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無垢な花園
 草地に、所々群生する花を見渡せる位置で、大きな木に寄りかかるようにして黒い影が身体を伸ばして羽を休めている。
 その少し離れた場所に、白い鷺娘が心地良い音を口ずさみながら、細い指で色鮮やかな草花を摘み取っている。
 手折られているにも関わらず、瑞々しさを失わない花弁は、光の少女に摘まれることによって新たな生命を与えられているかのようだ。
 日差しを避けるように真っ黒な姿態が、太陽がその高度を上げるにつれ狭められる木陰の中で、窮屈そうに組んでいた足を身体の内側へと引き寄せる。安眠を貪るにはさすがに温度の上昇が気になり始めたのだろう。深い闇色に近い藍色の髪を持った若き王は、仕方なしに陽光の下で無邪気に遊ぶ娘の側へ歩み寄った。
「もう少し、器用にできないもんかね」
 少女のような白い娘の頭上から誰に聞かせるでもなく呟かれた感想は、苦笑交じりで、揶揄など欠片も込められていない。
 すべてをそつなくこなせるのは、狡猾がモットーの自分だけで良いと考えているからかもしれない。
 首にかける大きな花輪を作っていたのだろう。確かにつながってはいるが、円の形と評すには些かいびつだ。しかも、数箇所からは、刺さると痛そうな茎が無数にとび出している。作り方に関しては、数十年以上も昔、こちらが教えたのだから間違ってはいないのだろう。あとは、当人の性格だな、と思いながら、細い指を伸ばして男は無骨な花飾りを受け取り、眺めた。
 途端に、ネサラ、壊しちゃ駄目、と古代語が響く。
 聞き心地の良い音調は、聞き馴染んで久しい。二十年間、失われたと思っていた音色ならば、尚更愛しさが募るというものだ。
「この俺が、そんな真似をするわけがないだろうが?」
 おまえにとって自分はどんなに信用の置けない男なんだ、と口中で呟きながら、野性味のある美貌に苦笑いを浮かべる。
 無論、思いついたことをただ口にするだけの、可愛い雛鳥のような娘であることは充分に理解している。
 長い時を、セリノスの森の中で眠りに就いていたからだろうか。亡き王国の末姫リアーネは、精神的成長が遅いようだ。
 鷺の一族自体、鳥翼族の中では長命の部類に入る。ゆえに、鴉の民である自身とは成長に差があると考えるのが無難かもしれないが、それにしても今もまだ子どもっぽさが抜けきっていないようだ。
 これが彼女の素の性格なのかもしれないが、大人びた姿を早く見たいものだと思う。
「ネサラ」
 共通語で名を呼び、そのすぐ後に先刻と同じような滑らかな音階が紡がれる。
 昔と違い、他者とコミュニケーションを取ろうと必死な分、言葉も少しずつ覚えてきてはいるが、どうしても補えない部分はある。難しい形容や、知識に教え込まれていない単語の変換には苦心しているようだ。
 これまではお守役と称して、厄介払いをしていた老鴉ニアルチが彼女の教育係だったが、時間を見つけては自分もその役を引き受けることがある。
 古い言語を理解し話すことができる者は、自身を除けばリアーネの兄たちくらいしかいない。
 鷺の王族が操る呪歌(まじないうた)は古代の言葉を使用している。彼らが生き残っている限り、それは失われることはないだろうが、国を亡くした今、現代語を学ばなければ、それこそ鳥籠の雛で終わってしまうからだ。
 鷺らしくなく、熱血漢肌で正義感に溢れるリュシオン同様、リアーネももはや触れれば手折れるような儚い存在ではなくなった。勿論、この世に生ける者たちの中で最も脆弱な一族ではあるが、ベオクを含めた様々な種族との関係を経験して、身に宿った心には強い信念が根付いてしまったようだ。
 むしろ、幼い頃からともに過ごしてきた一人としては、彼らの兆候はその時代からあったと言ったら、周囲を驚かせるだろうか。
 せがむように黒い上着の袖を引っ張り、奪い取られた花輪を取り返そうと上目遣いの緑の瞳が見つめてくる。その頬にかかる蜘蛛の糸のように細い金糸が、ふわふわと風に舞う。
 光に溢れた、優しい光景。日の下で見れば、強い陽光に掻き消されてしまいそうなのに、今そこには確固たる意思が浮かんでいる。強い光だと思った時点で、束の間、見惚れている事実に気がついた。
「わかったわかった。…そらよ」
 片手に持っていた花を、軽々と長い尖指に引っ掛け、娘の膝の上へ落とす。
 ぽとりと落ちた宝物を再び胸の位置に持ち上げ、白鷺姫はにこりと微笑んだ。
 笑い顔は、昔と少しも変わっていない。
 思わず目元を細めれば、顔を上げたリアーネと眼が合った。
「ネサラ」
 再び笑み、名前を呼んでくる。
 共通語の発音を覚えたのが、よほど自慢なのだろうか。
 隣に腰を下ろし、軽く片足を折ってその上に手を添える。炎天下で黒い姿を晒すのは自殺行為も甚だしいが、しばらくの間であれば多少は我慢できるだろう。持って二分が限度だとわかっていても、自らの心に素直に従った。
 もう少しこの空気に触れていても、誰からも文句は言われないだろうと。
 まだこちらを見つめてくるリアーネにばつが悪くなり、思わず口元を歪める。
「誓って、もう邪魔はしない。花輪作りを続けたらどうだ…?」
 だから、ほんの数分だけここにいさせてくれ、と。
 少し、読み違えたのだろうか。
 ふとリアーネはか細い首を小動物のように傾げ、瞼を一二度瞬いた。
 リュシオンや他の連中に渡すために作っているんだろう?、と思念で問いかければ、心中を読み取れる術に長けた少女に正しくそれは伝わったようだ。
 ネサラ、と三度名を呼ばれる。
 覚えたてなのは良いが、少々イントネーションが違っているぞ、とは言い出さず、その続きを待った。
 すると、何を思ったのか、眼前に白いドレスの胸元が迫った。
 ぎょっとし、身構えた頭の上に、ふわりと草花の匂いが満ちる。するすると肩口まで降りたそれは、鴉の王を飾る首輪のようにすんなりと顎の下で居場所を占拠した。
 呆然と、目の前を埋め尽くしたふっくらとした白い胸が離れるまでを待つ。
「…………………」
 ネサラ、似合ってる、と二つの言語の混合体が耳に届くまで、数秒。
 何をされたのかをようやく理解した思考が、目の前で起こった出来事への対処法を打ち出すまで、さらに時間を要した。
 不意を突くのが得意なわけではないだろう。無防備だったのは、こちらに非がある。かといって、何もできなかった自身が、ひたすら歯痒いと思わされたのもまた事実で。
 できるだけ花に飾られたおのれの姿を想像しないように努め、吐き出したくなるため息を押し殺し、夜闇の王は瞑目することで冷静さを取り戻した。
「リアーネ…」
 やっと出てきた声音は、虚勢が売り物の鴉の王にはあるまじき疲れがどっと滲んでいるようだった。
 茎が首に刺さって痛い、と静かな口調で真実を告げると、驚いたような表情の娘が、急いで首輪を外そうと覆い被さってきた。
 寸でのところでそれを押し留め、元の位置に座らせる。これ以上醜態を晒してなるものかとの自負が、急接近した花の匂いを遠ざけた。油断も隙もあったもんじゃないとの心の声は気取られないよう潜め、伸ばした掌でぽんぽんと頭を撫でる。
「ありがとうよ」
 本心から浮かんでくる照れた笑いとない交ぜになった謝礼に感極まったように、避けようと伸ばされた黒い腕を無視して鷺娘は形の良い鴉の頭を抱きしめた。
 これにはさすがに吃驚したのか、ぎゃあ、と裏返るような悲鳴が、遠くの空から聞こえてきた。どこぞの王から派遣された偵察野郎だなと見当をつけながら、埋め尽くされた視界の中で心底から懇願した。
 見ているなら、降りてきて助けろ、と。
 純粋な喜びを表しての行動だということは十二分に伝わる。だからといって、大して親しくもない相手に抱擁は行き過ぎだろう。
 こういう時だけ心話が通じないのはどういう了見なんだと胸中で地団駄を踏みながら、真正面から拒めない自らを呪いつつ、あちらから離れてくれるまでを辛抱強く待った。

 こんな風に、後手に回るのが自身の性分だったろうか。
 柔らかなぬくもりを甘受しながら、はああと頭の中で盛大なため息を吐き、花と緑と光の芳香に我を忘れるために、闇色の翼の主は潔く瞼を下ろした。






















「逢引っていうより、あれは……………」
 絶句したような、鷹王の眼の嘆息を受けて。
「…………………」
 子守だろう、と無言のうちに耳は応えた。


-2007/07/10
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