+ ハパチ。 +

08/あんこの気持ち

「美味い飯だったぜ、破天荒」
 朝食の後片付けを終え、タオルで濡れた手を拭っていた最中だった。
 背後から名を呼ばれ、予期していたこととはいえ、胸の鼓動がやけにうるさい。
 食器を浚っている最中、ぱたぱたと軽快な足音が廊下でしていたので、もしかしたらここへ来るのではないかと思っていたのだ。予想ではなく、それは飽くまで手前勝手な希望だったのだが。
 案の定その音の主は、自身が敬愛するハジケ組の大親分だった。
「お粗末様でした」
 ぺこりと軽くお辞儀をする。
「ああ、最高だったぜ」
 賛辞を受け、首領パッチより数倍背の高い子分は照れ臭げに頬を掻いた。
 今日の料理当番は自分ではなかったのだが、少なからない規模で助手を務めていたため、誉め言葉を素直に受け取っても罰は当たらないだろう。
 しかも、玉葱の味噌汁に塩を入れ過ぎたため、作り直したのは破天荒だ。
 味噌汁に塩は入れないものだということを、耳に蛸ができるほどしつこく言い続けても、直らない癖であるらしい。
「甘過ぎる玉子焼き、目玉焼き、茶碗蒸しに卵豆腐」
「………………」
 そういえば、奴らは大の甘党だったということを思い出す。
 コパッチたちにしてみれば、一番下の舎弟から『奴』呼ばわりされる謂れはなかったかもしれないが、破天荒にとって眼前の存在が至高である以上、それ以外は上も下もなかった。
 頭の中で少しまともか、軽蔑の程度は軽いかくらいにしか認識されていなくても不自然ではなかった。
 当然、表面立って心情を表わすことはないが。
「すみません。俺がもっと、卵以外の料理も覚えていたら…」
 あまりに偏り過ぎているコパッチたちの嗜好にうんざりする。
 普通なら、ここまで卵尽くしであればちょっとおかしいのではないかと、誰かが異論を唱えても不思議ではない。
 しかし、連中はほぼすべてが同じ思考回路だった。いや、全員がコパッチという同一の生き物だったと言えば正当だろうか。
 そして、こちらが感知していない間に、他の食材を使ったおかずを用意できなかった自身を悔やんだ。例え立場的には最下位であろうと、あまり高等な知性を持たない彼らを口車でやり込めることくらい難なくできたはずだ。
 自分がいれば、栄養が偏るから、ほうれん草の御浸しくらいは加えるべきだと意見するくらい、可能だったはずだと。監督に、不行届きがあったと認めざるを得ないだろう。
 それでも、首領パッチが快く平らげてくれたのなら文句はない。あるとしたら、それらの残り物の処理だ。
 これから朝飯に在り付く予定の破天荒は、自分が胃の中に収めるだろう献立を想像してげんなりした。
「俺は別に、何だって構わねえけど…」
 そこで、首領パッチは前に一歩足を踏み出した。
 当たり前のように、二人の距離が詰まる。
 一瞬どきりと心臓が竦み、わけもない期待に血管の脈動が烈しくなった。
 努めて変わらぬ態度を装いつつ、ちょいちょいと白い手袋がしゃがむよう催促する様子を見守った。
 命令に従い、足元へ屈み込む。その場で膝を折ると、明るいオレンジ色が近づいた。
 間が狭まり、隔てるものが何もなくなるくらいまで近接する。
 近寄った拍子に相手の肌の薫りを感じられるかと思ったが、首領パッチは無臭だった。体臭がないのではなく、滑らかな肌膚はどこか現実味のない物体であるかのようだった。
 こっそりと、低い場所から声が届いた。
「…今日のおやつ係は、誰か知ってるか?」
 思いがけない問いに、短い声が出た。
「え?」
 どうやら、首領パッチには知らされていないようだ。
 知っているなら教えてくれよと請われ、忙しかった早朝の時間を思い返す。
 確かその時点では、誰が役を引き継いだか、はっきりしていなかったように思う。
 そもそも、毎日適当に決定しているような節がある。前以て予定を立てておくほどの大事ではないのだろう。
 かといって、それほど重要でないかと言えば、そうではないらしい。
 午後のおやつといえば、子どもの一番の楽しみだ。
 学校の給食くらいには、人気があってもおかしくない。
「俺は、知りません」
 すみませんと、おのれの無知を詫びる。
 期待に応えられなかったことを素直に後悔した。
 ちえー、と残念そうに、首領パッチは細い指で音を鳴らした。唇の先を尖らせ、頬をわずかに膨らませる。不愉快であるのは、尋ねるまでもないだろう。
 そんな様子を眺め、こんなことなら自分でコパッチたちに聞いておけば良かったと悔やんだ。
 少しでも相手の意に副えるよう、努力しないで何が信奉者かと思う。
「でも、おやびんはどうして知らないんですか?」
 あらゆる情報が、組織の一番上である首領パッチの元に集まるものだと思っていた。
 まさか、ハジケ組の親分に隠し事をするようなことがあるとは夢にも思わなかったのだが。
「ん〜、大人の事情ってやつ?」
 嘯くように、腕を後頭部に回し、突き出した口元のまま答える。
 飄々としているというより、知らない素振りを演出しているような嘘臭さがあった。
「おやびん!!!」
 呼ばれた瞬間、げ、と首領パッチは歪な声音を漏らした。
 と同時に、目が大きく見開かれる。
 全身のトゲが真っ直ぐに伸び、十二方向へ向かって直立する。それだけで、内心の緊張というか際どさが、見ている側にも窺えるようだった。
 振り向いた場所には、数十人のコパッチが集団で狭い廊下を占拠していた。
 仁王立ちして、自分たちの中で最も偉いはずの人物を見据える。
 そうじゃないでしょう、と、正面に立っていたコパッチが言った。
「おやびんにおやつ係が誰かを教えたら、全部食べられちゃうからです!!」
 要するに、昨日のような事態に陥るのだと。
 破天荒が予想した通り、あの物体はすべて首領パッチの胃袋に収められてしまったようだ。
 そういえば、昨夜から今朝まで、彼らの態度が妙によそよそしかったことを思い出す。
 要するにコパッチ全員で、首領パッチに対して無言の抗議を行っていたのだろう。勿論、勇敢なコパッチが、面と向かって親分を叱ったのだということは想像に難くない。
 叱られてしょんぼりするおやびんも、目の裏に苦もなく思い描けられるほど、破天荒にとっては身に馴染んだ光景だ。
「おやびん……」
 そこまで際限なく摂取してしまったのかと、わずかな非難を込めた視線を送る。
 腹八分目がわからなかったのならともかく、単に惰性で食べ続けていたのは気のせいではあるまい。
 なるほど、だから首領パッチには秘密なのかと、ようやく合点することができた。
「しょーがねえだろっ!!!」
 この手が、この手が悪いんだと、先ほどまで硬直していた右手を持ち上げ、頭上で何度もぷらぷらさせる。
 責任を他へ転嫁しようとする様は、見苦しいというより、はっきり言ってただの我がままな子どもだった。
 おやびん…と、もう一度破天荒は心の中で呟いた。
 寒い心地が、心中を埋め尽くす。
「だって、だって…!!!」
 ついには瞳を潤ませて、首領パッチは滝のような涙を溢れさせた。
 だっても糞もないのだと、ハジケ組の全員が思ったというのは言わずもがな。
「とにかく今日のおやつは、おやびんだけ抜きです!!」
 食べては駄目だと言い切り、コパッチたちは情容赦なく背を向けた。
 誰も、可哀想だと口を挟んでくる者はいない。
 少しだけ憐れむような瞳でこちらを見ていたコパッチもいたが、行こう行こうと他のコパッチに促されて、一緒にどこかへ消えてしまった。
 残されたのは、台所で仕事をしていた破天荒と、床に両手を付いて項垂れる本日おやつ抜きと宣言された、組の大親分。
 どの辺が『大』なのかは、今の時点では大いなる謎だった。
 相手を崇め奉る破天荒とて、そうとしか言い様がないほど。
 しかし、コパッチたちが去って数分経っても、がっくりと地面に手を付いた首領パッチは一向に起き上がる気配がない。
 そこまでショックが大きかったのかと、流石に気になり始める。
 いつまでもそこにいられては、今度は掃除ができないというのは破天荒個人の事情だが、たかが間食であるとはいえ、やはり楽しみにしていたのだろう。なし、と言われて、立ち直れないほどの衝撃を受けるとは。
 今、彼を慰められるのは自分しかいないのだと、男は一人、大志に目覚めた。
 そして、好感度アップのチャンスだと無意識に拳を握る。
 ならば、やるしかないと決心し、伸ばしていた足をもう一度折った。
 跪き、顔を近づける。
 怪しまれないよう、不自然でない仕草で唇を寄せた。
「もし、良かったら」
 おやびんさえ良ければと、言葉を添える。
「俺の分のおやつを、おやびんにあげますよ」
 どうせいつも、誰かに譲るか、捨てるしかないような代物だ。
 芥と一緒に廃棄していると教えたら、ご飯大事な首領パッチにどつき倒されても無理はなかった。真実を話すことはなかったが、語尾を言い終えるや否や、がばりとその顔が持ち上がった。
 跳ね起きたと表するに相応しい速度で起き上がった顔面が、寄せていた鼻先にぶつからなかったのは幸いした。
 この場合、痛くても接触があった方が幸運だったかもしれない。
 手でも額でも鼻っ面でも、首領パッチの体温を感じられる機会はそうあるものではないからだ。
 しかし、本日は大盤振る舞いとばかりに、小さな面積が両の上腕を掴んだ。
 しがみついただけだったかもしれないが、捕らえられ、身動きができなくなる。拘束するほどの力強さはないが、見張られていることに意識が眼前へ集中した。
 反射的に放り出された腕で相手の丸い身体を抱きしめたかったが、それではただの変態だろうと諦め、この場は掴まれるだけで我慢した。
 もしかしたら抱擁など、永久に不可能であるかもしれない。
「本当にか!?」
 マジかと問われ、片言ながらも、マジです、と答えた。
 疚しい気持ちがあったとしても、本気で自分には要らないものだったからだ。
 小食というわけではないが、必要な時に必要な分だけ摂取していれば他は余計だとしか思わない。
 肉体も脳もそれらを必要だと認めないのであれば、文字通り余分なものでしかない。
 だから、首領パッチに譲ることは、無茶な遠慮でも理屈でもなかった。
 途端に、青い双眸が波を打ったように、大量の水分で潤った。
 無数の星を敷き詰めたように、まん丸の瞳を輝かせる。
 どうやら感涙しているらしかったが、破天荒はそれとは別のことを考えていた。
 もしかしたら、これを条件に、色々といかがわしい行為を頼み込めるかもしれない。
 最初は、軽く手を握るだけとか。眉に付いた埃を払う振りをして、瞼に触らせてもらうとか。
 レベルが上がれば、あの立派なトゲに直接触れさせてもらえるかもしれない。
 あわよくば、その唇に接触することすら夢ではないと。
 むらむらと、迸るような情欲が湧き上がる。
 鼻息が荒くなって、首領パッチにうるさいと言われないよう、必死に自身の荒れ狂う本性を押し隠した。
「……な」
「は?」
 内面に気が向いていたため、言われた事柄を聞き逃してしまったようだ。
 慌てて聞き返すと、首領パッチは耳打ちするように小さく漏らした。
「こいつは、俺とおまえだけの秘密だからな」
 以後も、おまえのおやつは俺のものだと。
 いつの間にか、未来まで契約が延長されていたらしい。
 それでも、全然構わなかった。
 むしろ、破天荒にとっては、願ったり叶ったりの展開だ。
 このまま、ずっと、というのは。
「はい、秘密です」
 俺と、おやびんの。
 その一言だけで、天にも昇る心地になった。
 実際、こんな所で昇天しては、目的も野望もあったものではないが。
 へへ、とはにかむように鼻の下を人差し指で擦る。
 首領パッチの動作一つ一つが、惑乱の種だ。
 それを視界に収め、にっこりと微笑み返す。
 作り物の如き他人行儀な笑みだったはずが、首領パッチにだけは真実を向けることができる。いや、それ以上のものを注ぐことが可能だった。

 あんこあんこあんこを食べると。
 空を見上げて口ずさむ。
 立ち昇る歌は、爽快な思いとともに、濁りきった欲望をも蘇らせた。

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