容易に癒されるものではなかった。一時とはいえ、同じ境遇に陥った炎山自身には、少女の気持ちが痛いほどよくわかった。
 少しずつ。本当にゆっくりとした動作ではあったけれども、彼女は懸命に前へ進もうとしている。もう二度と帰ることのないナビを、大切な思い出として胸に抱いて行こうと。

「こっちで炎山に会えるかなって期待してたのに、今年はニホンにいるんだもん」
 がっくりと落胆している様子で告げ、そして珍しいね、と言った。
「炎山が、ニホンでクリスマスもお正月も迎えるなんて」
 仕事の都合上、海外へ出向いたが最後、短期間で帰国すること自体が稀だったから、父親の故郷で大事な時期を過ごすなんて驚きだと表す。
「今回は、父さんが奮闘してくれたんだ」
 息子のためにと思ったかどうかは定かではないが、クリスマス・プレゼントとお年玉の代わりに、休暇の間中ずっと働いてくれたのだと。
 社交場へ顔を出すのは親子ともどもあまり得意というわけではないが、一念発起して秘書を従え、向こうへ出向いてくれたらしい。自身の一人息子が、ニホンでできた友人のパーティに前々から誘われていたという情報をどこからか得たのか、そのために重い腰を上げてくれたのだそうだ。
「良かったね、炎山」
 あまり人前では言えないことも、素直に喜びを口にするアネッタの前では隠す必要がない。
 ああ、と受け、話題に出てきた父親の顔を思い出して、少年は口元を薄く歪めた。
 新年早々、警備員しか残っていない本社を訪れ、整理された書類に目を通しているのは、自身としては長い休暇中に溜まった諸々の後始末のためだ。手に持っているもの以外は粗方片付いたが、もしかすると今日はここへ泊まることになるかもしれない。
 我が家だろうと、社に設けられた私室であろうと、休む場としてはどちらも大差はないが、出社や帰宅の移動がない分、ここに留まっている方が便利だと言えないこともない。
 もし問題があるとすれば、家と違って勝手に食事が運ばれてくるようなことはないので、自らの足で食べに出て行かなければならない点だろうか。しかしそれも、信念上美食家とは言い難い炎山にとって、ファスト・フードであろうと高級料理屋であろうと、胃に収まってしまえばどちらでも構わなかった。無論、食物の好き嫌いは別だったが。
「そういえば、ブルースは?」
 クリスマスの話で盛り上がっていた途中、常に従っている者の不在を問われた。
 彼女の中では、炎山と対で、ブルースというナビが認識されているようだ。影のような存在というわけではなく、人間と同じ友人として理解しているのだろう。勿論、オペレーターあるところに、ナビの姿がないはずはない。
 今や全世界どこへでも持ち運べる通信機を使った会話であるのに、そこにそれを管理すべき当人がいないので、どうしたのかと思ったようだ。
「今は社に留まっても、ブルースに任せられる仕事がないからな」
 資料の整備など、彼の手にかかればものの五分とかからない。よほど大掛かりな仕事が舞い込んでこない限り、ブルースの手を煩わせることはなかった。
 だから、ネットセイバーのナビとしての役目を果たすべく、インターネットシティへ見回りに行かせていると答える。
「ふ〜ん、大変なんだ……」
 二人に年頭の挨拶をしに来たのだろう少女は、居合わせなかった者に、自分の言葉を伝えておいて、と言って苦笑した。
「わかった。伝えておく」
 再び書類に目を落とそうとして、ふふ、と意味深な笑い声が耳に届いた。
 まだ何かあるのかと、不自然ではない動きで、目線を傾ける。
 アネッタは、そんな炎山を見て、薄く目を細めたようだった。
「だから、炎山。ちょっぴり寂しそうだったんだね…?」
「……?」
 思わぬことを聞いたと言わんばかりに、白い貌が横顔を見せたまま固まる。
「俺が?寂しい?」
 我知らず、わずかに声を大きくして、鸚鵡返しに聞き返してしまった。
 些かも動じず、少女は胸を張るように両腕を背後で組んだ。
「うん。ブルースがいなくて、しょんぼりしている風だったよ」
 そういう風に見えたよ?、と首を傾げながら彼女は微笑んだ。
「………………」
 閉口し、正面に向けた顔を困ったように顰める。
 そこに怒りがあるわけではなかったが、どんな表情を作るべきなのかが推し量れなかったからだ。
 アネッタが自分とブルースの関係を知っているわけではないと思っても、そこに流れる空気というものを、女の直感か何かで感じ取っていたのかもしれない。濃密と言えるほどあからさまではないが、細やかな気配りが二人の間にあることを。
 まさか性交渉にまで及んでいることまで悟られていないだろうとは実感できても、心底から湧き上がる照れというか、居たたまれない心地からは逃げることができなかった。
「……そういうことも、あるかもしれないが……」
 どっちつかずな心情をそのまま表面に出したような、自信のない声音が漏れる。
 あるある、と、笑顔の主は屈託もない。
「私だってシルクが病院の仕事でいなくなっちゃう時は、寂しいなって考えたもん」
 だから、それは全然不思議なことじゃないよ、と念を押す。
 励まされているのか、慰められているのか。
 明確に判別することはできないが、それでも少女の笑みが途絶えなければそれで良い。
 そうだな、と。
 答えた口元には、目元同様の光が浮かんでいた。



「…おまえの分の土産も、買ってきてくれるそうだ」
 ブルース、と相手の名を呼ぶ。
「はい、聞こえていました。炎山さま」
 PETの影から姿を現すように、ナビの擬似映像が映し出される。
 サイバーワールドに立つ容姿をそのまま映写しただけの、文字通り映像という名の分身だった。
「アネッタは、おまえの顔を見たがっていたぞ?」
 思ったよりも帰還が早かったことは炎山にとっても計算外だったが、任務を終了した旨を報告せずに、わざと面会を避けた理由がわからず、遠回しにその訳を尋ねる。
「根拠、と呼べるほどのものは何もありませんが…」
 語尾を濁し、赤いナビは主の問いに答えた。
「ただ、俺はお邪魔だったのではないかと」
 二人きりで話をするのに、常にオペレーターとともにいるナビは、時に無粋な役柄となることも多い。
 すでに切っても切り離せないほど、彼らが人の実生活に侵食している事実に間違いはないが、それでもけじめをつけなければならない場面は数多い。人間との関わりを馴れ合いなどではないと断言できるブルースにとって、立場を弁えるということはその実証だったのだろう。
 尤もらしい見解を述べれば、今度は違う意味で炎山は閉口したようだった。
 おまえの気遣いは有難いが、と告ぐ。
「そんなことは、考えなくて良い」
 まだ、そこまで配慮しなければならないような年代でも、関係でもないと説く。
 友人を超えて、そこへ行き着くまでの発展があるのかどうかも定かではない。それに、淡いままで終わる恋心というものもあるだろう。
「……いや」
 不意に、炎山は自身の言を否定した。
 躊躇うように唇をわずかに舌で湿らせ、歯の隙間から吐息のような声を吐いた。
「俺が、考えたくないだけだ…」
 そんな、先のことを見通せるだけの余裕はない。そして、ないと思いたかった。
 今のままが良いと弱音を吐くつもりはないが、この時期だからこそ、そういったあやふやなものに縋っていたいと願った。
 微妙で、どこまでも穏やかな空間が支配する、今。
 現実でありながら、途方もない予兆をはらんだ時間というものに、まだ甘えていたいのだと。
「………………」
 独白のような呟きに返るものはなく、沈黙と呼べるほど、重くもなく冷たくもない空気が流れた。
「差し出がましい真似をしました」
 申し訳ありません、とやがてブルースは頭を下げた。
「否、そうじゃない。おまえの行動は、間違っていなかった」
 苦笑いを浮かべ、悲しそうな表情がその白い面に浮かぶ。
 意図して表したわけではないだろう、無意識の感情が、目の前の存在にのみ注がれる。
「ご苦労だったな、ブルース」
 聞き慣れて久しい労いに、ナビではないものの心情も、また。


-2006/01/14
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