永い眠り2
 実際、あれは夢でなければなんだったのだろう。
 見たこともない世界。触れたこともない空気。いや、質量自体、あの空間には存在しなかったのかもしれない。
 なのに紛れもない現実感として、そこに実在し、体感したこと。思い出すだけで羞恥に灼かれるような、屈従の日々。
 そして、予想通り、自身が行方を晦ましていたのは、たった三日だけだったという。
 そんなはずはない。あそこで責め続けられたのは、まさに永劫とも言える長い時間だった。あるいは、いつかどこかで正気に戻った瞬間脳裏を掠めた、時という概念のない世界なのではないかという疑問。
 サイバーワールドには、確かに秒を刻む数字がある。だがそれは人がデジタルの秒数を見るのと同じ、生身の人間だけが知覚する類いだった。
 彼らのように、二次元で生きている者にとっては、数字は数字でしかない。ゼロから九の値を回り続けているだけで、そこでいくら数値が蓄積されようと、膨大な量との認識は行われなかった。一点の時間軸で留められているような、流れという形を受け入れない場所。すでにそれは世界ではなく、彼らの定義だった。
 ここには時間というものが存在しないのだと訝るようになったのは、どんなに行為が繰り返され、加速し、蹂躙が何度この身に降りかかったとしても、一向に爪や髪が伸びる気配すらないこと。射精を強制させられ、受け入れさせられるだけで、その他の生理的な現象が起きないことを不審に感じた。
 内臓は、機能している。心臓の音も呼吸すら、リアルに感じられるのに、それは現実世界のものと微妙に異なっていた。
 あの男が言っていたように、ダークロイドの生地に引きずり込まれた時点で、肉体を作り変えられたのだと思うよりも先に、そのままの姿で彼らの世界の住人にさせられたのだと解釈した。
 ぞっとしないことだ。
 あんな、誰も手の届かない。人やナビですら探索することも見出すこともできないような深層部に、卑しむべき黒い者たちが息づいているのだ。そこが自分たち異能者の生まれ故郷だと男は言ったが、真実そうだとしたら一体何者が彼らを作り出したのだろう。
 想像は、飽くまで仮定の域を出ない。
 そして自らも、そこに答があるとは端から考えていない。
 専門分野外であることも事実なら、瑣末なことに囚われている時間もないからだ。

「ダークロイドの棲み処、か……」
 はい、と車椅子の上から、膝かけで下肢を覆ったまま、面会を願った側は頷いた。
「俄かには信じられないと思いますが、俺はそこでダークロイドとなったブルースと会っていました」
 失われたはずの、ナビの姿をした彼とも。
 リアルワールドでは何ヶ月も前の話ではないというのに、名を口にしただけで懐かしさを覚える心中に皮肉を感じながら、炎山は消息を絶っていた数日の出来事を簡単に説明した。
 稀代の天才科学者の遺志を継いだリーガルの罠によって、忌むべきダークチップを使い、ナビをダークロイド化したのは皆の記憶にも新しい。事の成り行きはともかく、自身が幼い頃からともに過ごしてきたブルースはもういない。その関係に見切りをつけたのはおのれ自身だという現実は、どんなに合理的な思考を駆使したとしても、到底納得できる代物ではなかった。
「罠と知りつつ付いて行くことを承諾するなんて、炎山君らしくない」
 胸中を思い遣るように、大人たちは言葉を選びながら複雑な表情で諭した。
「浅慮だったことは認めます。科学省にもネット警察にも、迷惑をかけました」
 周囲に相談もせず、独断でダークブルースの誘いに乗ったこと。
 相手のおとないを受けた時、その場で決断をしなければ再びチャンスは巡ってこないと思い込んだのは、浅はかだったと認める。
 けれど、ブルースを連れ帰るためにはどうしても、彼らの本拠地へ乗り込まねばならないと考えたのだ。
 会わなければ、ブルースに本当の姿を取り戻させることも、告げようと思ったことも伝えられなかったはずだ。
 だが結局、言いたいことは口にすることすらできなかった。後悔があるとすれば、ブルースを前にしながらむざむざと敗を喫したこと。ダークブルースの言うとおり、あの世界に囚われた自分は、ただの人間に堕ちていたのだ。
「パパも名人さんも、炎山を責めるのはやめてくれよ…」
 重苦しい雰囲気に堪りかね、同席していた熱斗が呻くようにそう告げた。
 自分だって、もしロックマンがダークロイドになったら、元に戻すためには周りを顧みることすら忘れたはずだ。
 親友を失くして、冷静でいられる方がどうかしている、と。
 それがどんなに無謀な選択であったとしても、短慮に走ることは純粋である証拠だ。信頼している者を奪われたり失ったりすれば、取り戻そうと必死になるのは当然のこと。
 熱斗君、と気遣うような小さな音声が、ポケットに収納されたPETから響く。
「うん、その通りだ」
 開いた両膝に大きく身を乗り出すようにして両手をかけ、深々と名人は頷いた。
 深い愛着のあるナビを持つ人間として、少年の思いを肯定する。
「自分のナビを心配するのは、オペレーターとして当然。炎山君は、間違っていない」
 過度の消耗は見られるものの、生命の危険に晒されることなく五体満足で戻って来てくれたのだから、本人が反省している以上尚も責める必要はない。むしろ、早く充分な休息を取って、また活躍をしてもらわねば、と白い歯を見せる。
 それでなくとも、ネビュラは日々、世界の各所で暗躍しているのだから。実質、今彼らと戦えるのは少年一人だが、仲間がいることは何よりも心強いからだ。
 同意見だと主張するように、ソファの隣に腰掛けていた祐一朗も口元を緩めた。
「何よりも、炎山君の安全が第一だからね」
 その目元は微笑していたが、どこかに痛むような気配がある。
 ふと目線を白い頭の少年からずらし、名人、と横に座る白衣の青年を呼んだ。
「先日開発を始めた例のチップについて、僕の代わりに熱斗に説明をしてくれないか?」
 一瞬、何のことかと呼ばれた側は目を見張った。しかしすぐに合点したように、わかりました、と深く首肯した。
「何、何?例のチップって」
 兄と呼ぶには歳が離れ過ぎている若者に促され、立席した熱斗は残して行く友人を気にしつつも、巧い具合に興味を引き出すような話しぶりに誘われるように、青年の後をついて行った。
 それが博士の配慮であることに感謝し、炎山はドアが閉じられると同時に、相手に対して軽く会釈をした。
 律儀な態度を窘めるように薄く微笑したが、祐一朗はすぐに神妙な顔つきになった。
「炎山君、君は…」
 眉根を寄せ、痛ましげに目を細める。
「ブルースに……」
 暴行されたんだね?
 潜められた確信は、受け入れた者に明らかな現実を突きつけた。
 違います、と否定する声は、発する前に、なぜか喉奥で途切れた。
 言われた内容を容認するように、炎山は浅く顎を引いた。そうすることしかできなかったからだ。
 同じ年頃の子どもを持つ親だからだろうか。世間離れをした人物と思われがちだが、光祐一朗という男は妙に敏い部分がある。普段は歳相応の落ち着きと少年のような好奇心に満ち溢れているが、他者の内心を推し量るような思慮深い側面を持っていた。
 だが祐一朗はこれを陵辱だと評したが、自分はそうではないと思っていた。
「俺は、これで良かったと思っています」
 ブルースに復讐をされても、当たり前のことをされただけなのだと弁護する。
 今まで信頼していた者に許可すら得ずに使用した、ナビの理性と肉体を狂わせるチップ。たった一つの、しかし決定的なプログラムを転送することを選んだのは、彼を守るオペレーターである自分自身だ。
 死に至るほどの劇物を投与したも同然の人間を憎み、身体ごと心まで蹂躙したとしても、その権利は充分過ぎるほどにあるだろう。
 聞くなり、祐一朗は首を横に振った。
「それは、違う」
 違うんだ、と繰り返す。
 優しく丁寧な口調へと変えながら、厳しく息子と同年代の子に説いた。
「炎山君、君は子どもだ」
 子どもが暴力を受けて、それを受け入れなければいけない義務はない。
 そこにどんな理由があったとしても、合意でも。否、合意と勘違いをしていても。身勝手な行為を、君たちが受け入れる必要はない。
 そんな真似はしなくて良いのだと、強い語調で言い切った。
 そこにあるのは守るべき子を持つ父親の姿であり、社会に於いて、弱者である子どもたちを慈しみ、支えようとする大人たちが断固として崩してはならない姿勢だった。
 小さな彼らが、彼らよりも優位の立場にある者に尊厳を傷つけられて、それを贖罪と理解する責務はない。誰もそれを強要してはならないし、自らを責めることも行ってはならないのだと。
 もし自分を責めて、理不尽な行為を正当化しようと試みるなら、必ず将来に大きな影を落とすことになる。
 真剣な眼差しは、彼の言うことが間違いではない事実を示していた。
 真実味のある説明に、少しだけ身体を包んでいた重責から解き放たれたような気がした。
 仮にこの場に実父である秀石がいたとしたら、間違いなくこう言うだろう。
『馬鹿げている』
 確かに、ブルースに引け目を感じている今の自分は道化なのだろう。
 以前ならば歯牙にもかけなかった、弱者の言い分。こうして、愚にも付かない心境を抱え、感傷的な思いに打ちひしがれる日が来ようとは夢にも思わなかった。
 ブルースを取り戻すには、悔恨や負い目を感じているばかりでは駄目なのだ。それを更に越える、強い意志が不可欠なのだと理解する。
 絶対的な強さが自分たちを結びつける絆であるとしたら、再び引き付けあうのも同じ強さなのだろう。

「…ありがとうございます、博士」
 そこでようやく、頑なだった白い頬に、本来の笑みが戻った気がした。


-2006/09/07
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