■ Beyblade ■
長話 ■

「あ、あれは聖獣なのですか!?」
 驚きのあまり、髪の上に乗せられた肉厚のレンズがかたかたと音を立てる。見上げた光景は、まさに平凡な生活を生きる者にとって信じられないものを見るような心地であったろう。
 上空に浮かんでいる少年の五体。乗っているのは、鳥でも飛行機でもない。真っ白な四足の獣だ。尾を引いているように透明な筋が地上から伸びている。それは軌跡であり、虹が目の前で掻き消えてゆく時のような筋が白狼の後足から伸びていた。
 かけるべき言葉すら失い、眩しい青が輝く上空を睨みつけるように見上げる。まずいところにやって来たと、そう思考したのは何の根拠があってのことなのか。
「ユーリ」
 辛うじて名を口にすることで、乾いた唾を嚥下する。明らかに動揺を殺したような反応に、機嫌良く白色に近い青が弧を描いた。
 会えて嬉しいと。声に出せばそんな台詞が漏れてきそうだ。数日前別れたときには決して見ることのなかった動き。表情が、今は顔面にある。製図を引き直したかのように、氷の人形に笑みが宿っている。本当にこれが既知の友なのかと反射的に疑念が頭を擡げる。しかし、両足で跨ぎ、従えているのはまさに彼の同胞と呼ぶべきウルボーグだ。紛う事なき氷神の陰影。姿。それが主人と仰ぐ者は、やはり自身が知る存在以外にはあり得なかった。
 嘲笑に歪んだまま血の色の薄い唇を開け、天空に端座する人影は声を発した。
「どうやら華国の聖獣使いは、すべてここに揃い踏みしているようだな」
 ぐるりと眼下を見渡し、皮肉に眼を細める。まんまと罠にかかったと言わんばかりの仕草は、どこかあの男を髣髴とさせる。ぞっと、背筋が粟立つのを感じずにはいられなかった。
「ご苦労だったな、カイ」
 苦労だと?
 咄嗟に反論が喉から噴き出しそうになり、拳を握ることで押し留めた。これは本当に自分の知るユーリかという疑問が、まだ思考の隅で燻っている。違いないと、すでに答が出ているものに対して、いつまでも懐疑が晴れないのは何の要因に因るものなのか。それとも、わずかの間とはいえこの村で過ごしてしまったために、甘過ぎる奴らの性質に馴らされ、兵士としての自我を忘却してしまったのだろうか。判断が鈍ったのかと自らを危ぶみ、すぐに懸念を打ち消した。なぜなら、本当に信頼できるのは、自身を除いては絶対にあり得なかったからだ。
「いつまで、そうしているつもりだ」
 自分より頭上に立つなと言わんばかりに、掠れたような声音を発す。するとようやく、馴染み深い相手との再会の場面にはそぐわないことに気づいたのか、ゆっくりと高度を下げ、赤毛の少年は軽快な靴音とともに地面に降り立った。改めて声をかけるべき同胞に向き直り、久し振りだと微笑した。薄っぺらい、文字通り薄氷の如き感動。しかし、そこに薄暗い野心が潜んでいることを見逃すような凡才ではなかった。
 が、ここでそのことを論議する必要はない。敵はむしろ向こうだからだ。一向にその場から動くこともできず、影を杭で打ちつけられたまま硬直している哀れな聖獣使いども。いや、平和的と言えば相当なのか。無能という意味で、それらは憐れな生贄だった。
「そ、それは、本当に聖獣なのですか!?」
 指一本動かすことができないほどの衝撃を受けたはずだというのに、口が動いてしまうのは研究者を自負する所以か。
 何を言っているのかと、ユーリが顎を傾ける。それに呼応するように片言の言語で意を伝えれば、酷薄な笑みが唇に浮かんだ。
「奴らは、使い方を知らんのか」
 気の毒だと言わんばかりの同情をかすかに滲ませ、母国の言葉を吐く。実際、彼の言う通り、力の具現と捉えられなくもないそれを所有しながら、使役する方法を誰からも教わることがなかったのは幸か不幸か。
 『力』イコール『兵器』としての思考。もしくは信仰がなければ、ただの秘密として存在を世界に認識されることなく終わることもあり得るのだろう。過小評価であるかもしれないが、それこそが少年たちにとって最も幸運な境遇だったと言えなくもない。少なくとも幼少のうちから肉親から離され、身を削ぎ落とすのと同じような苦痛を、日々の鍛錬と称して強要されなかったのは幸福と言えるだろう。各国から掻き集められた大勢の孤児たちの中に放り出され、数値で設定した成果に届かなければ打ち捨てられるような地獄を味わわずに済んだのは、取り巻く環境が彼らに味方してくれたからだ。親や、国家。恵まれた条件が。
 しかし、その幸運が決定的な力の差を生んだ。
 余計な能力を削ぎ、卓越した技能にだけ強力であることを身に積まされてきた者と、平凡な人間と変わらず安穏とした毎日を過ごしてきた者とでは、戦い方という基本的なレベルですら同等ではない。まさに、凡人と訓練された兵士ほどの違いがあった。
「残念だが、おまえたちの力はすべてボーグのものとなる」
 単調だが威圧を秘めた発言に、びくりと少年たちの肩が振れる。
 緊迫感から逃れるように言葉を発していたキョウジュすら、その場から後ずさろうとする。捕らえられる寸前の獲物であるという見解は、聖獣使いでなくとも肌で察すことができたのだろう。
 まるで助けを請うように、震える眼差しが視線を寄越す。しかしそれは一対だけで、他の二対の双眸は怒りに燃え上がっていた。わずかに伏せていた顔を上げ、凄むように睨みを利かせる。
「……おまえらが、やったのか」
 日本人であろう帽子の少年から吐き出された台詞に、ぴくりと朱い眉根が動く。反応したのは自分だけで、どうやらユーリに思い当たる節はないらしい。あるいは、前以て予想できたのか。
 そういえば、先も似たようなことを言われたはずだ。マイケルとかいう米国人らしい名称とともに、自分が犯人かと問い質された。取り立てて興味を引く話題ではないと思ったが、もしかしたら、との思念が蘇った。
 ユーリ、と無意識に名を呟く。
 傍らで斜めに身を傾けたまま、相手と対峙する同僚を呼ぶ。低い声を放ったのは、部外者に会話を拾われたくないためだけではなかった。
「貴様、何のためにここに来た?」
 この山奥での仕事は、自分が任された任務であるはずだ。独力で遂行するのだということは、山の麓の村まで連れて来られた車中で嫌というほど聞かされていた。にも関わらず、助勢を寄越したというのか。目には目を。聖獣使いには聖獣使いをという大儀を掲げて。
 自分の力量で場を治められないと判断されたのであれば、屈辱以外の何ものでもない。多勢に無勢であったとしても、訓練を受けていない奴らに後れを取るとでも思われたのか。確かに連戦を続ければいずれは体力を消耗し、形勢が逆転することもあり得るかもしれないが、それも一度の戦闘で片付けてしまえば容易に決着がつく。力の使い方すら知らないような素人相手であれば、まさに大人と子どもの喧嘩に等しい。逆転されるなどということが想定されるはずもない。
 何を考えていやがると、腹の底から怒気が募っていく。自らに直接指令を出した張本人の顔を脳裏に思い浮かべ、ひそめた眉間の裏で苦虫を噛み潰した。
 しかし、一方でユーリを助けに寄越してくれたことには感謝する部分もある。釈然としないが、二人で事に当たった方が目的の達成に余計な手間をかけることはないだろう。自分以上に強力で、任務を遂行することに余談を許さないユーリがいれば、道草を食う暇すらないだろう。
 まさか、僻地へ飛ばされて、現地の集団と馴れ合い、爪を折られて帰って来るとでも侮られたのか。
 面白くもない冗談だと鼻で笑いながら、もう一つの思考でどうすべきかを考えた。
 任務は、聖獣を狩ることだ。
 どうやら、標的となる奴らはここにいる三人。一匹は、自分たちとはまた異なる種別かもしれないが、聖獣の力を持っている。それとも、奴自身が『それ』なのか。まだ判別はつけ兼ねたが、ユーリが敵と判断したのは、間違いなく地面に伏している長髪の男を含めた三体。分厚い眼鏡を被った少年は、態度からも一般人との判別を受けたことだろう。確かに、この緊迫した場面で堂々と地面に立っていられるのは、並大抵の精神を持った人間でなくては分不相応というものだ。
 一体はすでに自身の手で蹴りをつけたのだから、お互い二対二。力の均衡は保たれている。ゆえに、敗北などということは決してあり得なかった。
 いつまでもこうして睨み合っているだけでは時間が勿体無いと一歩足を前に踏み出すと、動きを制すように白魚のような手が持ち上がった。軽く、肩の位置で止まり、すぐに下ろされる。
 一人で充分だと、顔をあちらに向けたまま男は言った。正確には、『あれ』一つで充分過ぎるほどだと言いたいのだろう。
「絶対に、許さねえぞ…」
 ひどくしわがれたような声が、歯を食い縛って怒りを漲らせた全身から漏れる。呼応するように横脇で突っ立ったままの金髪の少年が無言で頷いた。言葉を発することすら怒気に拍車をかけるだけで、爆発寸前の力を押し留めることに神経を集中させているのだろう。意気込みは、充分過ぎるほどある。
 だが、実力は。
「一対一は面倒だ。まとめて来い」
 横柄な態度でそう宣言すると、返答を待たず、ユーリは先ほどと反対の手を上げた。手の甲を上にしたまま前方に差し伸べ、行けと命を下す。
 下されると同時に、低温の白い矢が足元をすり抜けた。

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