二人の時間2
 来るな、と強い拒絶が室内に響いた。
 ぴしゃりと言い放った者の口調には、嫌悪感は微塵も含まれていなかった。なのに、厳しい、と感じたのだとしたら、わずかな感情の起伏がそこに加味されていたからかもしれない。
 え、と一瞬戸惑ったような反応が返る。
 しかしその一言だけでは状況を判断できなかったかのように、いまだか弱いナビは立ち尽くしたまま、大きな青い目をしばたいた。
 見えている景色の中には、ベッドの上で休んでいる大好きな人の顔が見える。いつもは研ぎ澄まされたような眸が、わずかに見開かれているのは気のせいだろうか。けれどそれよりも、姿を知覚できたということに、はちきれんばかりの喜びを感じた。
 会えただけでこんなにも胸が躍るのは、人間とナビ以上の絆がどこかにあるからだ。その在り処はわからないが、きっと生まれた時に彼らが授けてくれたのだと実感できる。
 少女は満面に笑みを浮かべ、言われた通りその場所で、朝に相応しく張りのある声を放った。
「炎山さま、昨日はグライドと一緒にセキュリティコードを解読するお勉強をしたの」
「難しいことばかりだったけど、グライドが一つずつ、ほのおにもわかるように説明してくれて」
「グライドが用意してくれた模擬試験で、何とほのおは最速タイムを出したの…!」
「たった一日でこれをマスターしてしまうなんて、ほのおは凄いって、グライドが……」
「ほのお」
 びくん、と真紅を纏った少女の身体が跳ねた。
 荒削りではないが鋭い制止に、寝台の上にいる赤いナビが機嫌を損ねていることを悟ったのだろう。
 再び見開かれた瞳は、背を向けたままの長身の影と、夜着を羽織り半身を起こそうとしている主の間を往き来した。
 何を咎められたのかが判然とせず、泣き出しそうな気持ちが感情回路に溢れる。しかし、それを敢えて堪え、精一杯の笑みを見せた。
「炎山さま、お着替え中だったの?ごめんなさい、ほのおは昨夜、炎山さまにお休みの挨拶ができなかったから……」
 謝罪の合間、ブルース、と炎山が自身のナビを嗜める声が届いた。
 責めているようでもあり、荒ぶる気配を文字通り諫めている風でもある。
「だから、朝だけでもと思って…」
 段々と勢いをなくしてゆく語尾をすべて言い終わらぬうちに、銀髪を蓄えたナビが床に降り立ち、足早にこちらへ近づいた。
 口を噤んだまま視界を覆うように素早くその目の前に立つと、凹凸のない細い腕を取る。
 痛い、と口に出したが、相手は取り合わなかった。
 ブルース、と今度ははっきりと炎山が名を呼んだ。
「申し訳ありません、炎山さま」
 何に対する侘びなのかの説明を受けることなく、強制的に少女はPETの中へ送り返された。



 すすり泣く音声が、PETとは別の電脳空間で続いている。
 黙ってそれを見下ろしていたが、ブルースは忌々しさを押し隠したまま、やめろと命じた。
「弱いナビは嫌いだ。いつまでも泣くな」
 主語を省き、鼓舞するような叱責をぶつける。
 こんな物言いを、もし旧姓綾小路やいとや炎山が聞いたとしたら、もっと他に言い方があるだろうと問い詰めているところだろう。
 おのれ以外に対してはそういう言動をする者だと熟知している炎山は怒り心頭とまでは行かないだろうが、殊ブルースというナビをオペレーター同様あまり好いてはいないと公言するやいとは、何て男だと非難しただろう。
 小さい子ども。しかも女の子に向かって、注意をするにしてももっと優しく言ってあげるのが紳士の嗜みじゃないかと詰め寄られたとしても不思議ではない。
 しかし、ここで彼女を庇う人物はいない。率直に物が言える分、ブルースはほのおを対等であるとも認識していた。
「……もう、泣かない」
 裾の広がったスカートの脇でぎゅ、と両手を握り締め、炎山と同じ眸を潤ませたままほのおは言った。
 弱いナビが挫ける様は、見ていて気持ちの良いものではない。むしろ逆風を前に奮い立つのが、本当の強さだとブルースは認識していた。
「それで良い。これでは、話が進まないからな」
 口を開けば、融通の利かないことばかり、と評したのは、無論近年急速に親しくならざるを得なかったやいとだ。
 事ある毎に炎山との時間を邪魔する奴だと思い込まれた経緯もあるが、グライドと異なり、自分は飽くまで炎山の忠実なナビだと認識している。故に、結婚しようが妻である彼女に配慮を示した覚えは一度もなかった。
 そう言ってしまえば不遜だと捉えられなくもないが、ブルースが忠誠を誓っているのは、IPCという巨大企業の中心にある炎山だけだ。彼のための気を割くことはあっても、財閥全体はその意識下にない。あるとしても、自身を作った前社長に対する体面だけで、すべては炎山の、引いて思考した場合に限り、伊集院財閥という巨大コンツェルンのためだと言うことができた。
 然るに、他人に対する思い遣りが欠如していると指摘されても、器用貧乏になど端からなるつもりのないブルースには、まさに馬耳東風だった。なぜなら、IPCのナビとしてのプライドが生まれながらに備わっていたからだ。
「ほのおは、やっちゃいけないことをしてしまったの…?」
 だからブルースが怒ったのだと、ほのおは自分なりに考えて出した結論を口にした。
 端的な肯定は返らなかったが、それを補足するように、赤いナビは眼下の少女を見下ろした。
「起床をされる時間の前後は、炎山様のプライベートだ。邪魔になるから誰も入るなと、前以て言っておいたはずだ」
 それを忘れて踏み込んできたのだから、相応の態度だと注釈する。
 例え、疲労のあまり就寝の挨拶ができなかったことを悔やんでの行為とはいえ、決まり事を守らなかったおまえに非があると断言する。
 言い訳などには耳を貸さないと断じるような、強い語調だった。その規則がどうして生まれたのかという疑問や、なにゆえ他を排除するのかという疑念について、解答する意思はないと言っているようなものだ。
 要するに、規律違反をおかしたのは、誰でもない自分だということ。
 うん、とほのおは小さな顎を引いた。
 予想通りの理由に、反省と一緒にそれとは別の心情が胸に溢れてくる。
 納得したことを引き締めた口元から示し、遠慮がちに呟いた。
「ブルースなら、良いんだ」
 私的な時間に足を踏み入れても咎められないのは、ブルースだからなのかと確認する。
「………………」
 返答は返らず、表情のない顔からは感情の一片すら窺えなかった。
 少女は切れのある美しい眦を気弱げに下げた。
 ブルースのことは炎山同様大好きだが、相手は自分をそれほど好いてはいない。
 他人である、グライドたちより。
 もしかすると、嫌いなのではないかとの憶測すら生まれてしまうほど。
 肩を落としたナビを無言のまま見つめていた影は、この状況に辟易したかのように、不意に黒いきびすを返した。
「さっきは、済まなかった」
 思わぬ謝罪を聴覚が拾い、驚いて顔を上げると、その姿はすでに少女の視界から消え失せていた。


→二人の時間3

-2005/11/26
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