空の民草の民
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鍛え上げられ、引き締まった腹筋を辿る。 鼻先で触れ、唇を落とす。急きたてるような欲求が背中から襲いかかってくるというのに、自ら本能を裏切るように緩慢な動作で軌道を巡る。実際、勿体のない行為だった。もし性急に本懐を遂げることだけを目的としていたならば、絶対に不可能な真似だった。繋げる前の、相手に施す愛撫の手は自分自身にとっても執拗なものだと自覚する。それほど、求めていたし、部分だけの充足ではなく、肌の上から全体を掌握したいとすら感じていた。 色素が薄く、赤みすらない皮膚。決して薄くはなく、硬さも備えている。男のそれだ。今まで手にしてきたいずれのものとも完全に違うものに触れているというのに、嫌悪は微塵も湧いて来はしなかった。それが尋常ではないという実感など、すでに慣れきったものだ。立ち昇るような心地良さに満足の笑みを心中湛えながら、カミューは長く目の前にかかる髪を鬱陶しげにかきあげた。 もう、何度目になるか知れない仕草。傍目にはそれが内心の焦りを表しているようでも、昂揚する心を落ちつかせているようにも映る。当人にさえ、どちらであるかなどわからないことだった。 苦笑したようにマイクロトフに指摘されるが、それも幾度目になるか、ついにはカミューは数えることを放棄した。忙しない心とともに、身体もざわめきを覚えており、そんな身の内でさざめく理不尽なものをいなすのが精一杯だったからだ。嬉しくもあり、釈然としない部分もある。尤も、後者は押し伏せられ身体を撫で回されているマイクロトフこそが感じているものであったろう。 指の下にした色彩には、ロックアックス特有の、裕福な家の子供が必ず一つは親から贈られるという伝統的な人形を思い出す。黄色ではないが、赤みでもない。だが、かといって純白ではない、人の温みが存在する白。アイボリーに近く、象牙のような温かみがある。普段は首から上以外、生身を見せることが滅多にないようなこちこちの軍服で身を包んでいるが、彼の表情に鋭利な刃物のような印象を与えることがないのは、この肌の色に起因するのだろう。 人見知りをするため、一見しただけでは感情の発露というものに乏しく、本当に兵隊(さん)らしい、とカミューの幼馴染みの一人に評されたものだ。確かに、突っ立っているだけならお飾りの人形に見えなくもなかっただろう。などとカミューが思っていることをマイクロトフが知れば、お互い様だと憤慨したかもしれない。見目良い意味の延長だと思えば悪い気はしないが、それでも本人は逞しい眉を吊り上げるだろう。まるで中身がないかのように持てはやされて良い気がするわけがない、と。 不意に浮かんだ苦笑を噛み潰そうと努めたが、どうにも愉快だという感情に対して、今は鍵がうまくかけられないらしい。こんな場面で相手を前に笑うことがどれほどの失礼に当たるかということを熟知していたが、目の前で服をはだけさせているのが勝手知ったる親友であった者だという認識が、容易くカミューに禁忌をおかさせた。せめて声だけは殺そうと必死になって肩を揺らせるだけに留めたことが、尚更マイクロトフの逆鱗に触れたようだ。 何なのだ、と声にして抗議することも出来ず、歯を食いしばったまま拳が飛んでくる。本気でないことは繰り出されたスピードでわかっていたことだったが、遠慮なく掌でかわし、退けたのとは逆の手で自身の顎を押さえる。笑いをこらえることで、恐らく見難く歪ませているだろう、顔の筋肉をほぐすためだ。それでもどうやら、いやらしげに目尻が下がる様だけはどうにもならなかったらしい。マイクロトフの顔面は、見る見るうちに真っ赤になった。怒りと羞恥と自身に対する憤りなのだろうな、と見当をつけ、宥めるように顔を寄せる。 許しを乞うように、ひとつ、口付けを落とす。 刻まれた溝が深くなった眉間に。 その簡単な行為だけで、マイクロトフは諦めたように感情を手放した。右往左往して本来の目的から遠退いていることを態度でカミューに示し、再び睨みつける。ふざけ合うだけならば、何も寝具の上でなくとも良いのだ。それは、カミュー自身にもわかっていることだ。ただ、紆余曲折を経てようやく本懐を遂げられるかと思うと、どうにももったいぶりたいという衝動が突き上げる。このまま、1分1秒でも長く、見つめていたいと。そして、それをわかっているからこそ、マイクロトフも強くは言わないのだろう。 同じ男の胸の下で、体勢に居心地の悪さを感じているのか、わずかに身じろぎする。徐々に上にずり上がるにつれ、下肢に居場所がなくなってきているのだろう。投げ出されていたはずの膝は折られ、間に割り込んだ体の脇で軽く立てられている。靴下をまだ脱いでいなかったので、感触の良いシーツに足を取られることも少なくない。その度に膝を立て直し、なんとか楽な姿勢を探求しているらしかった。確かに、同性を受け入れるのに負担にならない方法を知っている方が問題ではある。 上半身は肩から腕以外はすべてさらけ出されている。かすかに高まったような呼吸を繰り返す胸丘には、うっすらと汗が履かれている。カミューはと言えば、前をくつろげてはいたが今だに堅苦しい上衣を羽織ったままだ。思い立ったが吉日とばかりに、まだ日が沈みきらないうちから事に及ばんとしているのだから、互いに視界はかなり利く。今更相手の裸身から目をそむけるような恥じらいはなかったが、目的が明らかであれば若干の羞恥はあろう。表情の変化の一つでさえすぐに見咎められる状況で、普段の平静を装うのは至難の技だった。カミューでさえそう実感するのだから、元来感情を隠すことの少ないマイクロトフは、本当に一挙一動が目立つものだった。それに笑いを禁じられないのは、カミューでなくとも無理からぬことだ。 詫びる気持ちでもう一度唇を寄せれば、迎え撃った相手のそれとぶつかる。今度は深く、容赦なく奥を探った。 口を突き出し、溺れる人が空気を求めるように吸いついてくる。それほど巧みではないだろうことはある程度見越していたが、余裕がないのはこの状況が今までと全く異なった状況であるからかもしれない、とふと思った。なぜなら、自身の前戯も普段のように濃密に行えないのは、どこかで心身が緊張しているのだろうと察する。 実に、面白い、と思った。 自分が、相手が。 まさに予測できない先行きにかすかに不安を感じ、侭ならないなどと。どこかの自信家の自分に言ってやりたい。世の中にはまだまだ学ぶべきことがある、と。世界を統べた気になるのは、まだ早いのだと。 時間をかけて、ゆっくり上体に愛撫を加えつつ、相手の意思ですでにベルトを引きぬかれた下衣をくつろげる。それを合図に、今までずっと腕の服を掴んでいただけだった手が襟首に忍びこんできた。そこから肩の骨をなぞり、無骨で不器用な掌が甲で服の片方を落とした。 意を汲んで自身の上着をすべて取り払うと、少し満足したのか、マイクロトフはようやく微笑を見せた。硬く、無愛想な表情ばかりだったので、カミューは心底安堵した。 器用に指を着衣の下に滑りこませ、一度にすべてを脱がせられるよう細工する。同じ男の着用する服ならば、経験がないにしてもおおよその勘は働く。右手で相手の身体を支えつつ、一気に下履きをすべて引きぬいた。加えられた力で反射的に身じろぎするのを抱き寄せることで防ぎ、耳元に頬を寄せる。鼻先に髪の裾をじわりと濡らしていた汗の匂いを感じ、無意識に目を閉じた。朝露の薫りでも嗅ぐように、少しだけ力を込めて顔を摺り寄せる。 たった腕一本に身体の自由を戒められつつも、動きづらそうにマイクロトフは身を捩り、左手を伸ばした。相手の下衣も取り去ろうというのだろう。拙い動きでまさぐるのをからかうように自分の手をそこに添えれば、睨みつけるような視線が挑んできた。 やはりこみ上げる苦笑を抑えられず、口元だけに笑みを浮かべる。それでもなんとか邪魔者を排除して、マイクロトフは自分の思うようにカミューから服を脱がすことに成功した。片手では難しいことだったが、意図して手伝ったカミューの貢献もあり、どこかそのことに達成感を感じているようだった。 あとは、着ているのは自身の上衣だけ。そこでためらったのは、右腕の傷を晒すのを怖れてのことだろう。カミューはじっと待った。無理強いして衣服を引き剥がすのでも、脱がなくても良いと促すのでもなく。 決めるのは、マイクロトフ当人だ。この行為にどのような感慨を持って及んでいるか、そのことを改めて考えなければならない。もしそこに後ろめたさや悔恨が生じるのだとしたら、性急過ぎたとカミューは反省しなければならない。再会してから一月が経過していたとは言え、まだ、マイクロトフの傷を真正面から見たことはない。本人が隠す素振りをしていたことも、目の端に留めている。わざわざ見せてくれというものではなかったし、やはりそれを選ぶのは当人だとの見解があった。 思う相手のことは、いつでも尊重したいと思うし、現に今までそうしてきた。無論、これからも変わらないだろう。しかし、異論を唱えないということではない。間違っていると判断したときはそのことについて徹底的に言及するし、表立ってではないにせよ、糾弾することも辞さない。互いに重きを置けるということは、決して何事も見過ごさないということだ。良きにつけ悪しきにつけ、あらゆる醜悪すら飲みこんで対峙する。し続ける。努力を必要としない、絶対の権利だ。 わずかの逡巡ののち、マイクロトフは意を決したらしい。無造作に、ただ、若干動かしづらそうに隻腕を伸ばし、自らの衣服を剥ぐ。 ばさり、と鍛えられた肩の筋肉から重たいものが剥がれ落ちる。 そこにあるのは、アンバランスに主によって開け放たれた空間だった。本来、あるべき箇所に存在しない、ということは。途切れたように、線が辿る続きが喪失しているという事実。当然、予期していた悼みはあった。それでも、言葉にはしない。すでに傷痕と成り果てた、狂気によって奪われた利き腕。二の腕の辺りからぽっかりと虚無が拓け、眉をひそめずにはいられなかった。 同情でも、怒りでもないものがこみ上げる。どちらかといえば温度の高い悲しみのようなものだった。だが、マイクロトフに対して向けられたものではない。惜しい、と思っている自分の未練がましさを憎んでいたのかもしれない。 常に側にあって、顔を見られなくともその動向を見失うことがなかった長い間。それを自らの手で断った一時のうちに、喪ったもの。傍らに在れば、と思ったことがないとは言わない。マイクロトフを励まし、力づけることができたかどうかもあやしい。 ただ、ここへやって来る動機というものをマイクロトフに与えたのも、皮肉なことに、その暴挙を受けたがゆえだった。個人的な支配者への恨みを裏で利用した者の企みによって利き腕を失い、マチルダ騎士団を除隊することを正式に決めた。いつまでもここに留まっていては真に国を継ぐべき後継が育たないと判断し、除籍した。潔いとも思える男自身の手によって下された進退を、一体誰が止められたというのだろう。 これはカミューの想像だったが、彼をよく知る面々は、内心晴れやかな気分で石壁が張り巡らされた城壁からかつての上司を送り出したのかもしれない。 再会した当初のマイクロトフに迷いのないことが、何よりも、事実に相違ないことを示していた。 それは、とてつもない幸運だった。紛れもない幸福だったのだろう。何が、形として今、自分の目の前に映し出されていたとしても。 うなだれるように、かしずくように。 カミューは額を真下に下ろした。 綺麗に切除された、夢の跡。白い軌跡が分断された痕。神聖な儀式を彷彿とさせる、緩やかな動作で口付けた。 |
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