「そうか。感謝状か…」
そうそう、時にはナビを労ってやろうっていう、オペレーター心っていうの?
そういう優しさを持ってやるのが、俺たちの使命っていうか。
何にでも心を付ければ良いというものじゃない、と口中で密かに言い返しながら、突然の通信を受けた側は冷たい目線を画面の中の日焼けした少年に向けた。
「そんなことなら、いつもしている」
ご苦労、と声をかけたり、人間の秘書に対する有難うという社交辞令のようなものではない、ブルースの身を自分なりに案じるような言葉なら幾度も口にしている。故意ではないが、不自然ではないよう心掛けているのは、身近にあることが日常的な関係であるからこそ、挨拶のような簡単なコミュニケーションだと心得ているからだ。
「…仕事ばっかしてたら、身体壊すぞ」
学問を疎かにしているわけではないが、楽しいはずの学校生活を投げ打っているライバルが歳相応に振舞えるよう、態々貴重な情報を教えてやっているのに、と口を尖らせる。
そのことに関しては熱斗の言うように、自分はどうやら一部の人種にはあまり好ましくない人間として映るようだ。要領良く振舞おうと心掛けてはいるものの、若輩のくせにそこが鼻につくのだと難癖をつけられることがある。
社長である父同様、そんな輩は放っておけば良いとは思うものの、好んで敵を作る必要はない。
余計なお世話なのだが、ここは友人の気持ちくらい素直に受け取ってやるべきなのだろう。
「……わかった。参考までに、覚えておく」
滅多に首を縦に振らない相手が渋々承諾する様子を確かめると、にっかと笑い、熱斗は自身のナビが戻ってきたことを確認すると呆気なくじゃあなと回線を切った。
「……何なんだ……」
わけもなく憮然とし、大げさに炎山は嘆息を吐いた。
急な来訪者と入れ替わるように、PETの小さな液晶画面に赤い姿が映し出される。
「ただ今帰りました、炎山さま。」
おかえり、と片言で受け止める。
先ほどと変わらず、顔は手元の書類に向かっているが、決して御座なりな態度ではない。
IPCの業務で忙殺されるブルースにも、短時間とはいえ、定期的に自由な時間を与えるよう、気を配っている。
よく遊ばせてあげましょう、とは、まるで子どもに対する教育方針のようだが、オペレーターとして彼らの意思を尊重することも世間一般では当たり前の認識だった。
データの産物であるネットナビとて、人よりも多少軽度とはいえストレスというものがある。単調な作業に延々従事させられれば、ある程度の能率を維持し続けるが、バグと思しき小さな穴が彼らの内部に稀に生じることがあった。所謂心的病患のようなものだが、発展すれば消滅や暴走という事態にもつながりかねない。
人の人格を模すということは、それだけより人間に近い機能や感性を持つということだ。鉛の塊の機械とて、長時間の稼動は金属の寿命を早めてしまうように、適度の休息は無機質の世界に於いても重要なのだ。
「何か、手伝えることはございませんか」
主がまだ仕事に専念しているのに、茫然と見守るだけでは無能と同意。
少年に仕える者として平凡な提案をしただけだが、いや、と白髪の影は短く答を発した。
では、次の命令が下されるのを静かに待つしかない。じっと待つことは自身には特段の負担ではないし、立てかけてあるPETの画面からも、机上で処理を行う炎山の姿を確認できるのだから、問題はない。
では、用があったら呼んでください、と断り、スクリーンから退出しようとしたところで、不意に名を呼ばれた。
「おまえには、希望はあるのか?」
突拍子もない質問に、思わずブルースは眉を潜めた。
視線を極力合わせないよう、仕事用のデスクの端にあるPETから顔を逸らし、炎山は居心地が悪そうに口篭る。
「要するに、だ。俺に、してもらいたいこととか…」
あるのか?、と、再度畳み掛けられる。
先刻、入れ違うようにして出て行った光熱斗との会話の続きなのだろうか。傍聴していたわけではないが、自身がロックマンたちと話していたことと似通った内容だったのかもしれない。
ナビに対する、日ごろの感謝を形に。
凡そ炎山らしくない気遣いだが、その心はやはり歓迎できないわけではない。
あるはずのない感情というプログラムが、ナビである以上、完全にゼロではないという証拠のようなものだろうか。
「炎山さまにしていただきたいことというか、お許しいただきたいことなら」
あります。
語尾までを明確に発音し、ブルースはじっと炎山を見つめた。
一瞬、少年は閉口したようだ。
これだとまるで、望みを告白するのではなく、譲歩を要求していることになるからだ。
それでも良いと納得したのか、更に先を質す声に促され、ブルースは思いのすべてを言い切った。
「回数を、三回に増やしていただきたいのです」
自身でも、大きく出たと思う。
しかし今のようなチャンスがなければ、こちらの欲求を伝えることは永久にないだろう。炎山に検討してもらう好機は、今を置いて他にはないと踏んでの賭けだった。
「キスのことか…?」
反射的に返った返答に、今度はブルースが沈黙した。
発想自体はまあ、それに準じるものであるかもしれない。
だが接吻の一つや二つ、一度始めたら、三回で済んだ験しはない。深く浅く、何度も角度を変えて味わうのなら、回数の増減を念頭に置く必要などないからだ。
言ってから気づいたのか、軽く咳払いをして、炎山は固まった空気を解そうと試みた。
そして幸いなことに、回転の速い頭脳は正しい答に行き着いたようだ。
「……夜の話か…?」
別段、夜半に限ったわけではない。
起床手段と称して、血圧の値が極度に低い炎山を、活動できるだけの正常値に戻す処置として早朝から戯れることは珍しくない。身体を交わすことに、もはやタブーは存在しないと言っても過言ではなかった。
あるとすれば、炎山の体力が自分の比ではないくらい少なかったので、多くて二度。無理に頼み込んで三回が限度だった。しかしそれも、大盤振る舞いでなければ叶わない、まさにブルースにとっては夢の実現にも等しい行為である。
それを、最高値に引き上げろとは。
不可能。
少年の脳裏を、冷たい現実が横切った。
経験者でなければ、セックスの一回や二回、増えたところで大した違いはないだろうと予測しそうなものだが、実際問題それを身に受けている側にとっては冗談でも発言してほしくない事柄だ。
人形のように抱かれているだけならばともかく、両者とも感極まっていれば、行為の密度は極端に上がる。全力疾走を何時間も続けるようなそれを、更に回数を増やせと請われれば、緩慢な動作で首を横に振るのが常道だろう。
「………………」
期待か不安かはわからないが、突き刺さるような赤いPETからの視線が痛い。
本当に刺さっているわけではないのだから、痛いと思うのは錯覚だと理解しているものの、要求を述べるよう催促したのはこちらだ。
無理だと即座に却下することは、人としての人望も疑われかねない。
この場合、前向きに検討してみます、と逃げ口上を言うべきなのか、それとも理屈を並べ立てて丁重に断るか。
二者択一は、完璧に最初から不毛なものだった。
「…………………週末の、一日だけなら………」
可能かもしれない、という言葉の語尾を、ブルースの音声が拾う。
「二日、では」
この食いつき様は、一体誰に似たのだろう。
手に持った書類の間から、恨めしげに赤い影を凝視し、炎山はわずかにこうべを垂れた。
→きみに、おくる3
-2006/09/09