「いらっしゃい、ほのおさん」
満面の、というには慎ましやかな笑顔が、透き通るような紺青の視界に広がる。
長身のナビの挨拶を正面から受けて、もう、と少女は小さな唇を尖らせた。
「さん、はいらないったら」
はい、そうですね、としながらも、上空の顔は笑みを絶やさぬままだ。
どこかで昔聞いたようなやり取りを横目に見ながら、ブルースはこの二体の醸し出す雰囲気というものが嫌いではなかった。
無論自分などより、ほのおの扱いに長けている連中は五万といる。親友のロックマンやその恋人のロールなど。とにかく彼女の交友関係は幅広い。子どものナビというだけで周りが珍しがっているのは明白だが、人見知りをしないのが彼女の長所でもあるようだ。
一体、誰に似たのか。
炎山でなくとも、そう実感するだろう。
「今日は私がお相手します。一緒に、一人前のナビになるためのお勉強をしましょう」
ちゃんと主人のやいと様から許可を頂いていますから、と付け加える。
一日よろしくお願いします、と紳士的な物腰で少女に対して軽く会釈をすると、付き添いでここへ現れたもう一体のナビに視線を傾けた。
「ブルースは、炎山様のところへ戻るのですか?」
グライドと呼ばれたナビは、少女を抱き上げながら、立ち尽くしたまま無言でいるこちらを気遣ってくれたようだ。
「いや。炎山様からは、暇を頂いている」
ほのおをよろしく頼むと用件だけを告げると、早々にきびすを返した。
制約は受けていないとの端的な返答を補うように、胸に抱え上げられた少女が赤いナビの言葉を補足する。
「炎山さまは、やいとさまと会うから忙しいんだって」
だから、ブルースはすることがないのだと明かす。
無邪気な物言いからすべてを察したように、ああ、とグライドは再び明るい茶色の目を細めた。
「だから私も、こうして外に出されたわけですね?」
端から事情など承知していただろうに、嫌味ではない柔らかな口調で幼い少女の説明に合点を示す。
グライドは、昔から世話を任されたガブゴン社令嬢の立場を何よりも優先してきたネットナビだ。従順で物分りがよく、行き届いた配慮は、他の連中よりも抜きん出ている。深い見識から、主の短絡的な行動を諫めはすれど、強引に押し切った験しは一度としてない。
それらは皆、相手を心の底で信頼している証拠だが、そういうところが弱いナビだと軽んじられる原因でもある。
戦いでは取り立てて目立つ存在ではないが、それよりも優先されているのは、プログラム全体の安定性だろう。動作にむらがなく、常に一定の成果を保っていられる。分析力もあり、そういう意味で言えば後衛のタイプだった。そのことを誰よりも理解しているのは、彼のオペレーター自身であることは間違いないだろう。
自分やロックマンとは違った絆を、確実に彼らも保有している。傍目にはまったく対等とは言い難いが、そう言い切れるだけの付き合いの深さはあるようだ。
尤も、これは飽くまで憶測であり、元より他人に興味のない自分には用のない代物である。
「そういえば昨夜は遅くまで、ご自分の髪を一生懸命に梳いておられましたから」
仕事や社交界の付き合いで滅多に顔を見せ合うことができないから、それはもう念入りにお洒落をしていたと微笑う。
当日の朝でよろしいでしょうといくら嗜めても、念には念を入れるのだと言い返されたらしい。
向こうの剣幕に押されて、すごすご見逃してしまうような無駄な努力をしたのだろうが、当時の様子を語る姿には些かの疲労感も暗さもない。
主人を含めたあの二人の幸せが末永く続くことを一番願ってやまないのは、恐らくこのグライドというナビなのだろうとブルースは思った。
「どうして、炎山さまに会うために髪の毛を解かさなくちゃいけないの?」
一日講師をしてくれたグライドと別れ、自分たちのPETに戻るまでの道のり、ほのおは不思議そうに面を傾げた。
インターネットシティにあるスポーツジムで軽く汗を流した後、迎えに来たブルースは、さあな、とにべもなく返しながら、一般的な解釈を口にした。
「自分をより良く見せるためには、細部にまで気を遣うものなのだろう」
それが相手を喜ばせると知っているのが、女というものだと。
だが、それを話したところで、ほのおが我が身と置き換えて納得することは至難の業だろう。
実際、自分たちには人間ほど明らかな性の区別はない。
埃と認識される細かなバグを拾ってしまわないよう、身奇麗にする程度の知識はあっても、外見に拘るという自覚は乏しい。カスタマイズした人間が気分転換にとデザインチップを転送することはあっても、望んであれを寄越せだの、これを着せろなどと命令できる立場にはないからだ。尤も、それは基本的な価値観ではあったが、ネットナビは人形とは違うというのが、ブルース自身の見解だった。
ふうん、と応えながら、そういえば、と少女は切り出した。
「炎山さまは、やいとさまの髪に触ることが多いって、グライドが言ってたよ」
だから、大事にしているのかな?、と自分自身に問うような呟きを漏らす。
「………………」
一瞬、どう受け答えをするべきなのかの判別ができず、ブルースはかすかに黒いグラスの下で眉をひそめた。
「ロールちゃんが言っていたけど、人間は好きな人の髪を触るものなんだって」
その言葉の前後にもっと説明があったとは思うのだが、ほのおが口にできたのはその中心となった話題だけだった。
確か、ロックマンはそうだとか、彼のオペレーターの熱斗がそうであるとか言っていたように思うと。
だから、と当たり前のような声音で問いが返った。
殆ど、何の脈絡もなく。
「炎山さまは、ブルースの髪に触ったりするの?」
「………………………………………………………………………」
沈黙は、自身が意図したよりも二三分ほど長かったようだ。
「……それは、ない。」
辛うじて発した声は、おのれでも是非が下せないほど感情が欠落している。
なんで?、と驚いたように、ほのおが頭部の側面から覗き込んでくる。
IPCのセキュリティを通過する直前まで、肩に抱き上げられて運ばれるのは互いの間では暗黙の了解となっていた。
手を繋いで歩くと一度駄々をこねて、俺とおまえでは手が届かないだろうと当然のことをブルースに指摘されてから、その位置で落ち着くようになった。大人しく運ばれるだけでは物足りないと思うのは、子どもとしてはごく自然な意見ではあったのだが。
だがブルースにとって、それは何故と聞かれる筋合いのない問題だった。
大体、髪に触れるのは、相手が女であった場合に於いてのみだ。
少なくとも、多くの情報が往き来する現実世界にこの少女よりも長く接してきた自分にとって、その手の手法は男が好きな女に対して行う所作であって、男が男に対して行うものではないと理解していた。
百歩譲って親愛の情を表す手段だと解釈しても、炎山は自分には同性に近い感覚を持っているはずだ。
というかそれ以前に、炎山が自分の髪に触ること自体、想像ができない。
否。想像したくない。
況や、そんな炎山は知らなくて良い。
旧姓綾小路やいとだけが知っていれば良いことであって、こちらにはまったく無関係な事柄だと言えた。
それを滔滔と説いて聞かせるには、ブルースの表現力に乏しい話術では到底無理だということは、火を見るよりも明らかで。
それよりも、何を子どもに吹聴しているんだ、あのナビは。
性格的に、恐らく不一致というわけではないのだろうが、はっきりものを言ってくるピンク色のナビを思い浮かべ、ブルースは徐に険しい目を向けたくなった。
答を聞き、う〜ん、と耳元でほのおが唸る。
困ってしまったように、人間で言うべきところの眉のある場所を顰め、唇を軽く突き出す。
言葉にしようと口を開き、慌てて小さな手でそれを塞ぐ。何度か同じことを繰り返しているうちに決心が付いたのだろう。思い切って、高い声を上げた。
「もしかして、炎山さまはブルースのことが嫌いなの…?」
更に重い沈黙が、ブルースの肩から上を覆った。
→触れる2
-2005/11/12