化学は、調理と似ている。
いや、むしろ料理と言うべきかもしれない。
適度な先読みと、計算し尽くされた設計。構造。そして、それを生み出すのは発想という二文字以外の何者でもない。
「と、いうわけで、僕一人で作ってみたんだけどね」
は?、と思わず聞き返したのは、当然の結果だった。
「何のことですか、博士」
割とユーモアに精通してはいるが、根が実直な青年は、縁取りが鮮やかなグラスの奥で注意深く相手を観察した。
尤も、この光祐一朗という稀代の天才を前にして、その内面を測ることなど土台無理であることは承知している。心理学は得意分野ではないと早々に見切りをつけ、名人との呼称で親しまれる若者はわずかに形の良い首を傾げた。
「実は、僕ひとりの力でチップを作るのは初めてなんだ」
「はあ…」
すでに、そうとしか受け答えができない白衣の青年は、ズボンから両手を出したまま、呆けのような相槌を打った。
確かに、簡易プログラムの断片であるPETに装填するチップの類いは、様々な機材や人材を必要とする。単独で完成させられるほど単純ではないし、同じパーツを使っていると言っても、設計段階で苦慮することも少なくない。
それを一人でやって退けたというなら、ここはさすがだと褒め称えるべきかもしれない。
…それとも。
「…一体、何を作ったんですか?」
興味が先立って、おもむろにその内容を尋ねてしまう。
「お預けチップ」
事も無げに告げられた名前に、更に口が大きく開いた。
「はあ!???」
わけがわからず、しかし何某かの意図が隠されているのだろうと即座に思い改め、うむむ、と若者は顎を押さえた。
恐らく、預金とか、物を預けるとか、そういった便利な機能を持っているのだろう。
だが、チップ…。
PETに装填し、それをナビにデータとして送信するとして、何の意味があるのだろう。
もしかして、電子マネーやインターネットシティで購入したデータをネット上の銀行に預けるよう、ナビに予めプログラムしておく機能を持っているのだろうか。
しかし、それに一体、どんな効用があるというのか。
あるとしても、はい、良かったね、程度の些細な効果しか得られないと思うのだが…。
ネットバトラーとして達人を超えた名人級である青年は、その明晰な頭脳と想像力を存分に働かせたが、断片的な手がかりすら見つけられなかった。
そもそも、意味は、あるのか。
無、と答を弾き出した思考回路は、それ以上の詮索を避けるように回路そのものをシャットダウンしてしまった。
「……………博士。それは、博士の発案ですか」
怪訝そうな、けれど信頼が邪魔をして不信感を直接表すこともできず、名人は可能な限り平静を装って問い質した。
「いや、これは去る人からのリクエストなんだけど」
祐一朗の返答に、ごくり、と唾を飲む。
要人からの要請であれば、確かに博士自らがチップを製造することもあり得るだろう。
現に、科学省と防衛省は連携してネット犯罪を取り締まっている。貴船総監や、その他の上役たちから協力を求められれば、従うのが道理だろう。
だが、しかし。
……誰が、こんなわけのわからないものを?
機密事項であるなら聞くのはご法度だとは思いつつも、人間、端から禁欲的には作られていない。
「……私の知っている人物でしょうか…」
言い終えるや否や、青年はぅおっほんぅおっほん、とわざとらしい咳払いを繰り返した。ああ、喉の調子が悪いかな?、と付け加え、尋ねた内容を無理矢理誤魔化す。
これが本当に重大な任務であるなら、全世界公認のマスターライセンスを持っているとはいえ、ネットバトラー如き自身が関わって良い問題ではないからだ。
しかしその耳に届いたのは、ある種いつも通りな、頓狂な声音だった。
何にそんな及び腰になっているのか、一向に理解していないかのように、祐一朗は平然と依頼主の名を明かした。
「炎山君だよ」
「………………………」
やっぱり、こういう場合、聞くべきではなかったと解釈するべきなんだろうか。
まだ若いと自負しながらも、大企業の副社長を務めているとはいえ、最近の十代の考えることはわからないと名人が思ったかどうかは定かではない。
「…というわけで、試験はしていないけれど、一応実物を送っておくよ」
「ありがとうございます、博士」
早速届いた深緑色のチップを目の前で持ち上げ、改めて謝礼を述べる。
正規のルートを辿れば、ひとつのチップの開発と生産に何億という費用がかかるというのに、祐一朗自らが設計して完成させた手前、制作費はゼロということで手を打ってもらったのだ。
無論、それが実用に適しているかのテストをしていないプロトタイプであり、本人曰くお遊びであるからこその待遇であることは確かめる必要もない。普段の炎山であれば、そんな危なげなデータなど、自身のナビに触れさせもしないだろう。
より完全なもの、そして自らが納得して初めて使用を検討するのだから、正直、今の少年はよほどぎりぎりだったのだろう。
「炎山さま」
成り行きを画面の中で見守りつつ、通信が切れると同時になぜかほっとした様子の主に声をかける。
途端に、ぎくり、とその細い肩が振れた。
「そのチップは、一体どのような代物なのですか?」
驚いたように見事なまでの紺青を呈した双眸を見張り、幾分ぎこちない仕草で赤いPETを振り返る。
「き、気になるのか…?」
恐らく常態を心懸けているつもりだろうが、見る者が見れば、明らかにそれは焦りという名の動揺だった。
あの、炎山が。
人前で狼狽など、気障が服を着て歩いていると評されるほどのポーカーフェイスと言われるエリートネットバトラーが見せて良い態度ではない。
しかし、瑣末な変化に惑わされることなく、自身のオペレーターに過度の信頼を置いているナビは、いえ、と端的に応じた。
「俺は炎山さまの扱われる物に、間違いはないと考えています」
ゆえに、不信感があっての疑念から発したのではないと注釈する。
堅苦しい物言いしかしないのは、某国の軍事用ナビと酷似しているが、深い部分でつながりがあるからこその問いだった。
「…そうか…。俺を、信頼している…、か…」
幾分自嘲気味にそう呟くと、炎山はブルースに気づかれないよう、肩でそっと息を吐いた。
→試練2
-2006/05/28