あれ?
自身の覚醒を確認した途端、少女は目を丸くした。
起床動作が働いたのは、疲弊した体力が完全な数値にまで回復したからに他ならない。
ナビとはいえ子どもである以上、動作に支障のない程度での活動は避け、HPが満杯になるまで作動しないようセットしてあるのは、誰でもない炎山の采配によるものだ。無理をして取り返しが付かなくなるまでデータを磨耗させないよう、発育途上の自身を慮っての設定だった。
だから、自分は随分とよく眠っていたのだろう。しかし、目の前で展開されている光景は、何だか妙な感じだった。
ブルース、と称される片親が、もう一人の親だと認識している炎山の膝に頭を預けて仰向けに横たわっている。シーツの上で、悠々と足を伸ばし、上にある主の顔を見上げている。けれどそこは、本来自身がいたはずの場所だった。
疲れたと言って眼をこすり、寝台の端でうとうとしているところを捕まえられて、ぽんと頭を撫でられた。確か、ブルースが帰るまで待たなくても良いと言われたのを覚えている。
勿論、PETに戻って休んで良いという意味だったのだろうが、なぜか突然その時、友人とのやり取りを思い出したのだ。
サイバーワールドで同じように疲れたと言ってしゃがみこんでしまった時、ピンクがトレードマークのナビ、ロールが、膝を貸してあげると言ったのだ。それは彼らにとって子どものナビが珍しく、多分にお姉さん振りたかっただけかもしれないが、そこで少しだけ休ませてもらったことがある。
寝付きが良かったため、起きた時にはいつの間にかロックマンという友人も一人増えていたけれど、二人ともにこにこしながら少女を見下ろしていた。
その時の気持ち良さというか、安心感というのが、果たして炎山であっても同じものだったのだろうかと気になったのだ。
だから、頭を撫でてくれた炎山にぽつりと呟いてみたのだ。
炎山さまのお膝で寝ても良い?、と。
一瞬驚いたようだったが、軽い嘆息とともに炎山はベッドに腰掛け、了承の意を示してくれた。
それだけのことが嬉しくて、その細身の膝に抱きつくように甘えてから、良いね、気持ち良いね、と何度も呟いているうちに、意識を失ってしまったのだ。
けれど、ブルースが今いるそこは、自身が寝ていたはずの場所だった。
何で、どうしてブルースが、自分の代わりに炎山の温かい膝を独占しているのか。
少女の小さな胸に沸き起こったのは、明らかな憤りだった。
むう、と赤みの乏しい頬を膨らませ、現れ出た現実世界の絨毯の上で仁王立ちをする。
まだ、彼らはこちらに気づいていない。
もしかするとブルースだけは、他とは異なるわが子の波長を拾っていたのかもしれないが、低い声音で炎山に語りかけることに専心しているようだった。
視線を少しもずらすことなく、あの切れのある大きな眸を独占している。
炎山はブルースを見下ろし、時折微笑を零しては、抱え込むように赤い頭部の聴覚器のある辺りに細い指を伸ばしている。ほのおにはわからない合図を送るように、それが時々ブルースのメットの側面に触れ、音を立てないままわずかな隙間を作る。
ふれ合いと呼ぶには密かで緩やかな空間は、二人が互い以外目に入っていない証だった。
やがて数分が経とうかという頃、何かの拍子に頭の高度を上げた炎山が、部屋の隅で頬を膨らませる少女を視界に捉えたようだ。
ほのお、と名前を呼び、おはようと、いつものように声をかける。
心なしか音が掠れているのは、朝が早いためだけではないのだろう。
「…おはようございます、炎山さま」
臍を曲げていても、炎山の挨拶を無視するわけには行かない。
少女は急に寂しいような気持ちに捉われて、つい俯いてしまった。
何事かと体を起こそうとした炎山を制するように、ブルースは青年の腰に手を回し、少しだけ顔を起こしたようだ。
何をしている、との無情な言葉を漆黒の仮面から聞いた途端、またしても少女の胸にはわけのわからない怒りが沸いてきた。
ぷう、と今度こそ抗議をする意味で頬を丸くし、ずかずかと部屋の中央へ突き進む。短い手足を懸命に動かし、一人の人間と一体のナビの前で立ち止まると、思い切り声を張り上げた。
「炎山さまも、ブルースも、ひどい…!」
そこは、ほのおの場所だったのに。
辛うじて涙を堪えて心情を訴えると、困ったように炎山は黒くて形の良い眉の端を下げた。
彼女の訴えが一体どういう意味なのかと問うこともなく、下方で仰臥する影に向かって命じる。
ほのおと変わってやれ、と一言。
端的ではあったが、すぐにすべてを悟ったらしい炎山の的確な指示に、ほのおの中の幼い悋気はあっという間に消え去ってしまうはずだった。
しかし相反するように、主人である青年の言を無視するかのように、ブルースは苦笑いを口端に浮かべただけだった。
そう見えたように感じたのは少女だけで、実際は人形のように無表情だったのかもしれない。けれど、何となくブルースはそこに居続けたいようだった。
なぜ、そんなにもそのことに固執するのか。無論、幼い少女には知る由もない。
実体化することが日常的になる前に作られたナビにとって、現実に触れられるという行為そのものが贅沢であるなどとは、想像すらできなかったからだ。
「……ブルース」
呆れたように、炎山が呼びかける。
回された腕が頑としてここを離れたくないという意思表示だと察し、更に相手との距離を詰めるように身を屈ませた。
「…昨夜、散々サービスをしてやっただろう?」
唇が頭部に直接触れるか触れないかのぎりぎりの位置で止まり、空気にかすかな振動を与える。
どうやら機嫌を損ねていたらしいブルースのために、少女が寝ている間、炎山は何かを沢山してあげたようだ。
何を大盤振る舞いしたのかはわからなかったが、秘密を打ち明けるような耳打ちは、ほのおにもちゃんと聞こえていた。
常態では普通の人間よりわずかに聴覚が優れているくらいだが、殊炎山から発される声調だけは、敏感に感じ取れるという特性がある。単なる選り好みであったかもしれないが、それだけ、彼の持つ声音や容姿、動きのひとつでさえも、自身が気に入っている証拠なのだろう。
それを受けて、またしてもブルースは微笑ったようだ。
奇妙な角度に口の端を歪め、申し訳ありません、と謝罪を告げる。
些かも気の毒だと思っていないような素振りは、融通の利かない生来の姿そのままだ。
もう、と少女は短い両腕を括れのない腰に当て、直感的に感じたことをとうとう放言してしまった。
「ブルースはまるで、ほのおとおんなじ子どもみたい」
その例えに炎山は口元だけでくすりと笑い、そら見たことかと赤いナビを流し見た。
さすがのブルースも少々罪悪感を覚えたのか、ベッドに上がって良い旨を示唆するように、重い手を持ち上げて上質の白いシーツを数回叩いた。
了解を得た少女が高さのある寝台を登り終えると、炎山を捕らえていない方の片腕を伸ばし、軽々と身体を引き寄せ、その脇へ転がした。
「おまえは、俺の腕枕で我慢しろ」
…本当は、炎山さまのお膝が良いのに。
我を主張するほど熱くなく、それでもここにいることを実感させるような低温の。
でも、その心地良さは自分だけのものじゃないんだな、と思う。
どこまで行っても、炎山に関する事柄には最低限の譲歩しかできないブルースに形容し難い腹立ちを感じながら、機嫌の良い黒い手で頭を撫でられているうちに、いつしか少女は自分が炎山のように頬に笑みを浮かべていることに気がついた。
-2006/03/21
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