低い温度1
 帰ってくるなり、我ながら現金というか。
 憮然とした思いが、その胸に去来した。
 それは誰が見ても一様に美しいと表すべき光景だったのだろう。
 膝に幼い娘の頭を抱き、ぐっすりと夢境の只中へ埋没している様を、薄く微笑むような眼差しで見守る白と黒のコントラスト。
 プライベートな時間であるがゆえに、装いは簡素なものだ。上等のシャツと、黒に近いグレーのズボンが一見痩躯とも思える肢体を緩やかに包んでいる。それが材質的に皺になり難いとはいえ、頭一つでもかなり重いだろう子どもを抱いて、安らいでいるというのは。
 一瞬脳裏をよぎったのは、心地良い景観であるという感想。そしてその次に訪れたのは、わけのわからない焦燥だった。

 自らにとって明瞭な存在というものは、初めから明らかだった。
 おのが仕えるべき、たったひとつの名。在り処、その現し身。
 予めプログラムされていたのは、この少年のために在ることだった。
 それと意識したのは、残念ながら出会って数年経った後だった。当初は脆かったはずの炎山の精神が、研磨されると同時に不要なものを省き、そしてまた新たな厚みを増した過程。
 彼は彼自身の中に自らを見出し、そして不可欠だとの答を出した。決して失くしてはならないのだと、誓いにも似た思いを抱かせたのは、何が原因だったのかはわからない。共有した時の流れか、些細な切っ掛けか。
 あるいは、目の前にあって当たり前だと思っていたことを正確に捉えることができた時点からだろうか。
 明確な回答を得た炎山に、自身が出した答もまた同様のものだった。
 なくてはならない。
 けれどそれは、似て非なるものだった。
 自我ではなく自意識という、高慢な覚醒。
 その傍らにあるべきは自らだという、欲求と酷似するもの。

「…ただいま戻りました」
 声をかけたところで、他者に独占されていた目線がようやく持ち上がった。
「ああ、ご苦労だった」
 ブルース、と。
 名を口にする様子も、いつもより格段に穏やかだ。
 囁くような、潜められた声調は、気管をひどく消耗させた事後のそれを髣髴とさせる。
「ご命令通り、セキュリティのバージョンアップはすべて完了しました」
 これで、最新型の防壁を施していないのは、先日傘下に入ったばかりの企業一社を残すのみとなったと告げる。
 緊急に入った仕事だったが、昼前から取り掛かっていたため、夕刻には終了するだろうと予想を立てていた。実際、その通りの時刻に帰還できたのだから、任務としては完遂したと評して差し支えないだろう。
「おまえが社に戻っていて、助かった」
 炎山が持ち場を離れられない事情を抱えていたために、彼のナビであるブルースが各機関を回って最新の設備を整えさせたのだが、どうやら本来やるべきはずの仕事はすべて、二人の子どもであるほのおが受け持ったようだ。
 今ではIPCという大企業の職務について大まかな事柄だけは習得済みのようだが、未熟なナビを側に置いて、指導しつつ助力を得ていた炎山の苦労は普段の倍はあっただろう。
 それこそ、何を命じるにしても一から説明しなければならないのだから、労力は多少では済まされなかったはずだ。それなのに、外見からわずかな疲れすら見出せないのは、それ以上に満たされる部分があったからだ。
 親子で一つのことを成し遂げる。
 ほのおの寝顔がひどく満足げであることからも、容易にその内容が推し量れた。甘えるように白と赤の入り混じった頭部を預け、小さな手を炎山の細い膝に添えている。
 基盤は自分のデータを元にしているらしいが、ほのおはまったくの他人といって良いほど仕様が異なった。古くからあるシステムを組んで構築されたネットナビと、新型を組み込んだ今現在のナビとでは、双方に大きな相違があって然るべきだが、ここまで別の人格が形成されるとは想像していなかった。
 共通していることといえば、メモリに記録されていた自身が目にしてきた炎山の漠然とした過去と、炎山に対する過度の信頼、好意だろうか。その二文字の意味とて、ブルースには正しく理解できてはいなかった。
 無条件の愛情とやらを生まれながらに持ち、それを全身で表して接するほのおというものに、今時点でも首を捻る部分がないわけではない。
 元来そういった人間的な感情あるいは感性というものをプログラムされていなかったがゆえに、自発的なそれらの芽生えを平然と表に出すことのできる少女は、一種、異様な生き物だ。そこに女という別があるからこそ、思いの発露というものに抵抗がなかったのかもしれないが、理解不能なものを惜しげもなく晒し続ける輩に不快感を抱くことは少なくない。
 機械であるがゆえに、慣れ親しむという動作が鈍化しているためだと言っても、それによって炎山をどうにかしていること自体が、受け入れ難いと思う最たる理由だったのかもしれない。
 帰還を宣言しながら、一向に動こうとしないナビへ、どうした、と問いが投げかけられる。
 寝台の白いシーツの上で、愛娘を膝に抱いたまま、炎山はわずかに顔を傾げた。
 その拍子に、ふわりと前髪が一房横へ流れる。
「ブルース」
 眼下の我が子へ気遣うように、低い声が柔らかい唇から放たれる。
「………………」
 応えるべきものもなく、ただ佇み、凝視する。
 黒で視界を遮られているとはいえ、直線的に視線は前方へ伸びていることを知覚しているのだろう。炎山は、困ったように苦笑したようだった。
「そんな顔を、するな」
 嗜めるような、優しい声音。
 長く離れていたわけではないというのに、不満を抱いて微動だにしないナビを諭すような調子が含まれていた。
 折角の美男子が台無しだと。
 素顔など無きに等しいのに、そんなことをのたまうのは、本当にそう思っているからなのか。それとも、単なる戯れなのか。真意は些かも伝わっては来なかったが、要するに見目良い相好ではないということだろう。
 暗に催促された行いを辞退する旨を告げようとして、不意に台詞を遮られる。
「ここへ来てくれ、ブルース」
 命令ではない、懇願。
 おまえが欲しいんだ、と。
 すべての意味を聞き終える前に、身体が動いた。


→低い温度2

-2006/02/11
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