++ 電子音が鳴り響く ++



midoh presents...2002.06.02 


電子音が鳴り響く。
腕を伸ばせば届く、バスルームの受話器。迷わずそれを実行しないのは、誰からのものか凡そ見当がつくから。
濡れて質量が重くなった髪をかきあげ、白の大きなバスタオルを頭から被る。まだ水の滴る下半身を無視して、ここよりも湿度の低い外に踏み出す。
電子音はまだ続いている。

バスローブを纏った肢体。ベッドに腰掛け足を組む。ゆったりとした動作のはずなのに、心なしか急いている。そんな印象。
持ち上げるアイボリーの受話器。”つながる”端末。
拾い上げて言葉もなく黙す。相手の声が耳に飛びこんできた。

「クロエか?」

尋ねなくともそれ以外の人物がいるはずがないことを見越していながら問うてくる美声。聞き馴染んだ声。一日だとて耳にしないことはない。
だんまりを続けているうち、相手の意を察し、短く答える。

「ああ」

これ以上沈黙を引き伸ばしていたら、強気の口調が怒声に変わるだろう事を単純に見抜いての行動。機嫌の針が大きく振れる一歩手前だったのか、安堵したようなイントネーションが言外に伝わった。
次に続くのは、『何をしていた?』。
聞かなくともわかる。ここ数日。ひっきりなしの電話。地球の表と裏という、気の遠くなるような距離が目の前にある。離れているから、電子機器を極端に嫌う体質であるにも関わらず、頻繁にベルを鳴らしてくるのだということもすでに承知の上だ。
寂しいのか、とぽつり問えば、その通りだと答えが返る。おまえがいないからだと、心底実感を込めて。
ムードランプだけが灯されたベッドサイド。顔を窺えずとも知れる呼吸があることを、初めて教えてくれた音の来訪者。肩と耳下で軽く挟んだまま、集音機に唇を寄せた。

「テレビを見た。まずは一次予選通過だな」

世界各国に衛星中継されている大会の様子。結果を知らぬ者など誰もいない。ただでさえ祖国の英雄が優勝候補として出場するのであれば、画面に釘付けにならぬ国民など誰一人としていないだろう。
淡々と祝辞を述べる。鼻で笑う声が届く。

「あんなものは戦いのうちに入らねえ」

そうだな、と頷く。
序の口、の前。前座にもなりはしない大会側の、いわば趣向のような遊戯の類い。あんなもので超人の何たるかが測れるならば、宇宙を手に入れることすら容易い。
生真面目な性格の声の主が、現状に少なからず不本意を感ずるのは当然。側にいて慰めてやりたいとさえ思う。もっとも、本心は告げず。

「日本へはいつ来られるんだ?」

回答を濁し続けていた問題。行きたいのは山々だが、と言葉をつなげていつも同じ返答だけ繰り返していた。仕事の整理がつかないだとか、まだこちらで調べたいことがあるだとか。
それは確かに事実であるし、間違いのない自分の役目だと思う。だが、それすらかなぐり捨てて。いやむしろ、すべてをしかと終えてから、同じ大地に立ちたかった。言えば苦笑されることを理解しているから、口には出さない。

「明日チケットを買う予定だ」
「明日の便か」

即座に問われる。急かしているのは目に見えずとも明らか。

「アポイントが取れれば。今はどの便も日本行きは満席だという話だ」

水分を含んで柔らかくなった爪が次第に硬質を取り戻す。透明感が失われて行くのを眺めつつ答える。超人オリンピック開催国である土地には、連日観光を兼ねた他国の人口が流入しているという。普通はそれらを予測して早々とチケットを予約するのだが、時間も環境もこちらに味方しなかった。否。それはただの言い訳。手段を選ばなければ、どんなことでも実行可能だ。しなかった、おのれに非がある。

「だからオレがチケットを送ってやると言っただろう」

恩着せがましいようで、多少責めを含んだ物言い。本気で叱責しようとするなら、わざわざ持って回ったことは言わない。その点は好感が持てる。回りくどい連中と鼻を突き合わせる毎日だったから。新鮮でもある。初めて手に入れた“隣人”。

「そうだな。無事取れるよう祈っててくれ」
「待ち惚けはご免だぜ」

ふとテンポが休止符を打つ。待つ、とは。

「まさか空港まで出向くつもりなのか?」

当たり前だろうが、と即座に返る。空席の状況はネットからも取り出せるが、予約待ちとなれば話は別だ。空港に行ってキャンセルを取れるかどうかもわからなければ、時間の詳細などさらに不鮮明だ。いつ到着できるかも知れない。それも、明日には無理かもしれないと言ったにも関わらず。

「出迎えは必要ない。大会に専念することがあんたにとって賢明な判断だ」
「だったらベルを鳴らせ」

携帯にいつかけても出ないことを揶揄しているのか、命令口調が鼓膜を打つ。

「オレの番号は教えておいただろうが」

しばし会話が途切れる。思ったことを言うか言うまいか、喉の裏で思考が交錯し。

「あんたは電話が嫌いだと思ったが」

歯列の隙間から言葉を吐けば、今度は低く鼻で笑う声が届いた。

「かけてくる相手によりけり、だ」

多くは政府関係者だらけ。備品を支給した張本人さまだろうが、こちらに用がない限りは回線をつなぐことも面倒。
であれば、どうして受け取ったのかと尋ねれば。

「おまえも同じものを持っているだろう?」

だから話せる、と。


「ケビン」

B、の発音は唇に触れない音で。
そっと囁く。
淡々とした、散るだけのことの葉。

「オレもあんたに会えなくて寂しい」

物足りない、とも違う、心の空洞。
呼吸だけでは、もう埋まらない。




苛立たしげな会話が繰り返されている。何度同じことを言っても、相手が納得してくれないから。我知らず口調も乱暴なものになっていた。

「わからないか、ケビン」

靴先で床を数回叩く。精神が普段より昂ぶっている証拠だ。誰にも止められない。国際電話の受話器から反応がないことを好機と見て一気にまくしたてる。

「ここから東京までの直行便に乗ったとしても、ゆうに8時間はかかる。このままでは、最終予選に間に合うかどうかもわからない」

何としても出迎えたかったらしい友人は、電話の向こうで黙りこんでいる。恐らく言われるに任せて怒り満面なのだろうが、見えないこちらにはどこ吹く風だ。雰囲気だけで凄んでも、脅しにもならない。沈黙は美徳ではない。降参かと思ったところにやはり仕返しがやってきた。理屈だけでは丸めこめない。まるで、聞き分けのない子どもと話をしているようだ。

「オレはおまえを出迎えると約束した。ポリシーを曲げることはできん」

嘆息。呆れに近い。何を強情を張っているのかは知らないが、ケビンはどうあっても”直に顔を突き合わせ”たいらしい。急く気持ちはわかるが、超人オリンピック決勝に駒を進められるか否かの大事なときに、自分の陣営の人間を迎えに行って予選に遅れました、では説明のしようがない。
いや待て。急くとは何なのだ。ギリギリ予選に間に合うか間に合わないかの便を辛うじて予約できた今、こちらが焦るべき立場のはずだ。なのにどうして、ただ相手が到着するのを待つだけの側が、眉間に皺を寄せて交渉を譲歩せずじまいなのか。
理由は、痛いほどわかる。
同じ日程で日本へ向かうはずが、仕事だ何だと結局別々になってしまったから。その間ずっとケビンは一人で異国の地に留まっていた。それでらしくもなく、焦燥に駆られているのだろう。知り合ってから、こんなにも長く離れたことは一度としてなかった。傍らにいないことの方が不思議に感じるほど。だが、必要不可欠なものを欠いたことで精神的に困窮しているのだとしても、大会を放棄して良いということにはならない。もし本当にそれを実行したならば、ケビンマスクを応援するサポーターの落胆する様が容易に想像できる。彼の熱烈なファンによって、逆に暴動に発展するのではないかと懸念してしまうほどだ。
ケビンはそれでも構わないと言う。構わないわけはない。本心は、絶対に決勝に出るつもりだ。これは当人の宿願。決勝に出てキン肉マンの息子を倒す。父親に出来なかったことを自分が果たすことで、サー・ロビンマスクを見返してやりたいのだ。
だったら。

「つまらん男の意地を張るのは超人と言えど醜い。あんたはオレを失望させるつもりか」

きっぱりと切り捨てる。会いたいと思うのはこちらも同じだ。だからといって共犯になるつもりはない。無論、駄々っ子にも興味はない。アメだけを与えて甘やかすつもりも。
常に言葉のラリーはケビンの方から打ち切られる。思考する”間”が自分より長いというか、相手なりに言葉を選んでから口に上らせる特有の気遣いがあるらしい。とはいえ、それは限られた”知人”に対してのみ発動する癖のようなものであるらしいが。かといって、こちらには容赦するような理由はない。間違っていると思ったならば、てこでも意見は覆させない。強情だ、とケビンは言うが、それもお互い様。最終的に折れるか折れないかを比べたなら、どちらも似たり寄ったりだ。過去の論争を振りかえっても、一方だけが優遇されているわけではない。

「オレのことは構わず、予選に集中してくれ」

今はロンドンの時間で夜の7時。日本ならば朝の3時くらいだろう。まだ就寝していても良い時間の国際電話。宿泊しているホテルのロビーかららしいが、こっちは空港の待合室から。数時間もすれば日本では最終予選が開始する。日々のトレーニング・メニューをやり終えて、傍らでサポートできない分もそつなくこなしてほしいと励ましたかったというのに。

「わかった」

端的に承諾の意思を告げると、一方的に回線を切られる、そんな予感に思わず相手を呼び止めた。
また、わずかに間が空く。だが、言わずばなるまい。
たった一言の、今までは社交辞令だった別れの挨拶。

「顔を見れるのを楽しみにしている」

途切れ続きだった会話の糸を、最後にようやく拾い上げることが出来た。
かすかに、応答が返った。
鼻で笑う声。

「オレもおまえに会えるのを待ち望んでいるぜ」

静かに携帯端末の回線を落とすと、待合室の電工掲示板が次の便の出発を示した。




最終予選の会場は、海上に設けられた特設会場。
間に合ったのは奇跡と言っても過言ではない。

「急いで来たようだな」

皮肉を存分に込めて。それでも、嬉しさと優しさの滲んだ声音。

「遅刻常習の汚名は免れたかったからな」

いつ時間にルーズだったことがある、と苦笑が洩れる。互いに会いたくて、会えなくて、ようやく辿り着いた場所。ともにいられる空間。触れた拳のぬくもりがまだ肌に残っている。

「飛んだ茶番だが」

大会委員長による最終予選の説明を耳で聞きながら頬を歪める。

「おまえと組んで潜り抜けれるなら、あながち悪くはねえ」

確かに、と頷く。
呼吸する空気は、懐かしい異国の香りがする。



「“グランドファイナル出場決定を心から祝う”」

ホテルの一室。バスルームから出てきた影に言葉をかける。

「誰の請け売りだ」

すぐさま取って返される。携帯電話の向こう側からだと答えれば、呆れたように鼻で笑い返された。役人の述べる祝辞など、豚に食わせるだけの代物だと豪語し。

「痕にならなかったか」

回線を落とした途端、不意に寄越された腕に引き寄せられるようにして距離が詰まる。見上げた先に、蒼い相貌が見える。心配げに浮かぶ、金色の双璧。
予選中、他の超人と争ったのは一度や二度ではない。能力を競うのではなく、削ぎ落とし合っている節のあった長距離走。革のベルトで足首を囚われ、自由の利かない状態での、文字通り潰し合いでもあった。体格、強度ともに恵まれた優勝候補の一角にして本命との噂も高いケビン自身には被害は少なかったものの、明らかに彼らの中でも引けを取る自分が標的となり続けていた。敵側の心理としてなら存分に理解し得る。ファイナルマッチでリングの上で当たるよりは、小賢しいと謗られても予選中のアクシデントとして最有力候補者を亡き者にしておきたかったのだろう。ケビンは最終予選において、ペアを組んだがために集中的に痛打を浴びさせられた先のことを言っているのだろう。
首の後ろに回った、打たれた湯の熱さを今だ放熱している掌の感触が直に伝わる。

「あれしきの攻撃は攻撃のうちに入らない」

軽口を叩いている印象に聞こえなくもなかったが、相手はそれで納得したらしい。後頭部を狙われたこともあったので、よほど気になっていたのだろう。案の定、頭部全体を覆うマスクのおかげで赤く腫れるほどにもなっていない。

「自分の不甲斐なさを思い知らされるようだぜ」

く、と手に力を込めて体を密着させる。石鹸の香りを放つ裸の肌に、直接触れる。背の高い相手を至近距離で見上げるのは、存外首を疲れさせるものだ。

「あんたが気にするようなことは何もないはずだ」

襲われたのは、外見から弱者だと判断されたから。そのことに対して引け目はないし、見た目だけで攻撃対象の可否の決定を下す輩も結果的には報復によって命を落としたのだから自業自得だ。だから、ケビンの気を咎めさせるものなど皆無。

「おのれの守るべきものを守れないで何が超人だ」

独白のような、自責でもあり、陶然とした声。酔っているのか、と怪訝に思う。酒は少量なら嗜むはずだが、今日は一口も口につけていない。密接している身体の熱さも多分、シャワーの余韻によるところだ。
逞しく隆起した胸部に上半身を押し付けられたまま、首裏に回ってた手が下方向へ移動する。ゆるりと、目的地を暗に目線で知らせて緩やかに軌跡が描かれる。
腰を捕らえ、自身と引き結ばせる。次に何が来るか、想像に余りある行い。
儀式にも似ている、契約と思しき所業。嫌悪感はない。長年求め続けていた水にありつくことのできた旅人のような錯覚で待ち構える。
眼前に頂かれているのは、紛れもない純金の至玉。押印を施すようにして合わせる額には、おのれの双眸と同じ血塗られたような赤い宝石が佇んでいる。
唇を与える代わりに、おのがマスクの白皙を委ねる。

「退屈な思いをさせてすまなかった」

心からの謝罪。”上”からはケビンマスクのすべての面倒を看ろとの指令は受けていなかったが、今となってはその役目もあるらしい。自発的、現実的役割。

「おまえは退屈じゃなかったのか?クロエ」

揺すられるようにゆっくりと押し返され、背が曲線を描く。両のかいなでくくられた狭い陣地で、身体が相手の熱に侵されたように次第に温度を増してゆく。遅まきながら、ではあったが、確実な上昇。求められ、精神と肉体が許可を下したという顕れ。恐らく、ケビン自身にもそのことはすでに知らされているのだろう。

「オレは、寂しかった」

物足りなく、空洞をその内に巣食わせてしまうほど重度の負荷。

「今から、そうじゃなくなる」

心地良い声が、心の奥の虚無に降る。
相手の忍び笑いが、凍てつきを解く呼び水になった。


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