二人の時間3
 ほのおを呼んで来いという命令に従い、ブルースに呼ばれて少女は現実空間に姿を現した。
 先ほど寝台で横になっていた炎山は、すっかり身支度を整え、ゆとりのある着こなしでベッドに腰かけている。どうやら起きしなにシャワーを浴びたのだろう。清潔な香りがそれを表す数値となって意識に飛び込み、ほのおの胸を躍らせた。
「おはよう」
 うっすらと口元に笑みが刷かれていることを知ると、居ても立ってもいられなくなった。
「おはようございます…!」
 その一言だけで落ち込んだ気分が払拭できたかのように、喜びを全身で表す。
 いつものように側へ駈け寄ろうと足を踏み出しかけ、朝、ブルースに近寄るなと言われた位置で留まった。左右を見渡し、良いことなのかどうかを思わず確認してしまう。
 それに苦笑を示すと、炎山は隣へ来るよう促した。
 部屋の主の許可を得て、今度こそ、堂々と前進を再開する。
 炎山の許しさえ得られれば、如何にブルースとて彼女の行動を規制することはできないからだ。
「ごめんなさい、炎山さま」
 間近で顔を見た途端、小振りな唇から発されたのは、自分の非を詫びる言葉だった。
 やってはいけないと言われていたにも関わらず、約束を失念してしまったのは、ナビとしての自覚が足りないからだ。
 勿論、自分は炎山のナビではないが、決まっている物事を守らなければ、無法者と同義であることくらい熟知している。IPCで作られた以上、そんなものにでもなれば、そこに関わった人間はおろか、眼前にいる炎山自身にも迷惑がかかるだろう。
 常に冷静に判断し、おのれを見失うな、とはブルースの言だが、グライドも似たようなことを言っていた。
 オペレーターでは補いきれない部分を補完する。それこそが、彼らの務めであると説いていた。それを、つい最近胸のナビマークに刻んだはずだったのに。
 思い返す度にがっくりと項垂れる頭を、掌がぽんと撫でた。
 温かみのある、重さのないそれには、ナビには決して手に入れられない血の巡りが記録されている。
「気にするな。これから、気をつければ良いんだ」
 瞳を覗き込むように首をわずかに傾けながら語りかける様は、誰が見ても一様の感想しか抱かないだろう。
 炎山は優しい。
 まるでブルースとは対照的だ、と言ったら、またあの口を不愉快に噤ませてしまうだろうか。けれど、厳しさが際立ってしまうが、そうでないことは、ほのお自身がよく理解していた。
 取り付く島もない物言いだが、ブルースは故意に相手を傷つけようと思ったり、貶めようと画策したりする人柄ではない。
 親子だという身内としての認識が働いているかどうかの区別は付けられないが、危険なウィルスの侵入を察知したら、真っ先に自分の元へ参じてくれるのは彼だけだ。
 それはほのおという固体を識別する特別な回路を、ブルースが所持しているから可能なのだと教えられたことがある。的確に我が子の居場所を突き止め、そこへ到達することができるのは、それらを瞬間移動コントロールの鍵にしているからであるらしい。その能力なくして実行は不可能だが、ウィルスから少女の身を護る行為が炎山の命令ではないことなら、以前にも確かめた経験があった。
 大好きな人に一日あったことを報告する時、一度だけだが、こちらに対する行動には干渉するつもりはないと言われたことがある。
 要するに、ナビはナビ同士、教育は一任するという方針なのだろう。任されている手前、いい加減な教育を行うつもりがないのだとしたら、ブルースが厳格な態度で接するのも当然かもしれない。
「まあ、親父に指導を受けていたのなら、無理もないかもしれないが…」
 彼女の不安を和らげるように、自身の実父の性格を示唆し、炎山は眉を八の字に下げた。
 噂で聞く前社長、即ち現在の伊集院会長は、PETの開発を優先させIPCを飛躍的に伸長させた張本人だが、手がけたナビは後にも先にもブルースただ一人であったらしい。息子のために、と言えば聞こえは良いが、詰まるところ自身の限界を知ったんだろう、と炎山は解釈する。
 ほのおにはよくわからなかったが、そういう意味で言えば、自分も彼らがカスタマイズしたただ一人のナビということになるのだろう。
「大丈夫。ほのおは、ブルースのことが嫌いじゃないから」
 あれしきのことで、生まれながらに備わった信頼が消滅したわけではないと告げる。
 絆、という言葉で形容されるつながりは、ともにいる時間が長ければ長いほど厚く太くなる。であれば、ブルースと炎山ほど深くはないが、誰よりも側にいるという点では、その次に位置しているだろうことを実感できるからだ。
 でも、と少女は口を小さく突き出した。
 ブルースは。
「……嫌いじゃないさ」
 言葉尻を拾い、ほのおの一番好きな顔が近づいてくる。
 滑らかな動作で頭部を引き寄せられ、額のある部分にこつんと唇が当たった。
 身体が傾いた拍子に、少女はぎゅっとその温もりに抱きついた。
 ひんやりとした布越しに、しっかりと相手の体温を記憶する。あまり高温ではないが、冷た過ぎるわけではない。直接肌に触れることは滅多にないが、多分気持ちの良いものなのだろうと思った。
 現に、ブルースは炎山に触れることが多い。どちらかが一方的にというわけではないが、見ていて羨ましくなるほど独占しているのは事実だった。
 だから、大事な時間を失いたくないと思ったのかな。
 二人きりでいられる機会を邪魔されたくないと考えたのなら、あんなに怒るのも無理はなかったのかもしれない。
 ごめんね、と少女は心の中で呟いた。
「…ふふ」
 いつも独り占めをしている当人がいないのを良いことに、縋った先の胸に顔をうずめる。これでもかというくらい密着し、存分に頬を摺り寄せてから、丸みを帯びた顎を上げた。
 にこりと微笑み、部屋に入った時から気づいていたことを告げる。
「炎山さま。そうやって前髪を下ろしていると、ほのおそっくりだね」
 普段は外気に晒されている形の良い額が、今は真っ白な彼の頭髪に覆われている。
 外見をそのまま模写したわけではないが、造りは子どもの頃の炎山と似ているという。形質上、生身の部分を持つことはないが、ブルースのような銀髪を持たなくとも、炎山の子だという確証のようなものはある。よくデザインされている、とは、ナビなのに人間みたいな発想力が生まれつき備わっているロックマンという友人の評だ。
「俺の娘である以上、ブルースがおまえを気に入らないわけはない」
 微妙な具合に唇を曲げて、炎山は言った。
 それは笑いを堪えているようでもあり、文字通り複雑な感情が内面にあったからかもしれない。
「それはよくわかってます、炎山さま…!」
 傍目から見ていても、二人を取り巻く雰囲気が温かい空気に包まれていることが窺い知れる。
 だからこそ、そこに関わった自分が煙たがられたりすることはないと信じられる。元々、炎山以外の事柄に関して、狭量であるとは言い難い質であるのならば、ブルースの中では主に次いだ場所に自分が居るのだと納得できるからだ。
 にこにこと内心の喜びをそのまま表に表したような表情で見上げると、困ったような笑みを浮かべた白い相貌が幼い娘を見下ろした。

「俺も、できるだけほのおといられる時間を作るようにする」
 そうすれば、ブルースが機嫌を損なうような事態はなくなるだろう、と炎山は苦笑した。
 思わぬ好機を手に入れ、小さな少女が諸手を上げて喜んだことは言うまでもない。


→二人の時間4

-2005/12/4
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