誰もがその時、言葉を失った。
塔全体を覆っていた嫌な空気。忌むべき気配の正体は、その奥深くに隠されていた。
折り重なるようにして放棄された無数の骸。部屋を埋めるようにして打ち捨てられた物の一部は腐敗し、溶け出したそれは、もはや汚泥と表しても過言ではなかった。
仲間たちの無残な姿を目の当たりにしたラグズは、わずかしかいない。国家の首領となる者や、その代理を務める者たち。他の連中に見せるにはあまりに衝撃が大き過ぎると判断したのは、適切な処置だった。
ベオクの自分でも思う。あの惨状は虐さつよりも酷い、上層からの要求を満たすためだけの実験の塔。そこに他の欲求は一切なく、ただ道具を兵器に作り変えるための作業場でしかなかった。
自身が共にいた手前、はっきりとした感情は浮かんでは来なかったが、ラグズの面々は一様に険しい面のまま口を噤んでいた。慟哭よりももっと深い、恐らく想像も付かないほどの絶望と怒りに心を蹂躙されているにもかかわらず、原因を作った同じベオクである自分を責めることはしなかった。だからこそ、深いと思う。こちらが感じているよりももっと激しい傷を彼らは負ってしまったのだ。
戦いから戻ってきたラグズの、とりわけ獣牙族の親しい仲間の様子が気がかりであるらしいミストに何があったのかと尋ねられたが、具体的な内容を告げることは避けた。父親を亡くしてまだ幾月しか経たない妹に、また混乱の種を植え付けてしまい兼ねないと危惧したからだ。表面上では努めて明るく振舞ってはいるが、彼女の内面にも同じような傷があることを知っているからだ。
ミストはまだ強くはない。むしろ、誰しも強くなることを目指して生きているのかもしれない。
そっとしておいてやろう、と。
最低限の配慮を覗かせ、今は彼らの力にはなれない現実を痛感した。
控えめな扉を叩く音に視界が冴える。
視線を向けた先にあるのは、正しくは窓だったのだが、入って来れるのであればどこでも構わなかったのだろう。予測どおり、それは昼間ともに戦った獣牙族の戦士のものだった。
存在を認め、こちらが名を口にするよりも早く、開け放たれた戸口から一息に手が伸びる。まるで空中から生えてきたかのような二の腕は、違えようのない相手を求めるように、その肌を目指して伸ばされた。
「ライ、起きていて大丈夫なのか?」
憎しみにせよ悲しみにせよ、戦闘で疲弊した体力を更に追い詰めていることには変わらない。
ラグズは一様に回復力の高い種族だと言われているが、充分な休息なしには実現が不可能であることくらい、よく理解しているつもりだ。そんな相手が、なぜここへやって来たのか。声を潜めるようにして訝しげに問えば、思ったよりも長い返答があった。
今夜は誰も、自分たちの仲間は眠れないだろうと告ぐ。負の気に、体が狂いそうなほど悲鳴を上げているからだと言った。
夜営をしているこの砦は、惨劇のあった塔から随分と離れている。それでも、あの土地を満たしていた毒気が今も彼らを苦しめているのだろう。数々の実験台となった大勢の同胞たちの打ち捨てられた亡骸を目にしたライは、それ以上の苦痛と戦っているのだ。ガリアを代表してこの戦いに参戦した身である。部下たちの前で醜態を晒すことを避けたのだろう。
リュシオンたち鷺の民が頻繁に口にする負の空気というものがどんなものであるかは、実際よくわからない。多分に気分の悪くなる代物であることに間違いはないだろうが、その濃淡によってラグズが生体のバランスを維持できなくなってしまうことは認識している。
自分たちベオクとて例外ではないと彼らは言うが、それを実感した経験はまだない。ただ頓着しないだけなのか、感じないだけなのかは定かではないが。
「お前は、正も負もないから」
あるいは、完全な均衡がその体内で保たれているから、どちらにも影響されないのだとライは言った。
「だから、お前と居ると、俺はすごく楽なんだ…」
告白するような独白は、凭れた肩口から届いた。
抱きしめるように腕を背に回してはいるが、そこに普段のような強さはない。
疲れきった親友を慰めるように、そうか、と呟く。
万物の生命の源であるこの対極の、どちらにも属さない人間などいない。けれど、影響を極力避けることのできる器はある。
黄金律のように完成された、否。ほぼ完全に近い均等の配分を持つ存在だけが、その強さを得ることができるという。それは、いずれかを強く持つ者にとって理想以上の重さを持った。
「…俺で良ければ、いつでも肩を貸すが」
こうした触れ合いは苦手ではない。
言葉を交わすよりも、実行することで得られる安息はある。
何よりも、父親のグレイルがそういう人間だった。
多くは語らないが、行動の端端で息子に対する思いやりに溢れていた。厳しさと、優しさと、期待と。それと、わずかだったが今ならはっきりとわかる、憐憫の思い。
「俺専用だって話なら、尚嬉しいんだけどな…?」
くすくすと笑う声には、若干だったがいつものような調子が含まれていた。
少しずつ、本当に少しずつ。朝日が昇るころには平素を取り戻せるように、傷を癒しているのだろう。
このまま朝までこの部屋にいたら、責任は持てないな、と漏れた声を鼓膜が拾う。
別に構わないが、と返せば、強く抱きしめられた。
「そういう歓待は大歓迎だな」
面を上げて笑った顔は、懐かしい光景に溢れていた。
-2007/05/06
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