+ second generations +

駄話[--] ■

 目覚める気配を横脇に感じつつ、つむったままの瞼はそのままに動きを待つ。
 覚醒の動作としては変化に乏しく、目を見開いたまま、まだ薄暗い天井を見る。普段と様相を異にしているのに気づくのが先か、それとも傍らの人間の変異に意識を滑らせるか。興味深いところだった。
 クロエは頬にかかる柔らかい金毛に気がついたらしい。いつも通り蒼いマスクの超人が横たわっていると見当をつけて、顔を向ける。
 白い、血色の悪い肌。黒く縁取られた睫毛の中央には、色彩を放つ双眸が見える。淡い光の中でも知れる、淡白だが規則正しい列に配置された各々のパーツ。悪くはない。意識を失ったあとも前面に愛撫を優しく繰り返しながら、掌にも頬にも唇にも覚えさせた相手の隠された場所。
 今度はクロエが覚える番だ。触れて、目に焼き付けるだけでなく、感じるべき”もの”。もし興味がないのだとすれば、無視するのが賢い選択だと言えよう。所詮他人のことだと、足を踏み入れるのは関係のない人間がしていいことではないと、いつものように持論を展開して立ち去ればいい。そのときの対処についてはここでは語るまい。去る者は追わずの主義だったが、恐らく逃がしはしないのだろうという実感の方が強い。身体の下に押し伏せて、嫌が上にも記憶に刻み付けてやろう。自身の真実を濁りのない網膜に植え付け、そこから一歩も離れられないように縫い止める。行動を起こすにはタイミングが必要だ。見計らうようにじっと動きを見えない目で追う。
 上体だけを片腕で起こし、見下ろしてくる淡い視線には格段の驚きの表情はない。暴かれた、既知の人間の素顔に対する感慨が、まるでないかのような無反応。あるいは、お得意のポーカーフェイスか。この際、まだ覚醒が100%に満たないからだという冗談は抜きにしてもらおう。
 無言のまま降り注がれるかすかな緑の光。半開きになった瞼は、さながら双眸から放たれる微弱なライトをさらに弱めるために下ろされたレースのカーテンのようだ。
 動き出したと知れたのは、わずかに起こったベッドのスプリングの軋みが届いたからだ。小さく、直に耳が箇所に触れていなければ悟ることの出来ないだろう微細な変化。何をする気かと期待と不思議に彩られた心中を押し殺し、息を詰めれば柔らかいものが額に触れた。
 何かと知覚する前に離れ、今度は頬に触れたのは、相手の同じそれ。接触した部分が他者であることを感覚に告げ、同時に違和感も与える。先に捉えたのはクロエの髪だ。黒く艶のある、割と小奇麗にまとめられた頭髪。次に感触を教えたのは、なめし皮よりも抵抗のない、肉付きの少ない頬。
 相手に身体を押し付けようとする行為は愛情や親愛の情を表す手段だ。それらの筆頭は、口付けという近親に対してのみ取られる行動でもある。儀礼的に親しみや愛着を示すだけでなく、家族愛であったり敬愛の意思表示もそれで補える。
 だから読みは外れていないと言えるだろうか。確信は盲信のように、血流を沸き立たせるがごとく強まる一途を辿るばかりだ。
 感情なくしてこれらの行為が行えるはずがない。事実相手に問い質せば、理由がないと素知らぬ顔で答えるかもしれなかった。しかし、クロエはこちらに好意を持っていないわけではないだろう。肉体だけの関係であったとしても、”分”は、確かに委ねられていると信じている。
 根拠は、生来備わった才能と実力と行動力。もてはやされている者特有の傲慢かもしれなかったが、人を引きつけるカリスマのようなものはあると自覚している。尚且つ、クロエ自身も認めていたことだ。
 定位置に戻ってしまった身体に腕を伸ばす。持ち上げるだけで重力が天井から余分にかかる錯覚を肩や関節に覚えつつ、目的のものを捕らえる。ひっかかった実物に、ためらいもなく力をかけた。
 若木が引き倒されるように腕の中に息づくものが絡む。小さな悲鳴をかみ殺した被捕獲者の頭が間近に迫った。
 瞬間力を強め、瞬時に離す。とはいえそれは緩める程度で、二の腕で作られた輪の中にある影には依然として怪訝な印象の両眼が浮かんでいた。咎めるでもなく、行動の真意を問うような目線。
 わかっているのか?そのすべてが素のもとで繰り広げられている事実を。
「取りたてて感想があるわけじゃないんだろう」
 唇に額がつく距離。吐息が直にかかっていることに訝しみもせず、見上げる。自身の素顔を目にしたことに対して、率直な意見を求めることもしないのには賛成らしい。答えようがないとでもいうのか。
 無論、ないだろう。女子どものように、騒ぎ立てる部類の話題でもない。
「なぜマスクを脱いだ」
 何ゆえ素顔を見せると問う。
「おまえとは五分と五分の付き合いをしたい、と思ったからだ」
 言われた意味を解読しようと、わずかにしかめられた視線が、ようやく現実を捕捉し瞳孔が大きく揺れた。
 自分のマスクが剥がれていること。室内の空気を察知する感覚が、いつもより生々しいことにやっと気づいたようだ。
 驚きのあまり、唇が無防備に薄く開かれる。思わずむしゃぶりつきたい衝動が起こした舌なめずりが、乾いたそれを濡らした。
「意味はわかっているのか」
 押し殺したような声音が洩れ、耳孔を打つ。責めの口調に転じていたが、こちらにすべて非があるというのではなく、超人としての倫理を問うようなイントネーション。
「わかっているから仕掛けたに決まっているだろう」
 クロエは黙した。言葉を受けての苦渋というよりも困惑といった表現の方が相応しい。逸らした視線は、歪められた眉間に押しつぶされるように苦く細められていた。
 マスク越しにはわからなかった、内部の機微。クロエにもこんな表情があったのだということに驚嘆するとともに、解いてやりたい欲求が沸き起こった。
 肩を抱いていた腕ごと引き寄せて唇を寄せる。硬直していた柳眉に押し当て、軽い音を立てる。クロエが何か言おうとしたところを遮るように、舌先を中に侵入させた。
 驚いた拍子に白いおとがいが持ちあがり、より深く相手の存在を許してしまう。数秒に渡る、噎せるような息遣いが満たす攻防。柔らかい粘膜を楽しむように隅々まで蹂躙し、追いすがるように絡められる相手の舌の裏まで愛撫した。
 たまらずクロエが顔をそむけることによって遊戯は中断されたが、満足の行く交合だった。侵入者を噛み千切ってやるような素振りや、力ずくで阻止しようという気配が、微塵も感じなかったからだ。
 分があるどころか、あとは自覚を促すだけと来ている。最終的な一手が最後の関門にして難問であることは目に見えているが、ここで二の足を踏む気は毛頭ない。
「おまえのお得意の論理でこの場を取り繕ってみるか?」
 勝利を確信した笑みを口元に浮かべながら、密着したままの温もりに問いかける。
 現状の打開策なら、恐らく頭をひねれば出せないこともないだろう。素顔を勝手に見せたのはこちらだし、無断でマスクを剥いだことも超人協議会に事実を公表すれば、罰せられるのはこちら側だ。クロエに咎があるとすれば、警戒を怠り相手に付け入られる隙を与えたことくらい。であれば、本来マスク超人の仮面に手をかけることをモラルとして禁じている協議会から『注意』を受けるだけだ。当然、その処罰のためにオリンピック参加権を剥奪されないとも言いきれない。
 英国陣営に荷担するクロエにとって、選択は難い。意図する目的が、英国代表超人ケビンマスクの超人オリンピックでの優勝だというのなら、当人を参戦できない状況に落とし入れるものなら、即刻国から待ったがかかる。そうでなくとも、義理堅い性癖が本心を偽ることを働きかけるだろう。
 憎んでもいい。侮蔑すら受け入れよう。
 手に入れたいものに手を伸ばし、罰せられて然るべき報いがあるのなら。
 それでもかすかに。何パーセントかの余地が残されているなら。
 寄りそうものが胸の奥に存在するなら。
 眼前にあるのは、始まりと平凡。
 価値あるものを取り逃し、ぼんくらの道を選んだならば一生後悔するだけでは済むまい。今まで以上に呪われた半生を過ごさねばならなくなるだろう。そんなことはさせない。許されない。ケビンマスクという超人に、凡夫の道を選べという方が間違いだ。
「あんたはオレを共犯者に仕立て上げたかったのか…?」
 問いに問いで返すのは礼儀に反する。わかっていて口にするなら、肯定しろと命じているようなものだ。そうすることを待っていると。

「そうだ」

 たった一言。
 風に紛れれば消えるだけの儚い、たったひとつの単語。
 クロエの耳にも届いただろう。聞き間違えようのない、心根の真実。

PAPER TIGER midoh.

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2002.05.09。