空の民草の民
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寝台の上は眠るところ。 その認識は間違ったものではないが、それらの常識というものが非常に厄介なものになりつつある、とカミューは最近痛感していた。何を隠そう、相棒、もとい恋人のマイクロトフだ。 元マチルダ青騎士団長である青年が、故郷であるカマロ自由騎士団領へ帰った親友を追い、ここへやって来てからかれこれ1ヶ月になる。 初めは正直、顔も見たくなかった。表面上はどう取り繕おうが、会いたくなかったというのが率直な意見だった。なぜなら、自分は『敗者』でしかないと認識していたからだ。尤も、それを認めた時点で実際負け犬になったも同然だったのだろうが。 いやいやながら、長い道のりを経て『親友』に会いに来た珍客を持てなし、終には愛想を保てなくなって殴り合いの喧嘩にまで発展した。良い歳をしてと思うかもしれないが、対等でありたい者を相手にすれば、そんな体面などというものは一瞬で吹き飛んでしまうのだ。 そうこうしているうちに、マイクロトフの決意、というか誓いを聞かされ、晴れて相愛になったのだったが。 つまり、その滞在30日のうちの約8割の時間を、恋人という枠に収まってから過ごしているわけである。決して長過ぎる期間ではないが、短過ぎるというわけでもない。 カミューが頭を悩ませているのは、当のマイクロトフが寝台に上がっていざ、という時に、必ず眠りに落ちてしまうことだ。 ここで、どういった状況が『いざ』なのかは問わないでもらいたい。良識ある淑女であれば、頬を染めながらもおおよその見当はつくだろう。要は、男同士に使うのは稀有だったが、夜の営みのこと。 そして寝息を立て始めた後は、触ろうがつねろうが、それこそ愛撫をしようともスイッチが切れたように何の反応も示さないまま、朝までずっと起きないのだ。 無論、その頭の痛い事実は何度も本人に指摘している。皮肉を込めるなどという酔狂な真似も出来ず、淡々と責めると、その分だけ最初は萎縮するものの、最後は居直られて撥ね退けるといった始末だ。これには、ほとほと参ってしまった。 ただ、その癖のようなものは本人の意思でどうにかなるレベルの代物ではないらしい。身体に沁みついた習性というか、とにかく頭に枕が添えられた時点で、脳の視床下部がリラックス信号を発し、安眠の世界へと誘うようだ。 二人でいられるから安心なのだろう、とも思えなくもないのだが、恐らく誰といたとしても布団を背にした瞬間、気を失うように心地良い眠りに誘われるのだろう。そして、朝まできっちり眠っていられるというのも、体力のある若い証拠だ。ただ、体力があるのなら、もっと別のところで使ってほしいと思う。いや、それこそが正論だろう。 そうして昼間から、何度もため息を頭の中で繰り返しているのだが、当然外に見せるようなヘマはしていない。ポーカーフェイスが常態である者にとって、正直に心根を面に出すようなことは至難だ。出したところで他人の同情が得たいというわけでもない。心配されるくらいなら、自分から持ちかける。 事実、カミューはそうした。 「おまえはどう思う、マイクロトフ」 尋ねられた側は、少年たちの剣術指南から解放されて、ようやく一息ついたところだった。光る汗を丁寧にタオルで拭いつつ、一瞬目をぱちくりさせると途端に声音を落とした。 「昼日中にする話ではないな」 「夜の夜中に出来る話でもないよ」 健全な優良男子であるマイクロトフにとっては、陽が落ちると同時に体が就寝状態までカウントダウンを始めるようなものだ。 間髪入れないしっぺ返しに、反論の余地がなかったのか、そのまま、む、と口を噤む。若干罪の意識を感じてくれていたらしいことに、カミューは心中安堵した。 どうやらマイクロトフの中で自分という存在は、言葉だけの恋人同士という認識ではなかったらしい。これで今まで通り親友と変わらぬ態度を取られていたら、頭を抱えるどころか、三行半を叩きつけるところだ。尤も、叩きつけるのはマイクロトフの側というのが相応しいのかもしれないが。 ともあれ、このままでは本当に婚約前の恋人同士だ。男同士で婚姻がなされない上は、身体を結びつけることこそが最上とも言える。本来はもっと精神的なこととも考えるのだが、心の方はこれ以上はないほど互いを認め、わかり合っている。であれば、本末転倒も甚だしいことだが、カミューが向きになるのも無理はないことだったかもしれない。 精神が硬く結び合わさっているからといって、肉体関係が不要であるならば、『親友』のままだ。友愛だけならば、肉欲は不必要であるし、欲求も抱かない。今まで意識しないでいられたのは、騙し騙し付き合い続けていられたからだ。そして、これでいい、と半ば諦めにも似た心地が自身の大半を占めていた。事勿れで済むのだとしたら、わざわざ波風を立てる必要性はない、と。割り切っていた、というより、諦観だったのだろう。そして互いに、私事でぶつかり合える時間がなかったのだとも。 普通、忙しければ忙しいほど、少ない空間に追いやられた欲望を理性は強烈に自覚するというが、この場合は違ったらしい。それほど、居心地が良かったと言えなくもない。マイクロトフが側にいて、彼が懸念することなく安心して微笑っていられることが。ではなぜ今になって、という疑問がなくはなかったが、要は男の妙なこだわりなのだろう。 強烈に意識し始めたのはデュナン統一戦争のあとだ。それからは坂を石が転がり落ちるが如く。わが身に巣食う邪念が育ち、持て余していることを隠すことが大儀になった。 納得ずくとはいえ、欲望を押し隠していた者に、今更お預けをされるのだとしたら、それはあんまりな振る舞いだ。 性欲を抜きにしても、これからも寸分たがわぬ付き合いができるのであれば、マチルダを出るとき挑発めいたことを仕掛けたりはしない。結果的にマイクロトフは乗ってくれたが、これも確信があってのことではなかった。 だからこそ、会いたくはないと思っていたし、領内でその名前を耳にしたときは心底神の名を呟きたくなった。ついでに言えば、当然意を決してであろうマイクロトフの決意というものを、真正面から受け止めたくはなかったのかもしれない。その自信がとうに磨り減っていたことを、理性がどこかで知覚していたのかもしれない。 そうして、色々あって、数週間のうちに急速に思いが身近になった。まさに人生の急転直下だった。 黙したまま、年月がさらに磨きをかけたような端正な顔を眺めつつ、カミューは再度問うた。 「私はこのことに関して、努力すべきだと思うよ」 誰が、というのは明白だ。名指しされたわけではなかったが、マイクロトフは見えないよう小さく唇を噛み締めた。 「それは、俺も痛感していたことだ」 幾分ぎこちなく、ではあるが、自身の思いを吐露する。 予期しなかった答えに、カミューは目を丸くした。マチルダとカマロという果てしない距離が、互いを隔てていた間に一皮剥けた、というか、歳相応の分別をわきまえるようになったらしい。というのは、もちろんカミューだけが思っていたことだったが。 「善処したいという心意気や良しとしても、だったら具体的にどうしようか」 言ったついでに、ふうむ、と指先で自身のおとがいを支える。そこを軸に頭をひねり回すようにして思考を巡らせ、思い当たったのは我ながらどうかと思える妙案。 「ベッドの上以外でするしかない、か」 提案した瞬間、殴られなかったのは奇跡と言えた。相方の強烈なツッコミがなかったことを頭の隅でなんとなく釈然としないまま、真顔で悩みぬいている表情を捉え、さらに目を丸くする。満月がなんだ、というくらいの真円だ。次に出てきたマイクロトフの台詞に、今度は柳眉までもが重力を無視して上空へ持ちあがった。 「そのことは、俺も考えた」 どこか、わなわなと。自分の本来の理性と葛藤を繰り返すように、一語一語震える唇から繰り出す様は、同情すら呼び起こされる。まさか、天下の輝ける(マチルダの)模範的騎士とまで(勝手に)謳われた男が、こんなところで道を踏み外すような行為を容認しなければならなくなるとは。 すでに、色んな意味で常道を外れている、とは長年の付き合いである相棒には口が裂けても言えない。言ったら、絶対ダンスニーを取りに故郷へ帰る。断言する。もしかしたら、それで自害を試みるかもしれない。無論止める気はあるが、マイクロトフの心中を察するなら好きにさせてやるのが人情かもしれない、とも思う。一瞬の現実と理想のせめぎ合いではあったが。 「本当におまえが嫌ではないなら、私は良い方法だと思うよ」 そうか、とマイクロトフは、力ないんだか無理に力んでいるのだかわからない口調で端的にそう答えた。とりあえず、真面目に取り組んでくれていることはわかった。それだけでしつこくこの話を持ちかけていた甲斐があったというもの。 だが、収穫があったことを素直に喜んでそこで手を引けば、元の木阿弥だ。事の進展というものを放棄したも同然。それだけは、同じ轍を踏まない主義であるカミューには耐えられない事柄であった。だから、その努力を称えつつ、考動を求める。 「その姿勢は、とても嬉しいよ。マイクロトフ」 「当然のことだからな」 聞くことがないだろうと思われていた相手からものすごいことを連続して聞かされ、自分の耳の中が痒いのは錯覚ではないだろう。相手が余程真剣なのだろうな、と思いつつ、ただ、と告ぐ。 「心構えがあるのなら、早速今からでも、という意思はあるか?」 一瞬の間が降り、ぎこちなく頭が下がったのがわかった。 動作が遅過ぎて、それは単に硬直しただけのようにも見えなくもなかった。 二人が連れ立って歩き、辿りついたのはマイクロトフがここであてがわれている客室。どちらの部屋でも良いとカミューは提案したのだが、どうせなら後片付けは自分でやる、という、あまり意味のないことを根拠に、マイクロトフが部屋の権利を手に入れた。この場合、どちらが、という区別は必要ないものであったかもしれないが。 部屋に入るなり、深呼吸をして扉に持たれる。 気合が入っているのか投げやりなのかが判断に迷うところだったが、午後の予定を断ってまで目的実行のために尽力してくれたことを素直に相手に感謝した。 「まだ、早すぎただろうか」 ちらりと窓の外を眺め、マイクロトフが気遣わしげに呟く。 「そうかもしれないけれど、夕食前には終わらせたいからね」 義務ではなかったが、暮れの食事だけはカミューは彼の家族と摂っていた。一家揃って食卓を囲むのはカマロでは珍しくないことであり、マイクロトフとて実家にいたときはここと変わりない風習で育っている。 改めてこの状況に納得し、相手を振り返る。挑むような目付きがなんとなく戦いに赴くときと似ているような気がして、思わずカミューは失笑した。 普段から淡く口元に笑みを乗せることを習慣づけてはいたが、それが剥がれ落ちるほどの硬くなさだ。どうどう、と思わず両手で態度を宥めようとする。すると案の定、ふざけているのか、と激が飛んだ。 「お互い、おふざけはやめにしようか」 軽く肩を竦めると、なんとか平静を保つことに成功したらしいマイクロトフの側へ距離を詰めた。 背後はドアだ。運悪くすれば、音が外に洩れるかもしれない。だがそれがわかっても、今更言葉をかわすのも億劫だった。 近寄り、手に触れる。いつものように指先で弄んだあと、そっと口元まで持ち上げる。先の動作がわかりきっているマイクロトフは、別段驚きもせず成り行きを見守った。 カミューが掌を捉え節くれ立った無骨な指に口付けるのは、敬愛の念と陳謝を込めている。つまり、ご機嫌取りによく多用される手管であり、親友を揶揄して怒らせたあと必ずと言って良いほど甘えるように繰り返す。 自分の趣味に合う読めるような本がなく、手持ち無沙汰なときも他人の指で戯れるので、単なる暇つぶしの格好の的なだけだったのかもしれない。 行為の多くはマイクロトフの利き手が受けてきた。その馴染みは、今はもう存在しない。そのことを、カミューがどう感じているのか、マイクロトフには知る由もなかった。 小さな音を立て、唇が指先から離れる。微笑を湛えたまま、秀麗な美貌が近付く。同じ男で美醜がわかるのは、カミューの表情の調和がとても人に対して優しいということだ。ただ優れたパーツが顔面に揃っているだけであれば、美しい、とは言うまい。人が自分のものとして、目だったり鼻だったりを備えているからこそ、くしゃりと笑ったときに独特の『和』が生まれる。人の顔の造形の完成である表情というものに違和感を感じるのであれば、見目麗しいという評価には値しない。モノをいうのは最終的に人格だ、という話だ。 そして、カミューはそれを能く使いこなしている。どこで、どんな状況で使えば効果的なのかということを熟知している。だから、もしマイクロトフがもう少し愛想が良ければ、カミューに何ら遜色のない美男子として持てはやされただろう、とかっての同僚がぼやいていたのだろう。はっきり言って、余計なお世話だったが。 自然と口腔を塞がれ、空気がわずかに濡れた音を立てる。少しだけマイクロトフは膝の力を抜き、背の高さを合わせる。身長はどちらも変わらなかったが、若干黒髪の青年の方が丈がある。そんなことは気にもしていないようだが、より具合の良い感触を得るために、無意識に高さを調節するようになっていた。 しばらく口内で相手の熱を確かめたあと、濡れた舌で唇を濡らす。その間もマイクロトフの口は開かれ、熱い吐息を放っている。形をなぞっては塞ぎ、絡め取ってから、また表面を弄る。変幻自在に動き回り、からかうように愛撫を重ねる。 頭の隅で互いに思うのは、こんなに耽溺していながら今までどうしてこれ以上の行為が重大ではないと流して来れたのだろうということ。執拗な接吻と抱擁と鼻先で肌の上をくすぐり合う戯れ合いを、至上のものだとでも思っていたのだろうか。確かに不必要なものではなかったが、もっと、と先を欲求する声は、いつでも耳に聞こえていたはずだ。 なのに、今まで及べなかったのは。 屹然と、マイクロトフの中で何かが固まった。 決意というか、決心というか。 腹を据えた瞳で、いきなり中断された戯れを不審に思っているらしい相手を真正面から見詰めた。 「俺は大丈夫だ、カミュー」 一体全体何を言い出しているのか。問い掛ける隙もなく、張りのある美声が飛んだ。 「俺を信じろ!」 力強い声でそう断言され、カミューは掴まれた腕を引っ張られる形で、マイクロトフの寝台へと辿りついた。白いシーツが整えられたそこと、わずかに血色の良くなった相手の顔を見比べ、真意を再度問い質す。 信じろというなら、絶対の信頼を寄せよう。これまでも、これからも。恐らくマイクロトフの言葉のあとには、偽りはない。 そして、先ほどの余裕のない表情から一転して、静かな落ちつきを得た風貌にその台詞の確信を強くする。 それに関してまったく説明のない行動だったが、長年の付き合いから『親友』の性癖は承知している。 「信じるよ、マイクロトフ」 目をわずかに細め、く、と口端を持ち上げる。下心のありそうな不敵な笑みだったが、紛れもない”真実”であることは言われた相手が理解している。 カミューがよく知る黒い宝石の持ち主は、大きく頷き。 そして破顔した。 |
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