駄話[--] ■
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反応はあからさまだった。返答を聞くなり顔を背けられる。腕の中にあるのだから、ここから逃げ出すことは出来ない。だが至近距離であればあるだけ、視線を逸らせる行為は無礼であると知覚する。 なぜこちらを見ない。こんなに、近くにいるのに。 「クロエ」 名を呼ぶ。振り向かせたくて呼ぶ。明確な目的を持って、若干の強さを孕んだ声音。一度では効果がないと知れると、再度同じ発音を繰り返した。ゆっくり、スペルに含まれるアクセントを殊更強調して。それでも駄目だということがわかれば、今度は実力行使だ。捕えていた身体をシーツの上に押し伏せる。上体の重みをすべてかけていると知りながら、両手を広げさせた形で眼下に引きずりこむ。肩からざらりと長い髪が落ち、相手の鼻先にまで迫った。そこでようやく、目線が正面に戻る。行動に対しての不平はないようだが、直接こうむる圧力にわずかに顔をしかめているようだ。しかし、終始無言。だったら、苦しい思いをさせていることに関して謝る必要はない。 青い瞳がじっと見下ろす先の、拘束された人間は諦めまじりに口を開いた。 「違う」 嘆息とともに吐き出された短い言葉。無論、それだけでは真意を伝えるだけの方策を持たない。 「何が違う?」 間髪入れずに聞き返せば、睫毛がかすかに伏せられた。黒いベールは厚過ぎず、その奥に隠れる双眸の色が淡く揺らめいているのがわかった。 「あんたを拒絶したわけではないということだ」 先ほどの行動について弁明する。 視線を逸らせたのは、相手の要求を拒否するためのものではない、と。 その間も、ひっきりなしに地球は重力の影響を受けている。胸から腹にかけて鍛え上げられた鋼のような肉の塊に押しつぶされ、クロエは少なからず辛い思いをしているようだった。けれど、今はそれを解いてやる気はない。相応の罰だ、とも思う。自分を無視しておいて、その報いを少しは受けるがいいとの傲慢さもあった。 なんとか呼吸だけでも楽になれる体勢を取ろうと、ケビンより一回りほど小さな身体を自由の利かない両腕を残して左右に揺らす。それでも上からの重みでどうしようもないことが知れると、首を持ち上げて真上にある相手の顔を睨みつけた。睨めつける、といっても峻厳なほどではなく、元来表情のレパートリーが豊富ではないのだろうそれは、機嫌を損ねて目を細める仕草に酷似して妙に笑いを誘った。 思わず口端に感情を昇らせると、見咎めたように目つきがさらに鋭くなる。が、そのことについて言及はしない。 ただ。 「本気だとは知らなかった」 ほとんど反射的にクロエの台詞を遮った。 「ひどい侮り様だな。オレはいつでも真剣そのものだぜ」 まだ続くはずだった語尾をはぐらかされ、茶化すな、と制止が飛ぶ。先の余韻をまだ引きずっているのか、軽口を叩いたのは軽率だったとケビンも一瞬口をつぐんだ。だが、本人にしてみればまったく根も葉もない空言ではない。 常に自身の行動は本音から生じているものであるし、それが良くも悪くも結果的には一貫性がないと指摘されることも決して少ない方ではない。いつも自分に正直だということは客観的視点から見ればあまりに根拠に乏しい行いの数々に映るだろうが、”おのれを偽らない”ことを誇りと称する人間にとっては、他人の評価などどうでも良い。自己満足、自己完結主義、と評されようとも、喚きたい奴だけが喚いていれば良いと思う。ただ、その指摘が”身内”から発されたものであるならば、考えなくもないが。 「だから、あんたを山車にしたことを少なからず後悔した」 端的な物言いだったが、クロエはそれきり押し黙った。 相変わらず要領の得ない口調にケビンは内心業を煮やした。だが相手が言葉を発した直後、奇妙なほど意気消沈の体だったように思えたことが、物事の前後を無視して一方的に声を荒げさせるところを未然に防いだ。 本当に言ったとおり、クロエは”後悔”しているらしい。額にかかった髪が、物憂げな表情に一段と影を落としていた。 「何に”使った”と、おまえは言うんだ?」 平静を取り繕いつつも、『山車に』の下りの部分を幾分強い語気で質す。 高慢とも思えるほどプライドの高い相棒が、”利用”されるのを心底嫌っていることはクロエが一番熟知しているはずだ。その上で、”使った”と表する。となれば目的格を問うのが、会話の筋としては妥当だ。 クロエは下げていた瞼を持ち上げ、上目遣いに相手を見遣った。くっきりと白い眼球に浮かぶ明瞭な色彩。闇の中でも失せることのない輝きを秘めて、静かに視界の中を揺らめいた。 「年に数回、周期的に巡ってくる」 ぽつり、と薄い唇から洩れる。先を促すようにケビンは無言で耳を傾けた。 「ホルモンの影響かは知らないし、自分の持つ体特有の変調なのかもしれない」 普段の確証に満ちた断言とは裏腹に、途切れ途切れにそれは続いた。言い出し難いその表情から、恐らく誰にも公言する気はなかったのだろうということが窺える。内容をよく理解しようと頭を働かせれば働かせるだけ、確かにクロエが忌避したがる心情もわかるというものだ。 つまり、今夜は定期的とも不定期とも言える『発情期』の1日目だったらしく。 どこか陰りを帯び始めた面を宥めるように指を伸ばし、こめかみの辺りにたむろする黒髪を後ろへ流す。側面の髪を撫でて包みこむように右手で頭部を抱き、ゆっくりと額を押しつけた。 薄い皮膚に覆われた硬い感触がそこに集中し、次の瞬間に乾いたはずの汗が互いを離れ難くさせるように、異なる二つの体温を密着させた。惚れ惚れするほど形の良い鼻先が触れ合い、かすかな呼吸を感じ合える距離まで近付く。 「だから、『すまない』だったわけか」 濃厚な夜の始まりを告げる切っ掛けとなった相手の言葉を思い出し、反芻する。アア、と今度は明確な答えが返った。 思わずため息が漏れる。鼻孔から流れるだけの小さなものだったが、そこに悪意はない。 今だ戒めている左手で軽く指を絡めながら、頭を抱く掌で全体を愛撫する。クロエは為すがままになりつつも、解放された片方の手を相手の襟首へと持ち上げた。 喉元に張りつく金糸の束を数本掴み、邪魔にならないよう首裏へと運ぶ。手触りは触れた瞬間は柔らかく、掴めば若干硬く張りのある髪質だ。体同様汗を含んで急激に冷えたためか、まだ湿り気が残されている。言葉もなく、同じ行為を幾度ともなく繰り返しているうちに自然と唇が重なり合った。 上になるもの、下になるもの。 双方の境界を侵すように吐息が絡み合い、執拗に相手の粘膜を探る。額を押しつけたまま角度を変えて貪り合うも、完全な結合とは言えず空気と唾液が放つ音を何度も聞いた。 目を瞑り、睫毛の微細な動きすら感じ取るように浅く深く緩急をつけて長い間繰り返される。 ようやく終焉を見たのは、どちらからともなく瞼を開いた時だった。 充分に眼球を湿らせ終えた後の、少し潤んだ瞳がこちらを見上げてくる。日頃の強烈な印象を与えるそれではなく、ためらいがちに、だが力強さだけはひた隠し、伝えてくるのは純粋な謝意だったのかもしれない。 不意に熱烈な交情から解き放たれ安息を得た自身の唇が、安堵を洩らすのを聞いた。 「OKと、受けとっていいんだな…?」 何に対しての承諾かと訝しむような視線が混ざる。それに微苦笑し、ケビンはさらに強い眼光で下にした相手を見据えた。 「オレはおまえを愛している、のだ」 数瞬間を置いて。 腕が回る。 首の後ろに。 引き寄せるように力が込められ。 近寄せられた耳元に滑る聞き慣れた響きが心地良い形となって頭の中に降りた。 得られたのは一瞬。 意味を解したのは数秒にも満たない一刹那。 得たのはさながら。 永遠が本当に続くのではないかという奇妙な。 そして納得の行く錯覚だった。 そう、思う。 |
PAPER TIGER midoh.
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