触れる2
「お帰りなさいませ、炎山さま。」
 セキュリティコードを解読し、室内のロックが主を認めて解除されるよりも先に出迎える。
 今夜は都内のホテルに宿泊するはずだったのだが、急遽帰宅するとの連絡を受けたのは数十分ほど前だ。
 正装の上に黒に近い紺色のコートを羽織り、羽毛のような髪に丸い水滴を留めたまま、炎山はああ、とだけ応えた。
 予定通り二人で夕食を楽しむことができたのだが、それが済んですぐに、やいとの実父から急な呼び出しがあったのだそうだ。
 彼女の父親の会社に関わる重要な客が来ることになったので、それを持て成すよう命じられ、嫌だ嫌だと散々喚き散らした後、泣く泣く炎山と別れたらしい。無論、やいとが渋々実家に戻ったのは、炎山の助言があったからに他ならないが、半泣き状態であったのは聞くまでもないだろう。
 本当に楽しみにしていたようですよ、と惜しみない笑顔で自分たちに告げたグライドにとっては、神経が磨り減るくらい損な役回りだったろう。主人に父親の伝言を告げた時の、おどおどとした様子が目に浮かぶようだった。
「それは、気の毒でした」
 人間もナビも、踏んだり蹴ったりだったろうと推測する。
「まあ、あいつもよくわかっているはずさ…」
 そういう宿業の家に生まれ付いてしまったのだから、今更自身の境遇を呪ったところでそこから逃げられるわけではない。
 むしろ、この歳になるまで放任されていたのだから、今までが幸運だったと言うべきだろう。
 ある程度仕事ができるようになった途端に、IPCの副社長に任じられた炎山と比べれば、ガブゴン社社長の一人娘として不自由のない暮らしを楽しんできたはずだ。今では伊集院夫人も兼ねているが、炎山の忙しさとは比較にならないのは言うまでもなかった。
 夕刻になって雨が降り出したにも関わらず、少し外を歩いてきたのだろう。濡れている様子から身体を冷やしたのではないかと気遣い、着替えを促す。元々堅苦しい佇まいが不得手である炎山は、快く承諾した。
「ほのおはどうした…?」
 いつもならブルースのPETから出て懐いてくるはずの小さな姿がないことを気に留める。
「勉強に疲れたようで、すでに就寝しています」
 グライドが行った講義が、よほど充実した内容だったのだろう。
 炎山が帰ってくる寸前まで起きていると豪語していたが、体力が続かず敢え無く撃沈してしまったようだ。
 そうか、と言葉を受け、彼女の顔が見たいなと炎山は呟いた。
 違和感もなく、言われた通り空中から圧縮されたほのおのデータを取り出す。
 自身のPETに格納されているため、余計な手順は省略できる。いずれは一人前のナビとして本人用のPETに移されるのだが、性能や教育がまだ不充分であるために、ブルースと同居せざるを得ないのが現状だった。なぜなら、回線を遮断してもそこへ入り込んでくるウィルスの脅威に晒されないよう、庇護しなければならないからだ。
 ほのおがそれらの対処や防御が行えるようになって初めて個別のPETを与えられるようになるのだが、今は毎日の積み重ねが必要である以上、親権を持つブルースが彼女の身を保護している。ブルースにとっては居候も同然なのだが、頻繁に炎山が彼女の様子を尋ねるので、邪魔な存在と言うほどではない。
 最近は色々な知識を付け、真っ当な会話が成立するようになってきた。当初は言葉が通じず、用事を伝えることすら満足にできなかったが、ほのおの中で用語を記録しておく回路がようやく人並みに発達したのだろう。それ以外でもまだまだ覚えることは沢山あるが、日々の努力は間違いなく実を結んでいるようだった。
「よく、眠っているな」
 少女の寝顔を見て、炎山はそう感想を漏らした。
 微笑んでいるように見えて、それは口元だけの相違だった。
 どこか物憂げであるのは、一緒に過ごすはずだったやいとの不在が原因だろう。
 表面上はどうあれ、炎山とて心はある。相手ほどあからさまに楽しみにしていたようには見えなかったが、一ヶ月振りの逢瀬であれば長居したいのが人情というものだ。
 一応恋愛結婚と言えるはずの経過を経ただけはあるので、心が通じ合っていないわけはない。しかしそれも、棚ぼたですね、と大喜びしたグライドの一件があるだけに、単なる気まぐれだと思えなくもない。
 前触れなく突然本社へ乗り込んできた綾小路やいとに結婚しなさいよ、と勢いで迫られ、良いだろう、と即座に要求を呑んだのは炎山だ。
 その次の日に、伊集院財閥の総力を結集したような豪勢な挙式を執り行ったのだから、用意周到というか、プロポーズを受けた炎山の方が潔し過ぎて、お祝いに駆けつけた皆を唖然とさせたのはまだ記憶に新しい。
 それから一年が経っているが、相変わらず付き合いだした恋人同士のように初々しいというか、喧嘩も多い昔ながらの関係を続けている。こりゃ、気まぐれなんかじゃ全然ないわ、という周囲の感想も頷けるというものだ。
 そして、彼女はもうじき会社の跡取りを生む予定でいるのだから、IPC及び伊集院家は後々まで安泰と言えるだろう。
 ふと、そんな顔を見せていた炎山が目線を傾けた。
 ほのおを見つめる様を横から眺めていただけなのだが、こちらのわずかなデータの乱れを察しでもしたのだろうか。何かあったのか、と問うてくる。
 態度は平素と変わらないが、真意を質すような強さがある。指摘を簡単に受け流せるほど、自分はそれに熟達しているとは言えなかった。
「…大したことでは、ないのですが」
 そういった物言いが単なる体裁であることを見抜いている炎山は、銀髪を靡かせた長身の正面に立つと、やんわりとした口調で話せ、とだけ命じた。
 こうなっては、正直に話さないわけには行かないだろう。
 昼間あった出来事を掻い摘み、ほのおが言ったなぜ自分には触れないかという問いを伝える。自らの感想は交えず、話の流れを淡々と語っただけなのだが、何かを納得したかのように、聞き終えた炎山は線の細い肩を竦めた。
「わかった。…ブルース」
 服を着たまま大股に部屋を横切り、ベッドの上を指す。
 ここへ座れ、と炎山は言った。
 果たしてブルースが寝台を軋ませてその場に腰掛けると、どかり、と脚の上に相手の体重が乗っかった。
「おまえは、ほのおの質問の答が欲しいんだな?」
「…………え」
 否、と否定するつもりだったのだが、それ以上の音は出て来なかった。
 すでに自分の中では終点を見ている問答であるのだが、炎山は自身の考えをここで明らかにしたいようだ。
 男が好いた女に擬似的に触れるのと同じだという解釈を否定せず、こちらをどう思っているのかという点に関して発言するつもりなのだろう。
「教えて、いただけるのでしたら…」
 思わず、ごくりと唾を飲む。
 今まで何もない状態でこうして炎山が自分の膝に座るような経験がなかっただけに、近距離で接する白い相貌に目を見張る。
 勿論、行過ぎた行為であちらから腹の上に馬乗りになったことは多々あるが、強引に横抱きにして座らない限りこのような状況を迎えられるはずもない。夜半であれば珍しくもないが、そういった雰囲気ではないのは明白だ。
 神妙に話を聞こうとは思うのだが、別の意識が錯乱を促すようで危ういと言えばそんな印象だった。
「俺が、おまえの髪に触れないのは」
 言い聞かせるよう、単語の節節で間を置く。
 黒いガラスの奥を注視するように、一見鋭いと思われる鮮やかな眼差しを向ける。
 真摯な視線を投げかけているだけだというのに、胸で輝くナビマークに直接触れているよりも直にその意思が伝わってくるようだった。
「俺が、おまえに、」
 息がかかるほど間近で、形の良い唇が、紡ぐ音階に合わせて薄く開閉される。
 触れてほしいと、思っているからだと。
「…………」
 すべてを告げると、炎山はじっとこちらを凝視した。
 わかったか、と確認を促しているというより、どんな反応も受け入れようと待ち構えている気概に近い。
 否定も肯定も、そんなものは言われた側の勝手であって、炎山自身は感知しない。むしろ、そんなものには揺るがされないと断言しているような強さがあった。
「炎山さま……」
 我ながら、呻いてでもいるかのような、情けない声音だと思う。
 次第に湧き上がってくる喜悦に似た感覚に、意図せず口元が緩む。
 微笑が浮かび上がる瞬間、炎山はそっとそこに自らの温もりを重ねた。

「俺は休む。おまえも、充分な休息を取っておけ」
 ブルース、と、向けられた背から命令とも取れる調子で発される。
 それに簡潔な応答を返し、明瞭な回答を得たナビは薄く目を細めた。

 思うよりも、思われることを望むこともある。
 それが自分なのだと言われれば、今更わが身の置き場所など尋ねるべくもない。


-2005/11/13
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