呼び出しの音に、苛立たしげな声が半ば理不尽な強さを伴ってぶつけられた。
「何、グライド!いないの!?」
言い訳を聞く以前にすでに責めの調子が含まれていることに、初めてそれと遭遇した人間がいたなら、これはとんでもないオペレーターだと評したに違いない。
実際は見た目ほど粗雑な性格ではないのだが、弾丸のように口から出てくる辛辣な物言いに、大抵の者は辟易する傾向にある。しかし、それでも実行しなければならない命令と言うものを、ナビは持っているわけで。
「や、やいとさま…?」
ひっ掴み、顔面を間近に近づけたPETのフレームの枠に白魚よりもか細い指をかけ、幼い娘は片側の顔だけを画面に映し出した。
「あら?あんたは確か…」
咄嗟に何者であるかを察し、なあんだ、と見てくれは少女と言えなくもない貴婦人は呆れ顔になった。
「グライドはいなかったので、勝手にお邪魔しました」
赤いスカートの裾をわずかに広げるような仕草をして、ぺこりと挨拶をする。
それを見て、へえ、と彼女は関心したようだ。
「ブルースが育てているって聞いていた割には、しっかりしているのね」
丁寧な口調ながらも上からものを言うような態度は、育った環境が起因している。
誰も手が付けられないわがままお嬢様だという世間の評価は、一概に間違っているとは言い難い。無論、それだけではないというのが、親しい関係にある友人らの一貫した認識であることもまた然り。
「グライドなら、私の命令でインターネットシティへ買い物に出かけてるわ」
先ほど大声で相手を非難していたが、不在であることは先刻承知の上であったらしい。
立て続けにつっけんどんな態度で、何か用?、と問われ、ぐっと少女は唾を飲み込んだ。どうも、彼女の気迫というか行動は、予想が付かなくて恐ろしいものだと感じているらしい。
「あの…」
意を決して切り出そうとしたところで、またしても矢継ぎ早な声が遮った。
「ほんっと、グライドったら役に立たないんだから!昨日だって、何であんな時間にパパからのメールを持ってくるのよ!!」
どうやら、やっとの思いで再会を果たした炎山との語らいに水を差したことについて、一夜明けても不満が頭の中で渦を巻いているらしい。
今さっき自分のナビをサイバーワールドへ使いに出したと言ったが、大方顔を見たくないと泣き叫ばれ、逃げ場を求める意味でグライドが用事を思い出したと言い、退散したというのが真実だろう。ほとぼりが冷めるまではそっとしておこうという、彼なりの気遣いであることは説明するまでもない。
「私がどんな思いでニホンに帰って来たのか、わかってるくせに…!!」
ふくよかな顔の側面に二つ垂らした三つ編みが、主の憤りを表すように逆立った。
この場にグライドがいたら間違いなく、胎教に悪いから、と嗜めて、更に不興を買ったことだろう。
ムキーッと歯を食い縛って内心の怒りを露にする現在の伊集院夫人に、ほのおの顔面は驚きを通り越して蒼白になりつつあった。訳もなく、自分が怒られているかのような錯覚を覚える。炎山同様好いている人間が機嫌を損ねている様は、少女を悲しくさせる一方だった。しかし、だからと言って嘆くばかりではない。
「やいとさま、その服は赤ちゃんのためのものなの?」
一瞬何のことかとナビと同じ茶色い目を瞬かせ、え、とさほど身長のない姿がPETを振り返った。
どうやら彼女が身に纏っているマタニティドレスのことを指しているようだ。特注であり、お気に入りのピンクが基調となっているのは、綾小路家では通例と言える。
装いを指摘され、普段から同性に気の優しい面が現れる。ふふ、と目元を綻ばせながら少女の顔を覗き込んだ。
「そうよ。こんな時にしか着られないものだから、素敵なデザインを着こなしているの」
似合わない服は端から着ないのだと主張するように、自身のファッションセンスを鼻にかけながら説明する。
逞しい金色のおさげを軽く横へ払い、自信満々な物腰で接するのは、今が幸せの絶頂だと言っているようなものだ。
思わず可愛い、とほのおは興奮した声を発した。
綾小路やいとが炎山の妻だという事実は、彼女の中では取り立てて問題であると認識していなかった。自分は、確かにブルースと炎山の娘だ。IPCでは公に認められていなくても、彼らがそうだと言っているのだから間違いはない。所詮ナビだという負い目があるわけではないが、少女にとって彼女は人間的に不満があるような人物ではなかったからだ。
やいと自身、ほのおという存在を毛嫌いしている素振りはない。そう見せていないだけかもしれないが、生来気位が高い家に生まついた経緯からも好き嫌いが明瞭であるのだから、まともに口が利きたくなければそうと示しているはずだ。こうして会話が成り立っているのは、然るに悪く思っていない証拠と言えるだろう。
一見自分本位に捉えられがちだが、自分より幼い者や、女性という立場にある人間を丁重に扱おうとする傾向は、炎山に近いものがある。それこそしっかりとした教育を施された上位階級に生まれた者の特権とばかりに、弱い者に対しては無条件で親身になることが多かった。
無論、それを逆手にとって自分が好き勝手したいという企みがあるのが、彼女の本心の一端でもある。
「すごく、似合ってる…!」
満面に笑みを浮かべ、心に思ったことを口にする。
率直な少女の感想に毒気を抜かれたように、やいとは両脇に手を当てて、ふうと嘆息した。
「ほのおって、本当に誰とも似てないわねー」
あの二人の娘だという肩書きを持っているのに、という意味合いであり、責めるつもりは些かもないのだろう。自分に素直であるということは、彼女にとっても歓迎できる性質であったようだ。
「あの炎山の子どもとは思えない…」
あの、にアクセントを置きつつ、感慨深げに腕を組む。
「炎山さまは、優しいけれど…?」
揶揄を察したかのように、ぽつり呟く。
悪く評されたのだという勘のようなものが働いたようだ。しかし、悪気があって口にした内容ではないとわかっていたのだろう。
「ふん。あいつは誰彼構わず、女の子には優しい奴よ」
そういう男なのよ!、と力一杯こぶしを握り締めて力説する。
お陰で、数年前に開催されたN1グランプリ以降続いているファンクラブが、今も尚解散の噂すらなく元気に活動しているのだと、苦みばしった表情で吐き捨てる。特段目障りなことをしているわけではないのだが、某所では相変わらず女性たちに崇拝されていることを苦々しく思っているようだ。
これは、愛情の裏返しなのかな?、と思いつつ、何となくやいとは炎山に対してライバル意識を持っているような気がしてきた。もしかすると、まったく方向違いの想像であったかもしれないが。
「炎山さまは、やいとさまに優しくないの…?」
不安げに、ついつい思ったことを尋ねてしまう。
「そ、そんなこと」
不意を突かれたように、急に語気が萎んだ。
台詞がどもり、幾分頬が赤くなる。それに釣られるように、目線が一定方向を正視できなくなったように、ふらふらと浮つき始めた。
「じゃあ、優しいんですね」
良かった、とほのおは破顔した。
不仲であるとの情報はブルースからもグライドからも聞いていなかったので、絶対にそんなことはないとは思っていたが、実際にやいとから聞くことができれば安心する。
こういう時、なぜか彼女の味方をしてしまうのはどうしてだろうと思う。同じ、女同士であるからだとは考え付かなかった。
「ま、ブルースなんか目じゃないくらい、優しいことは事実ね」
言っていることは勝者の言であるのに、目を反らしたままふくれっ面をしているのは、やはり素直に喜べない事情があるのだろう。
むしろこの時点で、ナビとはいえ男と比較すること自体が彼女にとって屈辱であると察するべきだった。
しかし、ブルースなど敵ではないと豪語する姿に、見上げてくる青い眼がきらきらと輝いた。
「やいとさま、凄い!」
少女の感極まったような歓声に、知らずふふんと鼻高々な平素へと変貌する。
「そりゃあ、私は、炎山の妻だもの…!」
ナビなんかと比較にならないくらい、熱々なのは当然だと胸を張る。
誇らしげに宣言する様を輝いた目で見上げながら、かっこ良いとほのおは声援を繰り返した。主従未満の関係であるとはいえ、すでに二人の間には何らかの友情が芽生えてしまったようだ。
しばらくの間わくわくと胸を躍らせていたが、今頃になって少女はここへ訪れた本当の理由を思い出したようだ。
あっと口に手を当て、そうだ、と自身の後方を探る。
「…炎山さまから、やいとさまへって」
朝というには遅い時刻に短く頼むと言って渡されたメールを、薄い電子の封筒を差し出すことで示した。
丁度ブルースがいなかったこともあったが、何となく炎山は自分にこれを頼みたかったように思う。様子を見て来いと言われたわけではないが、ほのおならばと信頼してくれていたような節がないわけではなかった。勿論、それが理屈など何もない自身の直感であることは言うまでもない。
「え?何よ、いきなり…」
昨夜は何の連絡も寄越さなかったくせに、とぶつぶつ不平を漏らしつつ、PETを操作し手動でデータを開く。
プライベートなので内容を覗き見ないよう、ほのおは枠の端っこへ身を寄せた。
小さなナビの前面に画面を展開することで情報の漏洩を防ぎ、本文を展開した瞬間、大きな瞳がこれでもかと言わんばかりに見開かれた。
「な、な、な、な」
わなわなと怒りが全身に漲り、語尾が震える。
「何よ、偉そうに………っ!!!」
太いお下げが再び天に向かって逆立つかと思われたが、そうはならなかったので、恐らく怒っているように見えるのは外見だけなのだろう。
首を傾げ、不思議な様子で真っ赤になった女主人の相貌を見つめていると、ぷいっと顔を背けられた。しかし、手にしたPETを放り捨てる気配はない。
「炎山に、首を長くして待つことね、って伝えておいて!」
言うなり鏡台の上に端末を下ろし、ふん、とまた鼻を鳴らして去って行った。
何か機嫌を損ねるようなことが書いてあったのかな、と心配しつつ、少女は再び小さくお辞儀をすると言付けを忘れぬよう胸に留め、無人のPETを後にした。
早く帰って来い、というたった一行だけの横柄な文面は、その後二人が再会を果たすまで抹消されることはなかった。
-2005/12/10
→next_text かなたの近景