+ ハパチ。 +

01/ままごと

 もごもごと、口の中で何かが蠢いているっぽい。
 しばらく口中を動かして、次いでうーんと首を傾げている。
 確かめ、やっぱりかと納得し、そしてまた確かめる。
「なんか…」
 やっと、それを誰かに話す気になったようだ。あるいは、言わずにはいられないほど覚束ない感覚であるのか。それとも、そこにわずかでも不安があるためか。
 ああ、それはないと断定して、寝転んでいたベッドから大きな影が起き上がった。
 前へ進み、膝を付く。
 跪くように、目の位置を相手の一番近い場所まで持ってゆく。しゃがんで覗き込まなければ、その全貌を視界に捉えることはできないからだ。
「口ん中、火傷したみてえ」
 呟き、そのままその人は唇を閉じた。
 噤んだ奥で、もぞもぞとまた舌を動かしているのだろう。身体と同色の頬が、奇妙な膨らみを見せている。
 破天荒は、昼食で食べたおでんが原因だろうかと推測した。
 当時、それほど大仰な態度を示した場面には遭遇しなかったように思う。席を同じくしている間は、何があっても他に目を奪われることがないのだから、自分が気づかなかったのは真実だ。
 だとしたら、周囲の人間が知らないような些細な異変が首領パッチの中であったということになるのだろう。そして当初、本人もそれを軽んじていたのだ。しかし今になって、痕ができていることに意外だったという違和感を覚えたのだろう。
 粘膜の治癒力というのは、人体の中で並外れて高い。
 そこが傷ついた経験を実際に回想してみても、あまり具体的な記憶には触れられないくらい、あっという間に治ってしまうことが専らだ。
 本人の知らぬ間に完治してしまうため、その様子を思い出せないという表現が一番適切であるかもしれない。
 現に怪我を負った首領パッチ自身を見下ろしても、どんな不自由を感じて苦心しているのか、はっきりとした感情が伝わってくるわけではなかった。
 だが、程度はそう酷くないのだろう。何度も傷の具合を確認しているのだから、触れて痛いというわけではないようだ。
 ただ、妙な物が変な所にできてしまったと思い悩んでいるのかもしれない。口の内側に負った傷というのは、実際に自分の眼で見ることが適わないからこそ、不明瞭な手応えであることが多い。火傷ならば、痛覚が鈍い分尚更だ。

 わずかな興味を覚え、破天荒は鼻先を近づけた。
 途端、驚いたように大きな目が見開かれた。
 しかし、あとずさったりはしない。
 硬直したように、びびっとすべてのトゲが一直線に背後へ延びた。ただ距離を詰めただけなのに緊張を強いるとは、相手にとって自身はどんな子分なのかと思う。
 が、気にした素振りを見せることなく言葉を告いだ。
「見せてもらっても良いですか?」
 真正面から面を付き合わせ、慇懃とまでは行かないが、丁寧な敬語でお願いをする。
 謙っているわけでも、土下座をして懇願しているわけでもない。興味本位であることは、その口振りからも明白だ。断られても意に介さないくらいには、気楽な依頼だった。
 うーんと、首領パッチは腕を組んで一声唸った。
 喚くほどの大怪我ではないなら、請われたことを呆気なく許可してもおかしくはない。一拍間を置くということは、何か悪さをされると警戒しているのだろうか。
 まあ、それは。
 破天荒の側から見ても、賢明な思考だと思うが。
 最近、首領パッチは学ぶことを覚えるようになった。今までは特段の考えもなく行動していたが、この頃はちょっとだけ悩むような仕草をする。思案するように、首を傾げる。
 自分を前にして、以前のような無防備の状態ではなくなったと表せば適当だろうか。かといって、信頼を失ったという証拠にはならない。
 確証はないが、要するにただの子分ではなくなったということだろう。
 今も昔もハジケ組に所属しているという認識は、自分や首領パッチの中で変わらぬ事実であろうとも。
 自分は、普通の子分とは少し違うそれになったのだ。
「良いぜ」
 暫時黙考してから、よし、と決意したように目線を上げる。
 上目遣いで見つめられ、満足を覚えるとともにほんの少しの面映さを感じた。
 見下ろす顔は横柄と思われるような目付きのままだが、かすかに頬が赤らんでいるだろうなくらいには、自らの変化を知覚した。だが、それはそれだと横へ置いて、興味の方を優先する。我が事にかまけて慌てふためく性分とは、生憎と子どもの時分から縁がなかった。
 あー、と唇が真円に近い形に開かれる。
 歯科医の前で開口するような間の抜けた動作だが、首領パッチの行う動きはどれもがあまり醜いと思う造作にはならない。
 元々ハジケの世界では、これは酷過ぎるだろうと思われるようなレベルの顔を遠慮なく見せ付けているからこそ、そう思うのかもしれない。
 素の姿で、そこについている瞳や眉や唇を動かす光景は、どれを取っても見る側には新鮮な印象がある。
 大きな瞳も、立派なトゲも。凹みすら見当たらない円形の体など。そのいずれもが、この世に二つとない首領パッチの持ち物だった。
 無論、それが相手に惚れ込んでいるがゆえの錯覚であっても構わない。
「ええと、どこですか?」
 許しを得、どこに怪我をしたのかを直接尋ねる。
 下から口内を覗いても、あまり大きくない口元からは中の様子を完全に知ることはできなかった。
 口を開けたまま、ここだと声のような音が漏れる。心なしか、喉の奥に垂れ下がった口蓋垂が蠕動しているようだ。
 首領パッチの細い舌先がちょんちょんと突いた先は、丁度前歯の裏側だった。これでは流石に、外から窺うのは難しい。
「おやびん、もうちょっと顔を上に…」
 正確には顎を、と言いたかったが、如何せん相手にその部位はない。
 表現としては微妙だが、それ以外当てはまる名称がないことから仕方なく言葉にすれば、くいと鼻先が上へ移動した。
 傍目からは顔面についている器官が突如、揃って真上へ移ったように見えるかもしれないが、確かにこちらの言う通り、顎を上向けてくれたのだろう。
 自身で大体の当たりをつけた部分を覗き見し、破天荒はああ、と合点した。
 白い歯で隠れてほとんど見ることはできないが、歯茎の裏に少し赤みの強い一点がある。その周囲はむしろ粘膜の色ではなく、白色化して盛り上がっているようだった。
 怪我を負った首領パッチにとっては、口内の変異は舌で探る以外、詳しく知る術がない。当人にとっては漠然とした箇所であるようだが、当事者以外の人間の方が具体的な位置を掴みやすかった。
「痛いですか?」
 気の毒そうに眉を垂れ下げたまま、痛覚の有無を問う。
 端的に、いいやと否定が返った。
 意思表示のために身体を横へ振ったのだが、自然と頬に添えられた指先によって振りの幅が抑えられてしまったようだ。当てられた指の一点によって意図せず動きを封じられたようなものだが、きょとんとした顔つきで見つめられていると、自分が医者にでもなったような気分になる。
 患者のように全幅の信頼を寄せているわけではないだろうが、無心な表情にわずかな嬉しさとともに違うものが興ってしまうのは悪い癖だった。
 いや、これはもう癖とかいう次元ではないのかもしれない。
 見惚れてしまうこともあれば、手を伸ばしてもっと、とその先を欲する。
 欲求というポジティブな概念は、恐らく向こうにとっては歓迎せざる心的な働きだろう。正確には肉体が及ぼす効果とも言えるそれらを、自分しか所持していないことを腹立たしいとは思わない。
 なぜなら、そんなものがなくても接するのに不都合はないからだ。
「舐めて良いですか?」
 重ねて問うと、今度は明らかな驚愕がその表面に浮かんだ。
 ぎょっとしたように目を剥くのではなく、え、と声にして眼球を見開く。
 オレンジ色の体積の上部で白目が極端な広がりを見せ、その中央へ青い水滴のような瞳が寄せられた。
 丸くなった眼で見返され、決まり悪げに破天荒は苦笑を漏らした。
「だって、舐めた方が早く良くなるって言うじゃないですか」
 言っていることは事実だが、正論ではない。
 この場合、正論ではないが事実だと表現した方が誤りが少ないだろうか。
 首領パッチが怪我をしたのは、同じ口の粘膜だ。そこに唾液で治療を施すにしても、常に体液で濡らされている箇所であるなら意味はない。
 けれど、真実を知ってか知らずか、首領パッチは少しの間考え込んだかと思うと、何の引っ掛かりもなく提示された要求を呑んだ。
 舐めてくれよと、むしろ要請を突きつける。
 これには流石に破天荒と言えど、諸手を上げて万歳をするような心地にはなれなかった。

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