はるのかすみに
「すっげーな……」
 それ、と、純粋な驚きだけを舌に乗せる。
 余計なお世話だ、と言い返そうとして、またしても発声のボリュームが萎んだ。
 出だしからすでに空気の流れでしかないそれは、何度か咳払いをしてやっと、かすかな音色となって相手に知覚された。

「俺も、昨日は目一杯騒いだから、声ががらがらだけど」
 それにも増して、炎山のは凄くないか?、と尋ねる。
 まるで応援団長にでも指名されて、一日中叫び続けていた人みたいだ、と評す。
「…五月蝿い……」
 的確に言葉を発したつもりだったが、低い音、特に高音は、傷めた気管のせいで期するような形を取らない。
 予測できない部分に力が加わり、まるで自身の声質ではないような心地になってくる。
 不快であるとは言い難いが、それに近いような感覚から逃れるために、今日は誰とも言葉を交わすつもりはなかったのだが。
「一体全体、何があったんだよ。ブルース?」
 話を振られ、机上にホログラムとして浮かび上がった赤い姿態がわずかに肩を竦める。
「ブルースは、関係ない」
 なくもないが、と口中で呟きながら、炎山はぶっきらぼうな口調で少年の問いを遮った。
 ちえーっ、と不平を漏らしながらも、些かも臍を曲げてはいないようだ。炎山の心中を慮ってか、単に飽きただけなのか。なぜか今日に限って物分りが良いとでも言うかのように、熱斗は早々に手を引いた。
 興味がないわけではなかったが、大方喉の風邪だと予測したのだろう。炎山本人にそのつもりはないが、どうやら相手はこちらの身体があまり丈夫ではないと勘違いをしているようだ。確かに熱斗の前では四六時中気怠げなため息を吐いているかもしれないが、そもそもそれを起こさせている諸悪の根源は、紛れもない少年自身なのだが。
 一々突っかからず、鷹揚に受け流すことができるようになるほど、成長したと自惚れてでもいるかのように、瞑目しながら数回頷き、しかし唐突に、にやりと口元を歪ませた。
「そういえば、この間の検査は笑ったよなあ?」
 誰に同意を求めるでもなく、思い出し笑いのように、ぷくくと頬を膨らませながら上体を奮わせる。
 何のことかと尋ねるまでもなく、炎山にも覚えがないわけではなかった。
 必要とは言い難い日常の雑多な記憶は、さっさと消去するのが良策とはいえ、まだ新しいそれは、当人の意思に反して鮮明に脳裏に刻まれていた。
 途端に先刻以上の不機嫌面になった炎山に、意味がわからず首を傾げる親友兼現役ナビのロックマンに向かって、彼のオペレーターが親切に事情を説明する。
「いや、三日前の健康診断の時、用意されてた検査用の服がさ…」
 熱斗、と掠れきった怒声が届いた。
 完全な音として発音されていないそれは、窘めているつもりで、まったく効果がなかった。
 ライバルの怒気などものともせず、少年は台詞の最後までを言い切った。
「サイズを間違えたのか、丈が異様に短くて…」
 バランス良く鍛えられてはいるが、全体的に細身の炎山にとって、上部の寸法違いはさして問題にはならなかったのだが、年齢以上にすらりと伸びた足が露になってしまったのだと告げる。
 尤も、熱斗にとっては自分に与えられた物と大して変わらない長さでしかなかったのだが、炎山の方が頭ひとつ分ほど抜きん出ている手前、それは明らかに短い、と評さざるを得ない代物だった。
 それで、炎山の奴が真っ赤になっちゃって、と言い結んだかと思いきや、笑いを堪えて歯を食い縛る。
「挙句の果てには、俺のと交換しろ、とか言い出したんだけど、俺のもあんまり変わりなくってさ」
 そもそも似たようなサイズが二つ用意されていたに等しいのだから、服を取り替えたとしてもほとんど無意味だったのだ。
 結局、恥を忍んで裾の短い恰好のまま、二人でCTスキャン室へ入ったのだと明かす。
 替えを要求しようにも、手配した科学省の職員は非番だわ、予備はクリーニング中だわで、始終居心地の悪そうな顔で炎山は機械の上で横たわっていたのだと告げる。
 さすがに真実を煙に撒けるほど往生際が悪くない炎山は、会話が終わるまで黙って聞いていたが、話に終止符が打たれるや否や、さっさと帰れ、と一言告げた。
「けど、あんなに嫌がるなんて、おかしいったらなか…っ」
 正確には恥ずかしかっただけなのだが、当人にはなぜそこまで炎山が執拗に代わりを要求したのかが理解できなかったようだ。
 下にはちゃんとパンツを履いているのだから、女の人の目があるわけでもなし、必要以上の羞恥を感じること自体、彼には理解不能なのだろう。その見解は、決して間違いではない。
 だが、許されざるラインというのは、個個に異なっていて当たり前。死活問題というほど大仰ではなかったとしても、それなりの礼儀作法を身につけている炎山にとって、普通ではないということは、イコールあってはならない事実に相違なかった。
 大人げなかったとはいえ、当時の状況を回想し、軽く額を押さえる。
 眩暈を感じているのか、それとも照れ隠しであるのかはわからなかったが、散々に笑われた経緯を思い出し、今も腹を抱えて身を捩る青いバンダナの少年を睨み付けた。
「………で、おまえは、何をしに来たんだ」
 笑いの種になるくらいだったら、面会謝絶の札でも出しておくのだったと後悔しても、すでに熱斗は地上にいる受付係とも大分親しくなっているようだ。
 普段であれば、スケジュールが詰まっている、の一言で片付けられる部外者の来訪も、親しげな相手となれば別だろう。
 そして、誤解ではないが、自分にとって数少ない年相応の友人であると解釈されているのか、彼女たちが熱斗の訪問を歓迎しているような印象も否めない。余計なお世話だと断言するつもりは毛頭ないとしても、もう少し社のことを考えてほしいものだと思う。
 実際、そう頻繁に本社へやって来る機会はないものの、邪魔だと思うことも間々あるだから、こういった手合いは適度に追い払ってもらいたいものだ。
「いやいやいや、大したことじゃないんだけどさあ」
 いきなり本題に触れられて、まいったなあ、と少年は奇妙な具合に唇を曲げ、跳ね上がったような茶頭を掻いた。
 その身振りから大方の見当は付いたが、手っ取り早く友人を追い返すために、炎山は最後まで言わせてやろうと腹を括った。
 どうせ、些細な自慢話なのだろう。だったら、好き放題話をさせてやるのが得策だった。下手に茶々を入れたり、冷静にツッコミを返せば、それだけ長時間居座られることになる。
 健全な状態であればいざ知らず、今はあまり他人と話す気にはなれない。地声とかけ離れたものを他者に聞かせることそのものが、耐え難い行為だったからだ。


「やっと、帰りましたね」
 同情するような、あるいは事実を述べているだけなのか、平坦な声質が耳に届いた。
「…最初は勿体振るが、奴は元々単純だからな」
 つい昨日、熱斗が通う秋原小学校で球技大会があり、全種目で優秀な成績を収めたことを認め、栄えある学年MVPに選ばれたのだ。
 要約すればそれだけのことなのだが、わざわざ表彰された時の姿をロックマンに撮影させ、その賞状ともども、雄姿を見せびらかしに来てくれたというわけだ。
 それだけを言うために、先日の検査の件を蒸し返されたのだから、炎山にとっては良い迷惑も甚だしかったのだが。
 言いたいことだけを言って満足したのか、その後、呆気なく家へ帰ると宣言した姿を思い出す。
 途中で途切れた音質を正調に戻すように、炎山は軽く咳払いをした。
 確かに時間の無駄ではあったが、何かを思い悩んでいる時、ああいう風に簡単な物事に歓喜する様は見ていて邪険に扱えるものでもない。多少は鬱陶しいと思いはすれど、快活に笑う様子は、心ならずも自分とは違う風景を見ているような気になるからだ。
 一度では足りず、何度か喉を鳴らすと、窓から離れ、背後を振り返った。
 そこには、すでに実体化した自身のナビがいる。
 内側にある粘膜の傷を気遣うように伸ばされた手が、細い首筋を過ぎ、白い頭髪の裾を捕らえた。
「申し訳ありません、炎山さま」
 黒い指に柔らかい毛髪を絡め、こうして気管を酷く傷めさせた原因を作ってしまったことを詫びる。
「もう、良い」
 と、言っただろう。
 霞んだ声音は、空気の摩擦だけを双方に知覚させた。
 感じ過ぎたのも自身なら、求め過ぎたのも、どちらに非があるわけではない。
 今まで以上に身近に感じ、互いを確かめ合う時間をひたすら共有し続けた結果なのだとしたら、こうなることも初めからわかっていたはずだ。
 理解していながらそれを見ることをしなかったのは、過度の興奮とそれによる作用が全神経を麻痺させたからだ。
 そして、決定的な相違が、現実のものとして目の前に現れたために。
「あれは、夢じゃなかったんだな…?」
 確信とともに、問い質される真実。
「…はい、炎山さま」
 掠れた囁きに引き寄せられるように、上空の顔が近づいた。
 恭しく持ち上げられた白雪のような羽毛に、肌色と呼ぶことのできる擬似の温もりを落とす。
「俺は、炎山さまの中に………」
 熱い迸りを身体の奥に感じたのは、夢想ではないと。


-2006/04/18
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