きみに、おくる3
 先ほどからちかちかと、磁器のように白い肌が青や紫の電光に照らされている。
 最小限の照明の下、ディスプレイに映し出される景色が切り替わる都度、それを見守る側の顔色を多様に染め変えた。
 炎山が眺めているのは、夜の教育番組だ。
 日中であれば、低年齢層や学生らに向けた教育学習などのプログラムが組まれているが、すでに画面は年配者向けの番組へ移行している。放送局の番組表を予め検索していたブルースにとって、この後は旬の食材を使った料理兼健康番組へ移り変わることは明白だった。
 少年には凡そ似つかわしくない、癌の予防などという言葉が、机に備え付けられた小さな液晶画面に映る人間の口から何度も飛び出している。
 炎山にとって興味の薄そうな、むしろ無関係とも言える事柄を、まさか真剣に視聴しているわけではないだろう。見るからに、机上の映像端末を注視しているようには見えない。
 仕事中のように、研ぎ澄まされた神経をそこへ注いでいるのではなく、流れてくる光や音声を眺めているだけに過ぎないのだろう。実際、脳内にそれらが五感から取り入れた情報として伝達されているかは怪しい。
 そろそろ、お休みになられては如何ですか。
 普段であれば、たった一言。就寝のタイミングを促すだけで済むはずなのだが、ブルースは黙ったまま少年の動向を注視していた。
 端整だと表される炎山の表情は、滅多に崩れることがない。ポーカーフェイスを気取っているのは本人とて自覚のあることだが、近寄り難いと思わせることは、即ち少年自身を守っていることに他ならなかった。
 根が柔和でか細いからこそ、過度に鎧うようになってしまったのは、勿論炎山が強く在らねばならないという意思の上で行動しているからだ。他と一線を画すことは、馴れ合いなどという中途半端な感情に惑わされないことが重要だと主張しているに等しい。
 元来、情を持たず、心情を司るプログラムが組み込まれていない自身にとって、人間が行う精神的自己防衛について正しく理解することは不可能だ。だが、オペレーターである炎山を見ているだけでも、現実世界で雑多な因果に囲まれる生活はナビの在り方ほど容易いものではないようだ。
 自らの歩むべき道を誰かに指図されたり、引かれたレールの上を歩くわけではない人間たちにとって、自助努力で未来を切り開いて行くことは並々ならぬエネルギーを必要とするものなのだろう。目的が定まっていてさえ、右往左往し、そこへ近づくために遠回りすることも珍しくない。
 常におのれを磨き続けている炎山でさえ、その無駄とも思われる逡巡の時間を持て余すことがある。

「炎山さま。」
 見つめているだけでは物足りないと思ったのか。知らぬ間に、相手の名を呼んでいた。
 明日が休日である以上、いつものように定時の就寝を催促するつもりはなかったのだが、他人が映る画面に独占されたような炎山の意識をこちらに向けたいという自我が働いたのかもしれない。
「………」
 はっと我に返ったように、一二度瞬きし、デスクの横脇へ放置していた赤いPETを凝視する。
 紺青の眸は昼間と変わらず些かも遜色がないが、今一つはっきりとした意思がそこにはないように思えた。
 呆けたように、何時だ、と尋ねる。
「21時45分です」
 簡素な夕食を摂り終えてから、普段着のまま会社の副社長室に留まっていたのだ。
 帰宅するつもりならば早々に車の手配をしなければならないし、ここへ泊まり、明日自宅へ帰るつもりであれば、私室である隣室へ移動してしまえば良い。
 寛げる状態になってから、自由な余暇を楽しめば良いものを、執務を終えているにもかかわらず、長い間放心状態だったのだ。
 原因は、何となく察しがついている。
 正確には、九十九パーセントの確率で昼間の件が原因だろうと解釈している。
 家へ帰りたくないと考えたのも、二人きりで過ごさねばならない状況を警戒しているからだ。
 そんなに、嫌なのだろうか。
 自身と過ごすことが?
 誰にも邪魔されず、二人だけの時間を共有することが。
 真実が明らかになるにつれ、本来行動を制限することのない心という回路に若干の翳りを与える。
「もう、そんな時間か」
 ふと、小さな空気が炎山の鼻腔から放たれた。
 心的肉体的疲弊による長息ではなく、思考を転換するために一息ついただけなのだろう。ただ単に事実を認識したために興った所作なのか、それともこの場をどう取り繕うかを思案しての動作であったのかどうかは定かではない。
 逸らしていた視線を戻し、炎山はやがて寝るか、と呟いた。
「今夜は社でお休みになられるのですか」
 ああ、と肯定が返る。
「今から車を飛ばすより、その方が俺も楽だからな」
 実際、家へ帰って済まさねばならない用事があるわけでもない。待っている家族がいるわけでもない。
 どこで休んだとしても、急な呼び出しがあればそこへ出向かねばならないのであれば、安心して休める場所を特定する必要はなかった。
「バスルームの準備はすでに整えてあります。ゆっくりとお寛ぎください」
 水温の調節も入浴に適した室温も完璧に調整されている旨を告げる。
 普段と変わらない対応であるにもかかわらず、少年はそれがどこか早口であることに違和感を覚えたようだ。
 目的の部屋へ向かおうとして、思い出したようにPETを拾い上げる。
 すとん、と、胸から下の位置へ、赤い端末が炎山の手の動きに合わせて移動した。
「…何を、怒っているんだ」
「………………」
 突拍子もない問いかけに、画面の中の影が一瞬言葉に詰まった。
 しかし間を置かず、声を発する。答の選択肢は、最もその場に適したものが選ばれるよう最初から定められているからだ。
「俺は普段と変わりありません。シャワーをお浴びにならないのですか」
 それを聞いて、今度は炎山が閉口した。
 白んだように一度眼を見開き、そして緩慢な動きで瞼を下ろした。
「質問に答えろ。何を、怒っている…?」
 はっきりと命令だと言われれば、もはや避けることはできない。
 ならばと、ブルースは本心を明かすことを決意した。
「ご不快なのは、炎山さまでは」
 俺が?、と更に驚いた様子を見せる。
 指摘を受けた側は細い眉を持ち上げ、口を噤んだまま相手を見下ろした。
「昼間の提案が」
 言ってから、思考回路の隅で舌打ちするような感覚を覚える。けれど、途中で発言を覆すことの方がナビとしては致命的だった。
「…炎山さまの本意に、副わなかったのではないかと」
 大方返答の中身が予想できていたのか、そうか、とだけ応答が返った。
 不興を感じているのではなく、単純に納得しただけなのだろう。暖簾を腕で押したような手応えのなさは、まるで目覚めた当初の覚束なさに近い。先ほどまで意識が遠のいていたのは、紛れもない真実なのだろう。
 その上で、少年はナビに言い聞かせた。
「別に、怒っていたわけじゃない」
 易々と懸念していたことを否定され、焦りを感じていたブルースの胸中は瞬く間に真っ白になった。
 ではなぜあんなに無防備で、魂が抜けきったような状態を晒していたのか。
 一度混濁すると、炎山のことに限ってはどうやら正規の判断が下せなくなってしまうらしい。
 客観的に自身の内部構造を把握しながら、ブルースは険しくなった眉間のまま相手を凝視した。その眼前へ再度、上から命じるような強い語調が降った。
「ここから出てきて、どこでも良いから俺に触れ」
 有無を言わせぬ要求に、抵抗することほど無意味なものはない。
 日常的に炎山と触れ合う以外に実体化を迫られる必要性は少ないが、こうして強制的に外へ出てくるよう命じられたのは初めてだ。
 どこでも良いから、と言われて、悩まずに済ませられるルートを提示してくれるものは何もない。
 人間にとってはごく自然な、自発的に興るものを意味しているのだろうが、機械にとってそれは難問にも近かった。辛うじて、腕を軽く持ち上げた高さにある炎山の白い髪が黒い指に当たった。
「ブルース」
 記号と同じ、自身を示すだけのキーワードが、眼下の唇の持ち主から発せられるだけで充足という奇異な感情に埋め尽くされる。
 占有されることが極当然で、自身が占めることのない有機の生命体。だからこそ、独占してしまいたいと願う願望が生じてしまうのだろうか。
 確かに、とおのれにとって唯一無二の存在は口を開いた。
「今日という現実から目を逸らしていたことは認める」
 例え数時間であっても、他に意識を飛ばして差し迫る事態から遠ざかりたいと願っていたのは間違いではないと放言した。
 思った通りかと落胆する前に、炎山に触れていない方の手を掴まれた。
 甲に刻まれた白と黒のフレームを包み込むように、一回り以上小さな掌が触れる。温かさを感じるが、それはいつもより冷えていないというだけで、本当は冷たい指だったのかもしれない。
「ただ、それは、おまえに……」
 口篭り、少年はわずかに睫毛を伏せた。
 黒い縁取りが鮮明である双眸は常に表情に乏しいが、こうした密やかな時だけは、内面を表すアンテナになり得る。
 つと唇を噛み、やっとのことで声音が搾り出された。
「…欲しがられているようで」
 わかるだろう?、と言いたげに、かすかに眼が細められ、やがて静かに苦笑した。
 恥ずかしかったのだと物言わず告げられ、人工知能がどこか深い部分で小刻みな震えを知覚する。
 肉欲にせよ、愛着にせよ。あるはずのない情操の深部に辿り着くのは、柔らかい笑みとその本質だけだ。
 いつしか触れるだけだった白毛に指先が絡まり、掬い上げるようにして色を増した頬へ軌跡を描いた。
 今日に限ったことではない。ただともに過ごすことを、長い間その内側に居場所を得ていたいと望むのも。
「……俺はいつでも、炎山さまを」
 恐らく、違う生命、異なる時間を得たとしても、求める事実に相違はないと告白する。

 特別な謝辞など、本来は必要ではない。
 なぜなら、いつでもそれは与えられているからだ。
 注がれる思慕に色はなくとも、見えない流れ、絶えない吐息のような密かな思いは、いつでも炎山から与えられている。


-2006/11/13  →Blu*En12T_ことば
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