木の上で逢瀬を重ねることは、鳥翼族にとってごく当たり前のことだった。
鳥の姿になって戯れることもあれば、人と変わらぬ容姿で優しい刻を共有することもある。
雛鳥の頃から兄弟のように育てられた仲であれば、それはもっと何気ないことだった。
「…ったく、おまえもいい加減、良い歳なんだからな」
大木というほどでもない中ほどの樹木の、幹と枝の間に腰を下ろした影は、長く突き出した枝葉にほっそりとした両足を伸ばし、軽く組んだ上に、この世に在るあらゆる生き物より軽いだろうと目される、白鷺の姫を乗せていた。
枝に腰掛けるように、横座りをしている者の髪を、先ほどからいそいそと上等の刷毛で梳いているのは長髪の男だ。
全身を黒と見紛うばかりの濃い色彩で包み、その眼も頭髪も同色の深い色で染まっている。闇夜をそのまま形にしたような見目は、太古から未知なるものを連れて来る使者のように捉えられていた。
漆黒を髣髴とさせる装いに相反するように、その肌は白い。青みがかった白色ではなく、黄金色に近いそれは、精悍ながらも端整な顔立ちをより一層引き立てる。外見を重んじるベオクが見れば、野性味を持ちながらどことなく気品が漂う風貌だと評しただろう。実際、口は悪くとも品を損なわないのは、彼を知る者ならば誰もが心得ていた。
「ほらよ。今度は、こっちを向きな」
シニカルな笑みを浮かべ、男は膝上の娘に声をかける。
まるで自身の本当の娘か妹のように、両腕を掴んで身体の向きを変えた。
地面に付くほどもある長い髪の後ろを入念に梳いていたが、次は全体を整えたいようだ。いつもならば顔の側面で軽く横髪を結わえているのだが、今は解かれてベオクの村娘のようになっている。
普段からあまり自身の外見に頓着しない性格であるため、髪を結うのも他人任せだという事実はあまり知られていない。自分でしているものではないから、一度誰かの好意で結い直してもらった後は、そのまま眠ったり、朝起きても整えるということをしない。見兼ねた世話係兼護衛役である老鴉ニアルチにしばしば手入れをされるが、やはり男ほど手先の器用な者はいなかった。
「ま、こんなもんは、俺様の手にかかれば大した時間もかからなくて済むけどな」
小道具を口に挟み、携えていた刷毛が落ちないよう脇に抱えながら、てきぱきと頭上で髪が整えられて行く様を娘は見守った。
わざわざ道具を持ちながら作業を行わなくても、預けてくれればしっかりと持っているつもりだった。しかし、そわそわして信用ができない、と言わんばかりに取り上げられ、ぷらぷらと膝の上で足を動かすくらいしか暇潰しができない。
そこに多少の不満がないわけではなかったが、少女のような白い鷺の娘は大人しく男の言うとおりじっとしていた。
櫛を入れる前に比べて、羽根のようにひらめく髪がより一層美しく、艶のあるふっくらとした仕上がりになったのは、水鏡がなくてもよくわかる。肌を滑る心地良い風が、ふわりと金糸を運んでくれたからだ。きちんと結われた横髪も、一糸乱れることなく清楚なしつらいに変わっている。数刻に満たない手入れで、あっという間に村娘を、姫君か女王に仕立て上げてしまった。
「我ながら、完璧な仕上がりに、惚れ惚れするね」
自画自賛し、出来上がった作品をじっくりと吟味するように凝視する。
くすくすと、思わず笑いが込み上げ、リアーネという通り名を持つ娘は鈴のような音色とともに笑い出してしまった。
男の、自慢げな態度が実に率直で、そして子どもっぽいと感じたからだ。
「あのなあ、リアーネ。ここは俺に、礼を言うところだろうが?」
猫毛よりも柔らかい髪質の所為で寝癖とは無縁だが、どんな寝方をしたのか、ぼろぼろの頭のまま、頭上の木陰で寛いでいた男を見つけたのは彼女だ。
白い羽根を広げて舞い上がり、条件反射のように朝の挨拶をしようとして、ぎょっとした相手がいきなり、刷毛とか櫛とか、部屋にあるものを全部持って来いと言い出したのだ。
結局、道具を取りに行ったのはネサラだが、一度言い出したことや関わった事柄に対して、むしろ面倒見が良いところは、昔と少しも変わっていない。皮肉屋で気取り屋ではあるが、基本的に世話を焼くタイプだという事実は、彼女以外の誰も、気づいていないのかもしれない。
本当は、簡単な身づくろい程度なら自前でできる。けれど、そんな顔が見たくて、毎朝男を探していると言ったら、この幼馴染みはどんな顔をするだろう。
興味が先立ち、腰を下ろしていた膝の上で登るように覆い被さった。
驚いたように夜色の瞳が瞬き、バランスを崩しかけて、反射的に凭れていた幹へと全体重を移動させる。
後ろに両腕を回し、リアーネは背後の大きな両翼の間に隠れた漆のように艶光りする豊かな長髪を掬い上げた。
緩やかに束ねられたそれは、上質の絹の糸のように厚く、重い。ネサラの髪はいつも綺麗だと、片言の共通語で呟くと、身だしなみは鴉の民の最重要課題だからな、と片頬を歪められた。
抱きつくような恰好に業を煮やしたのか、空気のように軽い娘を横抱きにし、座っていた枝の上で男は立ち上がった。
「…よし。これからおまえの部屋へ寄って道具を元に戻してから、近くの森で朝飯でも探すか」
自身の目にかかれば、鷹の民の千里眼ほどでなくとも、獲物を見つけるのは容易い。
赤い木の実の類いを見つけるなら、光物に目敏いこちらの方が優れていると言っても過言ではないだろう。
そう言外に含みを持たせ、夜の王との呼び名に相応しい黒い翼が大空に向かって広げられた。
腕を回したまま抱き上げられ、宙に浮かぶ反動とともに襟首から覗いた胸に娘の身体が押し付けられた。
そこからひっそりと届く、夜露のように清潔な香。
それが、ネサラの本当の姿。
自ら冷笑役や偽善者を演じていても、幼い頃から変わらないこの匂いを自分は知っている。恐らく兄であるリュシオンも、わかっているからいつまでも、幼馴染みを信頼し、見捨てることができなかったのだろう。
そして自分も、繊細で、頼りなげな勇気といつも戦っている心をずっと以前から知っていた。
だからこそ。
一緒にいることが不自然ではない。
そんな、空気のような幼い恋は、いつしか実りある愛へと形を変える。
-2007/06/14
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