朝食と言っても、そこに重きを置くことはない。
本来、頭脳を活性化させるためにより多くの咀嚼を行い、これからの活動に耐え得る充分な栄養素を摂取すべきだが、炎山の身体はそこまでタフにはできていなかった。
温野菜を中心とした食卓には、薄めのコーヒーと野菜のスープが並んでいる。そして傍らには、小さなロールパンが一個。
元々空腹で目が覚める性質ではないため、それほどの量は必要としなかった。見るからにたんぱく質が少ないため、卵料理くらいは一品付け加えたいところだが。
冷えた体を内側から温めながら、ようやく人並みの動作と思考能力が回復したらしい少年は、スープと一緒に出汁の役目も担った良質のベーコンを口へ運んだ。室内には、弦楽器をベースとした柔らかな音楽がかすかに流れている。
すでに炎山は普段着に着替え、屋内でも構わず、愛用のジャケットを羽織っている。
平常時の体温が、平均よりも低いことが原因だ。にもかかわらず、あまり重ね着をしないものだから、当人が健康に留意しているとは誰も考えないだろう。
食後にもう一杯、今度は濃いコーヒーを所望し、それを運んでくる赤い影を静かに見守った。
「ブルース、昨夜は…」
つと言葉を切り、炎山は目線をわずかに逸らした。
明らかな光の中で見るには、実体化したナビの姿には、つい数時間前の光景を思い出させるだけの現実感があったのだろう。
「炎山さまは、よくお休みになられていたようです」
音を立てずに、白地に同色の刺繍が施された分厚いデーブルクロスの上に、上品な陶器の器を置く。
それに、ああ、と応え、滅多に熟睡することのない自身を反省した。
浅い睡眠ばかりを覚えてしまったのは、時に深夜であっても急報が飛び込んでくるためだ。世界を股にかけた大企業であるからこそ、各地の情勢にいち早く対応を求められるのは致し方ない。尤も、就業者であるとはいえ、いまだ未成年である少年を好んで叩き起こそうとする輩は少ない。専ら、その手の急用を持ち込んでくるのは、たった一人の家族である実の父親なのだが。
しかし最近では、よほど重要な案件でない限り、取り次いだブルースが時間を遅らせて炎山に連絡があった旨を告げることが多かった。要点を整理し、必要な資料を添えた上で、起床後、夜半に伝えられた事項を確認する。だとすれば、頻繁でないとはいえ、昼も夜もないのはむしろブルースの側であったのかもしれない。
「おまえは、よく休んだのか…?」
はい、と片言の返事が返る。
たったそれだけの返答だが、真実であることは疑いようもなかった。
どういった処理が行われているのかはわからないが、ブルースには短時間で体力を平常値まで引き戻せる能力があるようだ。
実際、回復力は他の汎用ナビとは比較にならないくらい、優れている。元来、剣士型のナビには、それほど高い持久力は備わっていない。瞬時に複数の敵を仕留められる技量と力量を持っているためだが、同時に消耗する体力をごく少量であっても持続的に回復できれば、多勢を相手に戦闘が長引いたとしても何とか切り抜けられる。
確かに継続的なカスタマイズは炎山自身が行ってはいるが、その中でナビ自身が特質を伸ばせる部分では、予め組み込まれた進化の機能が働いているらしい。
得意とする剣の腕を磨くためには噛み合った双方の呼吸が不可欠だが、肉体の強化は彼ら自身の意向に依存しているようだ。
長年の付き合いであるにも関わらず、不思議なものだと思いながら、就寝する前に告げた言葉の意味を説明する。
「炎山さま」
遮るように名を呼ばれたが、構わず最後までを言い切った。
「…本当は、俺はあのチップを使うつもりだった」
祐一朗に製造してもらった回路を使って、行為をやめさせようとしたのだと。
けれど、結局それを果たせなかったのは、自分の心が途中で挫けたからだ。
あるいは、強制的に中断させようと思っていながら、本心ではそれを望んでいなかったため。
だからこそ、ブルースに行動を制された時、わずかな安堵があったのかもしれない。
「俺の方こそ、炎山さまに謝らなければならないことが」
真正面に立ち、じっと下方の青い双眸を注視する。
怒りを恐れているのではなく、ただ正直にすべてを吐露したいのだろう。
穏やかな光の中で見る相貌は、顔色が幾分優れないとはいえ、翳りと呼べるものは見当たらない。年齢以上に成熟した眼差しに怯むことなく、黒いグラスの持ち主は主に向かって声を放った。
自分は科学省から送られてきたチップがどのようなものかを知っていた、と告げる。
反射的に見開かれた目を見下ろし、自嘲のような、複雑な笑みがマスクから剥き出しになったナビの口端に宿る。
「炎山さまが、夕食を終えてすぐ、バスルームへ向かわれた時に…」
独断で調べたのだと告白した。
なぜそんなことをしたのかと、かすかな苛立ちがないわけではなかった。
無論、ブルースは命令を無視したわけではない。だが、あの時言った信頼という一言を裏切られたような気がしたからだ。
なのに、湧いてくるのは苦い感覚。消沈したような、そしてどこか晴れ晴れとしたような気分が、自然と少年の頬を歪ませた。
「……辛いと思い込んでいただけで、事実は違ったのかもしれない」
ふと漏らした事柄に、ブルースは無言でかぶりを振った。
「いえ。炎山さまの負担になることを見越した上で、中止を聞き入れなかった俺が未熟なのです」
溺れてしまっていたのだと非を認める。
「だとしても、あのままで俺が安眠できたと思うか…?」
上目遣いに、首をわずかに傾げて問う。
終点まで追いやらなければ、すべてを忘れ去ったかのように深い眠りを享受することは不可能だったろう。中途半端に熱された身体が手淫によって強引に際を得ようと、脳裏は別のことを望んでいたのかもしれない。
それは、とブルースは一瞬言い淀んだ。
「それは、断言しかねますが……」
「だろうな」
くすりと、炎山はそこでようやく目元を綻ばせた。
「俺を誰よりもよく知っているのは、お前の方だということだろう」
少なくとも、繋がっている間だけは、制御できないほど暴走している自身よりは、蹂躙している側の方が的確に真意を見抜けるのだろう。
単純なからくりを認めてしまえば、いっそ肝も据わるというものだ。
強欲なおのれを認めろ、か。
かといって、プライドの高い自身に卑下するような点を見つけたことに関する心境は複雑なものだ。
けれど、それも、ブルースが相手ならばと思わないこともない。
「とりあえず、あの…」
言いかけた名前を訂正するように、こん、と軽く咳払いをする。
「博士が作ってくれた制御チップは、返納しようと思う」
これから必要性が生まれようと、それはこんなものに頼らなくても二人で解決しなければならない問題だろうから。
「は………」
幾分、決まり悪げにブルースの声が下がった。
何かあるのかと質す前に、まだ告げていなかったことがあると付け加える。
「実は調査を行っている中で、そのチップに不審な点を見つけたのですが……」
炎山に悟られぬよう前以てチップを調査したのは、少年へ懐疑の念があったためではなく、祐一朗が試験をしていないと言っていたからだ。
日々インターネットを介してどこかから入り込んでくるような、強制的に機能を停止させる悪質なプログラムではないだろうとは思いつつも、PETに何らかの荷重を与えるものであれば、ブルースとしても容認するわけには行かないからだ。
無論、その思考の延長上に、無関係とは言い難いIPCや、炎山自身への影響を考慮したために他ならないが。
「…確かに、プログラムが発動している間は、完全にナビの欲求を遮断してしまえるのですが」
何の欲求かを明らかにすることなく、ブルースは続けた。
「使用した場合その後に、何というか、副作用が」
またしても嫌な予感が炎山の胸をよぎった。
恐らく、ブルースの言い方からしてあまり良くないものなのだろう。
むしろ、こちらの身に危険が及ぶ類いなのではないか。
でなければ、何でもきっぱりと言い切る相手が、不用意に語尾を濁したりはしないからだ。
「……ブルース」
「はい、炎山さま。」
ソーサーごと持ち上げようと思っていた器を、かたん、とテーブルの上へ置く。
わずかな高度から降ろされたそれは、ひとつの波紋を艶光りする表面へ浮かべただけだった。
「あの時、俺を止めてくれてありがとう………」
命令を無視して、ブルースが突っ走ってくれて助かった。
そんなことを、清清しい朝の晴れた日に思った。
「やっとわかりましたよ、博士……!!」
息を弾ませ、研究室に乗り込んできた青年に、その場にいた全員の視線が一斉に注がれた。
満面に喜色を刷いた若者は、昨夜降り続いた雨の如く、長い煩悶から解き放たれたかのように、さわやかな表情をしていた。
「何のことだい、名人?」
これから休憩に入ろうと考えていたのだろう。
机の上から立ち上がり、隣室にある自身のロッカーへ、愛する妻から手渡されたお手製の弁当を取りに向かおうとしていた祐一朗が声をかける。
「何のこと、ではありません、博士。あの、チップのことですよ!」
どのチップ。
まったく要領を得ず、うん?、と科学省でも五指に入る愛妻家は腕を組んで考えた。
相手の返答など端から期待していなかったのか、白衣の青年はぐっと握った拳を眼前へ突き出した。
今度こそ堂々と、おのが見解を発する。
「あのチップは、ネットバトルに於いて相手のチップの転送をワンテンポ遅らせる…」
一呼吸置くように、すうっと息を吸い込んだ。
「…つまり、敵のチップ転送に態とディレイを起こさせる、補助的な役割を持った画期的なチップなんですね……!!!!」
重ねて攻撃用のチップを使えば、確実にこちらの攻撃をヒットさせられるおまけが付いてくる。しかも、用途によっては防御用や時間稼ぎに利用できなくもない。
新しいチップがひとつ生まれる度に、新たなネットバトルの戦い方を期してしまうのは、根っからのネットバトラーたる証拠だろう。
自信満々に告げられた内容に、ようやく何を指しているのかを理解したらしい博士が、合点したように手を打った。
どうやら、自身の予想は当たっていたようだ。
夜を徹して考え抜いた末に、到達した回答。これだ、これ以外にない、と納得した答を得、感極まったあまり、青年はグラスの奥で人知れず涙を浮かべた。
しかし、あろうことか、その努力を無残に打ち砕くような台詞が前方から齎された。
「ああ、いや」
当人が苦労して謎のチップの性能を解読したなどとはさっぱり想像もしていないような、素っ頓狂な声。悪意がないからこそ、問答無用で皆の胸に突き刺さった。
「あれは、夜のアイテムなんじゃないのかなあ…?」
「……………………」
省内のミーティングで博士が不在だと告げられた炎山からチップを受け取った名人は、それとそれを使用したのかどうかもわからない少年自身を、無言のまま見比べ続けた。
-2006/06/03
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