言うなり、首領パッチはもう一度口を大きく開けた。
先刻よりも、内側がよく見える。鮮やかで眩しい、血の色よりも薄くて、そして艶やかな壁が視界に広がった。
命じられた通り、長い指を添えたまま顔を近づける。表皮が触れないよう注意しながら、小さな歯の裏側に伸ばした舌を当てた。
先端に触れる歪な傷痕が奇妙な疼きを及ぼすのか、その瞬間、びくりと上体が振れた。けれど、入り口を閉じてしまうことはない。じっとして、噛み切ってしまわないように背伸びをしたまま制止の状態を保ち続ける。傷の形を覚えるようにその線を辿る間も、首領パッチはずっと姿勢を崩さなかった。
床に爪先立ち、持ち上げた顎の高さを維持している姿は、どこか懸命さを感じさせる。過度の負荷がかかり、かたかたと細い膝が震えているのは気のせいではないだろう。認めながらも、触れ合った側は性急に事を済ませたりはなしなかった。
労わるように、慰めるように。ゆっくりと丁寧に小振りな歯列の裏を辿り、口蓋との境へ満遍なく消毒を施す。
接吻のように執拗な真似はせず、破天荒としてはすぐに離れたつもりだった。蠢かせる舌先の照準がわずかにずれただけで、唇頭が触れ合わさってしまいそうだったからだ。
自分が施しているのは飽くまで治療の一環なのだと自らに言い聞かせ、温かい温もりから遠ざかったと思われた瞬間、目の前にあった体躯が一気に足元から崩れ落ちた。
「あぶね…っ!」
両腕を伸ばして咄嗟に支え、助け起こした体を引き寄せた。
寸でのところで尻餅を付く事態だけは阻止したが、相手の靴底で支えきれなかった体重がすべて、自身の二の腕にかかっているかのような重みに一瞬面食らう。
弛緩し、脱力したような恰好は、凡そらしくない。意外だと思いながらも、どこかで燻った熱が頭の隅で何かを訴えているような錯覚に襲われた。
腕の中に抱きしめることはせず、敢えて胸との間に若干距離を置いたままでいると、輪の中に囚われた丸い人は無邪気に破願した。
誰に見せるでもなく、ただ純粋に沸き起こった情動なのだろう。飾り気のない、けれど素朴と言うには明確過ぎる喜悦が、頬や目元の彼処に宿る。
「足吊るかと思ったぜ」
上へ伸び上がったままの体勢を持続させることに本気で集中していたと、軽い笑い声とともに吐露する。その顔は、いつも以上に爽快だった。
同時に、長時間開放した状態だった口端からは、無意識のうちに溜まった液が透明な筋を滴らせていた。
そういえば、口を開けているだけでどうして唾が溢れてくるのかわかんねえな、と当たり前のことを不思議がる。
ごくりと我知らず唾液を飲み込んだ音が、あちらに悟られないよう隠すのに苦心した。水に近い体液が滑らかな肌の上を伝ってゆく様を、直視し続けるのは非常に危険だった。殊に、それが口内から溢れた物であるなら尚のこと。
違う想像を思い起こしかけ、急いで打ち消した。密度を増したような空気を何とか脳裏から排除しつつ、なるべくそこを見ないよう心がけた。
大分落ち着いたのか、白い手袋で口元を拭い、首領パッチは真上にある相貌を見上げた。
どうやら、こちらの動揺は悟られずに済んだようだ。
「明日には、治ってると思うか?」
ちゃんと舐めたんだし、と付け加え、大きな目を向ける。
どんな大怪我を負っても、絆創膏を貼れば安心するような安直な口振りで問いかけられ、苦笑が知らず問われた側の頬を歪ませた。
本物の人間であれば、本格的な傷を負ったのだとしたらその程度の対処で済んでしまうわけがない。しかし、怪我という代物自体一種の遊びのように捉えている首領パッチにとっては、それは特別煩わしいものではないらしい。治療という先の行為も、物珍しさの方が先立っていたようだ。
傷を負っている時点ではそれを忌々しく思ったとしても、頓着する思考が長く続かないのだろう。要するに、驚くほど簡単に治癒してしまうために、いつまでも囚われた験しがないのだ。首領パッチに限っては、拘り続けられるほど辛抱が足りないとも言えるだろう。
今回のそれも、破天荒から見てもさほど深刻な外傷ではない。
これならば、普通の人間であっても一昼夜で完治するくらいの軽症だ。
「ええ、きっと治ってます」
はっきりとわかるよう、大げさに頭を上下させる。
幼児に言い聞かせるような態度でも、首領パッチはまったくそのことに異論を感じたりはしない。
この人は本当に目上の存在だということを理解しているのだろうかと、時々怪しみたくなるほど素直な対応だ。これが自分でなくとも同じ風に接するのかもしれなかったが、二人きりの時に他人のことを考えるのはやめた。
折角の貴重な機会。コンマ何秒毎に切り替わるフレームの単位ですら、逃さず脳裏に記憶として刻み付けたい。
けれど、しっかりと完治させるには、これからの行いを規制しなければならない。部分的にであるとはいえ、細胞が傷んでいることには変わりはないのだから、無茶は厳禁だと窘めた。
目の前に長い人差し指を立てて念を押すと、ぶすくれたような顔つきで睨まれた。
「無理なことすんなっつっても、例えばどんなことだよ」
行動に制限を設けられ、相手は面白くなさそうだった。
そういうところが単純だと言われる所以だが、親切に破天荒は具体的な例を示した。
「極端に大きな物を頬張ったり、二重に火傷をするような熱い物を食べるのもまずいです」
指折り数えながら、やっては駄目なことを列挙する。
「…ああ、あと」
つと、閉ざしたおのれの唇に触れた。
「激しいキスもお預けになりますね」
残念ですけど、と困ったように眉間を持ち上げる。
「ちゅーは駄目なんか!?」
大声で聞き返され、深々と頷いた。
えー、と首領パッチは同音を何度も繰り返した。
どうやら、自由に生活ができないと宣告され、それ自体が大分不服であるらしい。
気持ちはわかるのだが、前以て念を押しておかねば、どんな無茶苦茶な行動をしないとも限らない。余計な懸念であろうとも、最低限子分らしいことは言わなければならないだろう。少なくとも、ここに面倒見の良いコパッチが一人いたとしたら、確実に親分に対して小言を言っているはずだ。
どんな組長だよと思いながら、それがハジケ組だからな、と自己完結する。
しかし、本当に残念がっているらしい素振りを目の当たりにしているうちに、ふと破天荒の中でささやかな疑問が浮かんだ。
本当にどうでも良い、思いついたことを口にした。
首を傾げ、低い位置にある面を覗き込む。
「おやびんは、俺にべろべろされるのは嫌じゃなかったんですか?」
口と言わず体中舐め尽くされるのは。
そこまでするのは自分くらいだとの自覚は大いにあったが、大抵はいい加減にしろと強制的に止められることが多かった。
「んー…。でも、口ん中は良い」
いつのまにか自分の足で立ち上がれるようになった首領パッチは、早々に身体を預けていた腕から離れた。
けれど場所は移動せず、仁王立ちしたまま正面から尖ったような眼差しで見上げてくる。
「そうなんですか?」
そんな感想は初耳だなと思いながら重ねて尋ねると、そうだと強い首肯が返った。
「頭ん中がぽーっとなって、気持ち良いからな」
「…………」
ありがとうございます。
そう言いかけて、言わずにおくべきかを迷い、そして言った。
「…嬉しいです、おやびん」
内面の喜色を隠さず相好を崩すと、言ったことが意図せず恥ずかしかったのか、首領パッチはそっぽを向いた。
かすかに、頬に当たる体色が濃い。唇を突き出し、気に入らないことを白状してしまったと後悔しているようだった。
しかし、墓穴を掘ったのが自分だけであるのが余程腹に据えかねたのだろう。意趣返しとばかりに、当て付けで対抗してきた。
「おまえは、俺の中に出し入れするのが好きだよな」
で、最後にそこへ出すのが好きだろうと放言する。
嫌味ではなかったが、勝気な眼差しとともに告げられれば、皮肉以上の効果がある。本人は、そのことまでは考えが及ばなかったらしい。
「ええ、その通りです」
軽く苦笑を口元に浮かべながら、言われた内容を肯定する。
本当の望みを偽ってしまえるほど、初心でも繊細でもない。
ふてぶてしくそうだと断定するにしても、今の空気の中でそれは相応しくなかった。
当人にとっては何気ない会話のつもりであっても、あまり露骨な言葉で煽らないでほしいと思う。
もし、もっと具体的な単語を教えたが最後、延々日常会話の中でも煽られ続けそうな気がする。何にでも興味を示す相手に数多の隠語を手取り足取り教えても良かったのだが、ただでさえ奔放な理性が更に我慢が利かない事態になる虞があった。
誰にとってそれが迷惑になるかと言えば、挑発する首領パッチ以外にはいないのだが。
多分、本人が真実を知ることは永久にないだろう。
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