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覚えるのは、衝動
 音もなく、口を噤んだまま瞼を閉じる人影に忍び寄る。
 設えられた寝台の上に仰臥した影は、天幕から薄く差し込む月明かりを受けてもびくともしない。連日の強行軍が深い眠りを必要としているだろうことは明らかだが、戦い以外の部分で疲弊しているだろう肉体が充分な休息を欲していたのだろう。
 身を屈め、まるで四本の足で歩くような体勢でその傍らへ近寄った青年は、一言詫びると匂いを嗅ぐように鼻先を寄せ、舐めるような仕草で発色の乏しい頬に接吻した。
「悪かった、な…」
 それに返る答は、規則正しい寝息と、解放された前髪からちらちらと見え隠れする白い額だけだ。
 その様を暫時目を細めて見守っていた男は、薄暗闇の中、元いた場所へと息を潜めて舞い戻った。
 四足の獣。
 明るい闇のような毛艶のそれは、子どもなど一噛みでころせそうなほど大きなけものだった。

 感情よりも原始的で、理性よりも根源にある発生。その、動作。
 どうしてこんなことになってしまったか、知覚する本能は残されていなかった。
 否。残されていながらそれに縋ろうとしなかっただけかもしれない。
 長く生きてきて初めて、これほどまでに明確な目的を覚えたことはなかった。
 なぜ、何、どうして。
 浮かび上がる疑念を飛び越えて、脈動する血肉そのもののような、湧き上がる神経に支配された。
 あれは渇き。渇望するよりも鮮烈な、明瞭な動機。繋がっている部分がそれだけでは飽き足らず、かの内側へ入り込もうとする。現実とは程遠い感度で内部へ滑り込み、ぐちゅぐちゅと柔らかな壁を侵す。形が変わってしまうのではと思われるほど、何度も。何度、腰を打ちつけたかわからない。
 下になった者は、尻を突き出した恰好のまま、ただくぐもった声をその喉奥から絞り出していた。何者に対しても同様の変化しか見せない相貌は、今は苦渋に歪んでいることだろう。幼さを残しながらも大人びた風貌に、悔し涙を浮かべていたかもしれない。そんなことに構っていられる余裕などなく、跨った青いけものは獰猛な呼気を吐き出したまま雫が滴る口元を、夜着の襟首から見え隠れする項に寄せた。ささくれ立ったようにざらついた、大きな舌で肌を一舐めし、牙を突きたて吐精の合図を示す。
 次の瞬間、びくびくと人の持つ腰が震え、内部へ食い込んだ異形の性器の先端からどくどくと白い物が溢れ出した。身体を捩って逃げ出そうにも、一度収めてしまえば射精するまで抜くことなどできない独特の形状をしている。すでに一度身を持って体験している手前、嵐が過ぎるのを待っているだけなのだろう。毛で覆われた粘つく下肢が離れるのを、待ち続けているだけだ。
 けだもののように後ろから交わり、どちらかの体力が果てるのを待つだけの行為。心地良いはずの人間の肌を、匂いを、その存在を耽溺したいだけのはずなのに、どうして自分は止められなかったのだろう。
 化身したもう一つの姿で交わったまま、そんなことを心のどこかで考えていた。

 朝と夜と、できるだけ時間を作れる隙を縫って、ひっそりと彼に会いに行く。
 許しを請うためではなく、そうしたかったからだ。
 無言のまま見つめ返されることもあれば、目を合わさず片言の返事で終わることもある。
 どれだけ詫びても決着は付かないだろうと諦観している部分もあるが、懺悔することで救われているのはむしろ自身だ。
 衝動の理由。行為の訳。無理矢理繋がったことに対する謝罪は、これからを進む上で一等大切だと思うからだ。
 本来なら鍛錬を積んだ剣で怪我を負わされても不思議ではなかった。なのに、化身した自身を傷つけもせず、追い出しもせず、彼は受け止めていたのだ。その厚意を、無駄にするわけには行かない。
 過ち、かもしれない。
 偶然では、ない。
 欲求を覚えたのは、確かに眼前の若者が原因だ。それを自覚するたび、益々離れている間すら惜しくなる。
「もう、気にしていない」
 幾度目かの訪問の後、振り返った眼差しが真っ直ぐにこちらを見た。
「気にしていない」
 だからもう良いと。
 物言わぬ気配が、全身を包んでいることを知る。
「そうか」
 割とあっけらかんと、受けた側が明るい声を発する。それとは裏腹に、顔が笑んでいないことは明白だった。
 もしかしたらこれからも。
 恐らく、どんな時も。
 存在を知覚するだけで覚えるだろう、この、内側の。
 魂の近くにある、最も遠い感性の子が。
「また同じようなことがあったら、今度こそその拳で殴って良いからな?」
 再び、という言葉に、相手があからさまに眉間を寄せる。
 勘弁してくれと口中で呟くように胡乱な目つきで一瞥し、そして一つ笑みを零した。
「ラグズの習性だというなら、拒みきれるものじゃないだろう」
 そう頻繁であっては殴りたくもなるが、自分がベオクと呼ばれる化身をしない部類の人間である以上、その反対の立場の者を否定する気にはなれないと。

「…お前の場合、その歳で達観し過ぎだから」
 呆れたようにため息を零し、そこでようやく男は破顔した。


-2007/05/06
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