黒柩
「どうでしたか、博士。検査は…」
 科学省で定期的に行われる入念な健康診断の結果を聞くため、着替えを終えたばかりの光熱斗とともに研究室を訪れた。
 二人一緒の時間を設けるのは過密なスケジュールをこなす自身にはそう容易いことではないが、ネット警察や科学省に関する事例に対しては特別に社へ休暇を要請できるような体制が取られている。元々それらがIPCとは無関係であるとは言い難いため協力は惜しまないだろうと思われがちだが、父である社長がそれにばかり時間を割くことを快く思っていないこともよく理解していた。
 けれど、我が子の健康状態を無視することもできず、検診だけは必ずと言って良いほど科学省から指定された日程を守るよう配慮してくれているようだ。これまでに前例がなかった、クロスフュージョンと呼ばれる物質とデータの融合という技術をこれからも継続させて行くためには、肉体に及ぼされる影響はどんな些細な変化であれ、見つけ出さねばならないからだ。
 ゆえに任務を除けば、光熱斗なる友人とは頻繁に会っていると言うべきだろう。相手はこちらに対して少なからぬライバル意識を持っているらしいが、ネットバトルの話題を持ち出さない限り、年相応の知人と言うべき間柄だった。
 低次元なひやかしを四六時中聞かされる羽目になればいい加減堪忍袋の緒が切れそうにもなるが、この時ばかりは自分たちのナビのメンテナンスも兼ねているため、その手の話が浮上することが多い。
 我がこと以上に、彼らの身の上を気遣っている。
 そういった部分にも、高いシンクロ率を誇り、ナビと一心同体となって行動するのに不都合のない理由があるのだろう。

 仕事部屋の一角で人懐こい笑みをその相貌に浮かべ、祐一朗は彼らを迎えるように振り返った。
 手には、ファイルされた分厚い資料が携えられている。
 これまでの検査の数値を記録したものと、恐らくすでに集計されたデータがファイリングされているのだろう。
 自身の考案を数限りない実験によって現実のものとし、実体化したウィルスと戦うための手段として、クロスフュージョンを短期間のうちに実現、発展させた者として、重い責任を背負っているのもまた、彼だった。
「二人とも、問題はないよ」
 これといって身体的な障害や負担は見受けられないと言い、わずかに緊張した面持ちだった少年たちを安堵させる。
 今まで何度か同じ検査を繰り返している手前、いきなり悪い診断が下されるとは思っていなかったとはいえ、短い間に連続して同じ動作を続けていれば、どこかに軋みが生じていてもおかしくはないと懸念していたのだ。
 けれど、その心配というのは自分たち生身の人間ではなく、本当はパートナーであるナビに対する危惧でもあったのだが、祐一朗の様子を見る限りは、同様に彼ら自身にも問題はなかったと解釈すべきだろう。
 ネットナビというものを軽んじている人種は、たかがデータの人形。代わりなどいくらでもいると評するかもしれないが、相手あってこその自分だと意識している者たちにとって、代替など、無きに等しい。
 生涯の伴侶、と呼べるほど仰々しくはないが、サイバーワールドで生きているもう一人の自分、と言えば、それがどれほど大切な存在であるのかが窺い知れるというものだ。
 ただ、本格的な成長期前とはいえ、炎山君は少し体重が減り過ぎているね、と注釈をする。
「は………」
 思わず、半端な声が出かかった。
 慣習化された寝不足と、定時に摂取できる食事の量が極端に少ないことが災いしていると自覚していたため、予想外の指摘ではなかったが、改めて指示を受け、改善に努力します、と言葉を添えた。
 日々の基礎トレーニングを欠かしたことはないとはいえ、同時にブルースとの性交渉を並行していれば、体力の消耗は当然だった。今は若いから、軽い睡眠だけで回復できるとはいえ、発育途中の身体にそれが良いものであるはずがなかった。
 今週に入ってから今日まで、ブルースとは一切交渉を持っていなかったとはいえ、聡い大人のことであるから、何某かの気配を感じ取って遠回しに注意を促してくれたのかもしれない。
「熱斗も子どもとはいえ、甘いものの取り過ぎには注意しなさい」
 はあい、と幾分ぶすくれたような返事に、目元をにっこりと綻ばせ、簡単な説明を終えると、祐一朗は面白いものを見せようと私服姿の彼らの傍らに立った。
「面白いもの?」
 途端に、息子である少年が訝しげに首を傾げる。
 何のことかと互いに顔を見合わせ、促されるまま、上空で展開された透明なディスプレイを見上げた。
「これは…?」
 緻密な文字や数字がいくつも並んだその真ん中に、奇妙な箱がゆっくりと回転をしている。
 それはどこを切り取っても真四角にしかならない、完全な立方体だった。
「ブラックボックスだよ」
 事も無げに告げられた名称に、二種類の声音が重なるように言われた内容をそのまま聞き返した。
「ロックマンやブルース。彼らの中に、できていたものだよ」
「できていたって…」
 黒い箱という言い回しや、見目の不気味さに触発されたように、いつも快活であるはずの熱斗が不安げに尋ねた。
「悪いものじゃないの?」
 機能に障害を及ぼす、一種のバグなのではないのかと訝るような声を上げる。
 確かに、ニホン人には聞き慣れない表現だったかもしれないと苦笑を漏らし、祐一朗は白衣に両手を突っ込んだまま、視線を上空へ延ばした。
「これは、人でいうところの潜在意識と同じさ。…擬似人格プログラムであるナビにも、人間同様こういったものができるだろうとの仮説は、前々から立てていたんだけど」
 こうして実物を見るのは初めてだね、と告ぐ。
 そして二つを見比べて、ブルースの方が、ロックマンよりブラックボックスの規模が大きいね、と評した。
 実父の説明を受け、障害ではないと納得した熱斗は、そこでようやく肩から力を抜いた。
 だったら、最初からそう言ってほしかったと零し、項垂れる。
 現代科学の権威の一人に数えられる人物から告げられれば、どんな小さなことでも真剣に受け止めてしまうのだろう。
 同じ立場上、熱斗の胸中はわからなくもなかったが、少々大げさ過ぎないかと炎山は思う。事実、危機的な状況を何度も聞かされたことがあるとはいえ、もう少し自分の父親を信用しても良いのではないかと。
 ただ、それだけ親友であるロックマンに関しては、真面目に思考していると考えるべきだろう。
「ボックス、なんて言うから、本当に箱みたいなんだと思っていたけど…?」
 半ば脱力しつつ、気の抜けた表情で少年は博士を一瞥した。
 見れば、ロックマンの方は立方体とわかる外見なのに対し、ブルースのものだと示されたそれは、多面的な形状を示していた。
 我が子の問いを尤もな意見であると肯定し、祐一朗は彼なりの見解を語った。
「人間に同じ人は二人といないように、彼らナビにも、同じものを持つ者は存在しないということだよ」
 潜在的に眠っている意識に同一のものなどなく、人それぞれだと言われ、なるほど、と説明を受けた少年は得心したようだった。
 ネットナビが人を元に作られたというなら、類似したような経過を辿ることも不思議ではない。彼らを身近に感じている者であればあるほど、博士の話は仮定や推測だけではないと信じられるものがあった。
「ロックマンやブルースも、俺たちと似たような存在だってわけか」
 当初から友人だと認識している熱斗はむしろ、同じだと言われて機嫌が良くさえある。
 対等な者だと理解しているからこそ、自分たちに近い部分を知って満足しているのだろう。
 身内だと考えているから、同じような境遇にあることを歓迎する。炎山自身にも、確かに頷けるだけの実感はあった。
 しかしその一方で、どこかに引っかかりを感じる。
 あれは、あの形は。
 自分がよく知っているものの姿なのではないのかと。


「…黒い箱、ですか」
 寝台で仰向けになった姿態の上へ乗り上げ、見下ろした者は、黒いグラスによって視界を遮られていた。
「そうだ。ナビにも人間と同じように、潜在意識が存在するというのが、博士の理論らしい」
 理屈だけを言えば、それに異論を挟む者などいないだろう。
 自己発展を遂げるプログラムが組み込まれている今のPETやナビには、相応の進化があって当たり前。むしろ、それをリアルタイムで見ているのが、自分たちなのだと言うことができる。
 何らかの変容や変化があっても、数値で示されたところでピンと来ないのは、彼らと日常的に接しているからだ。第三者であって初めて、検査結果を元に、分析し、論じて行くことができる。
 ネットナビ発展論と呼ばれるそれらは、一度だけだが自身も草稿を読んだことがあった。
 …しかし。
「何か、問題があるのですか?」
 白い絹の寝巻きの裾から手を差し入れ、肌に触れないよう細心を払いながら、徐々に高度を上げてゆく。
 熱はないが、表面が温かさを備えているのは、ブルースの采配に因るものなのかはわからない。けれど確実に、限られたエリア以外で実体化できる能力は、ナビとは異なるものの進化だった。
 こうして重なり合い、互いを求めることが可能なのは、自分とブルースだけに当て嵌まる境遇なのだろう。
「いや。…ただ…」
 言葉を切り、無意識に口元へ人差し指の側面を当てる。
 噛むような仕草とともに目線を横へ流し、仰臥した少年は近づいてくる他者の存在感にわずかな呼応を見せた。
「俺は、あれを、知っているんじゃないかと」
 思ったんだ。
 語尾は音にならず、唇だけが微動する。覆い被さるように薄く開いた器官がそれを塞ぎ、受け入れた側の喉を小刻みな痙攣が襲った。
「…っブルース…」
 すぐに離れるかと思った上体は逃れる隙を許さず、細い肩を掴んだまま行為を強行した。
 濃厚と呼ぶよりも一方的な蹂躙のような激しい求めに、とうとう堪えきれず制止を叫ぶ。
 申し訳ありません、炎山さま。
 声と言うには単調な、電子媒体に記録されているだけの音声が流れる。
「今夜は、手加減ができないかと」
 定期検査が実施されると告げられ、当日に至るまでの一週間、指一本触れていなかったわけではない。
 けれど触れたいだけ触れて、外側での際を得るだけに留めていた欲求は、すでに抑止する力を超えていた。
 早く繋がりたいのだと言葉でも行為でも求められ、反射的に興ったのは嫌悪でも拒絶でもなかった。はっきりと感じ取れる情動が肉体の中心で沸き起こり、獣のようにその腰が前後した。
 身体とは別の意識が事実を察し、著しい羞恥を全身に覚える。
 再び理性すら吸い上げてしまうかのような荒々しい接吻を受け、今度こそ完全に、炎山は情交に身を委ねることを選択した。
 欲していたのは、無論相手だけではない。
 押し伏せられ、欲望を充足させようと性急に食い込んできたブルースの雄に、交尾のような性交を強要される。
 汗があふれ出し、心拍数が急激な速さで高鳴った。柔らかい枕に顔の半分を埋め、高く掲げられた柔肌に、獰猛な牙が突き立てられる。
 広いベッドの上で繰り広げられる光景にしては、それは過密で、容赦がなかった。
 長い両脚で下肢を拘束され、硬い腰を幾度も形の良い尻に打ち付けられながら、身を屈した上空の影が灰色に近い銀糸を伴って降りてくる。
 一瞬、ほっとしたような空気の間を置き、首筋にあるその口が微笑ったような気がした。
 そしてすべての感傷を遮断するかのように、無慈悲な半面を晒したまま、呼吸が止まるほどの痛みを透き通るようなその肉に刻みつける。

 あの、柩のような黒に何が仕込まれているのか。
 隠されているのは、途方もない仮象などではなく。
 おのれのみが真実知り得ている、闇の色だと思った。


-2006/03/27
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