■ Beyblade ■

雑文 ■

「カイ、能く聞いてくれ」
 眼前にドアップで虎の顔がある。近視というわけでもない健康的な視力には、至近距離ははっきり言って迷惑以外の何者でもない。わかっているのか、この男。というか、絶対わかっていないだろうことは火を見るよりも明らかっぽかった。
「…なんだ」
 とりあえず先を促す。風呂上りの清清しい気分を満喫しながらソファに腰掛けていたというのに、コイツは一体何のつもりなのか。膝に前足をくっつけて突き出してきた面を、胡乱そうな目つきで睨む。双眉ぴくぴく。辛うじて感情が暴発するのを防いでいるのを悟られまいと、理性を総動員して現状維持に努めた。
 大きな鼻から漏れるふんふんという鼻息に前髪を呷られながら、とりあえず言い分を聞くだけ聞いてやることにした。
「今日は棚ぼたの日だそうだな!!」
「七夕だ」
 ボケなのか本気なのか見当のつかない誤謬を、突き放したような口調で訂正してやる。
 調子、普段通り。今がいきなり冷たくなったというわけではない。というより、朗らか且つ優しい佇まいで他人を相手にした経験は、生まれてこの方一度もない。だからこれが地というべき自身の持ち物だった。特に虎が気に入らなくてこうした態度を取っているわけではない。暑いからあまり側に寄るなとか思っているからというわけでもないはずだった。
「ああ、すまん。で、その七夕の由来というものを、タカオのおじいさんから教えてもらったんだが…」
 確か、伝説の起源は中国の神話か何かだったと思うが。
 その意味で言えば、そちらの方こそ知識が深いのではないのかと、すかさず思う。
「話によると、好き合った者同士が『めちゃ嫉妬されて離れ離れになった』というじゃないか!」
 鉤括弧の部分は、恐らく聞いたままをそのまま口にしただけだろう。でなければ中国四千年の虎が器用な日本的表現(一部誤解あり)など使いこなせるわけがない。
 一息で言い切り、きりっと真摯な眼差しが眉間を射抜いた。
「カイは、どう思う!?」
 突然吹っかけてきて、どうもこうもあるというのか。
「勝手だろう」
 当事者ではないのだから、他人の自由だと突っぱねる。大体、伝説に対して感想を聞き出そうということ自体が迷惑だ。現実のものでないのなら、我が身に当てはめてみろと言われても、無関係の一言で終わる。
「だって、好き合っているんだぞ!?」
 虎の方は必死の形相だ。言わんとすることが飲み込めず、ますます鋭い亀裂が額に刻まれてゆく。
「上司か上官かは知らないが、例えどんなに偉くとも、悋気で愛し合う者同士を引き裂いて良いわけはないだろう!!」
 貴様が引き裂かれたわけじゃないだろう。
 思わずツッコミかけて押し留まる。瞼を半開きにし、心の底から熱意溢れる相手へ冷風を送った。
 虎の考えることは、心底わからんと蔑視を乗せて。
「その偉そうな奴を嫉妬させるほど、そいつらが仲良くし過ぎただけじゃないのか?」
 度を越せば我が身に災厄が降りかかるということを諭しているのではないのか、と逆手に取ってやる。本心は、迷惑を被っている今のこの状態から早々に退避したいという一心に過ぎない。
 とにかく白くてもこもこの巨体が暑苦しい。当人は毛皮を着ているだけで実感はないかもしれないが、余人に与える不快感というものを少しは考えたらどうだと心の底から思う。けれど、虎の耳に忠告なので、今更ガミガミと言い募る気は毛頭ない。
「そうか。つまり彼らは人目も憚らず『朝為行雲暮為行雨』をしてしまったというわけか!」
 それなら怒りもするだろう、となぜかうんうんと縞の入った顔面が上下を往復する。唐突に上げ連ねただけの自分の解釈で、物凄く納得したらしいということは、わけのわからない単語を並べられても理解することができた。実際はピン音で発音されたので、示している内容は判断しかねたが。
「俺たちも少し慎まなければ、謂れのない妬みを受けることになるということだな!」
 慎む?何を。
 漠然と嫌な予感が背筋を通って脳裏に浮かび、思わず背もたれから身を持ち上げた。
「あまり仲が睦まじいからといって、朝も夜も戯れてはいけないということだ!!」
 その一言に、かっと全身が熱くなった。
「誰が戯れているッ!!!!!」
 虎面直撃顔の中央部。
 ゆであがったばかりの白い生足が、がつんと大虎の頭を膝の上から跳ね除けた。ソファの上からその巨体が消えたと思われた瞬間、真っ黒な髪を後ろで束ねた人影が少しだけ赤くなった鼻の頭を撫でながら尻餅をついた。
「いきなり何をする」
 半分涙目になりながら凄まれたところで、端から意には介さない。
「貴様が馬鹿げたことを言うからだッ!」
 嫉妬されるほど睦まじいのが誰と誰だと。
 気をつけるという以前に、そんな関係に誰がなっているかと。
 怒髪天突く勢いで猛烈な怒りが込み上げ、握った拳に力を込めた。なのに飄々としたまま、先ほどまで虎の姿であった相手は相好を崩さない。むしろ生真面目な風貌でさらりと内心を言って退ける。
「俺とカイがだ」
 溢れんばかりの自信を抱えての発言なのだろう。すっぱりと言い切った様は、敵(?)ながら威風に満ち溢れていた。言い過ぎかもしれなかったが、頭部から後光が差しているようにも見えなくはなかった。
 が、それはそれ。
「風呂場でその脳味噌を一遍洗って来いッ!!!!!」
 がいん、とアッパーカット。クリーンヒット。
 元虎は脱衣所まで綺麗な弧を描いて飛んで行った。
 後に残された帝王は、雲とか雨とかの真実に気づきたくなかったとソファに片手をついたまま項垂れて。
 そして遠くから、犬の遠吠えのように頭の中は洗えないぞという文句が風に乗って聞こえてきたのを、完全に耳は無視した。

 果たして、風呂嫌いの虎が無事入浴を済ませたかどうかは大いなる謎だった。

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