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息をするよりも自然1
 ライが、呼んでいる。
 獣牙族にしては珍しく、冷静沈着な女戦士レテが、会話の途中でそう切り出した。
 今までティアマトたちと歓談していたが、不意に目線が上空を見上げ、返す視線で端的に告げられた。隣にいた仲間のモゥディも、肯定する意味で頷きを返す。
 ベグニオン帝国に進軍したラグズ連合がようやく本国ガリアに帰還したのは昨夜のことだ。カオクの洞窟にあるという眉唾物の抜け道を探し当てたのは先行するスクリミルらの功績だ。軍のしんがりを努め、追撃する帝国軍を追い払った時の疲れはまだ残っているが、やっと祖国の土を踏めたという実感が、連合軍に束の間の安息を与えていた。
 ガリアの王宮に招かれ、戦士たちはそこで消耗した体力や怪我の治療などに専念していたのだが、そういえば朝から顔を見ていなかったことに思い至る。
 撤退を余儀なくされた連合の、とりわけ歩兵である獣牙族は、誰もが深い傷を負い、極限まで追い詰められた状態だったのだろう。強行軍を終えて、恐らくぐっすりと休んでいるのだろうと思ったが、レテやモゥディたちは早朝からいつも通りの様子で客人の前に現れた。疲れた仲間たちのために、傭兵団で料理係も勤めるオスカーたちの手ほどきを受けたいとやって来たのだ。なぜかそこには、厨房の良い匂いに惹かれるように、フェニキス王の目と耳の姿もある。
「俺には何も聞こえなかったが?」
 不思議な表情でレテの方を見れば、無感動なまま獣牙族にしか聞こえない合図だったと返される。
 そういえば、彼ら同族の間では言葉を使う慣習がないと聞いたことがある。人には聞き取れない音が届いたということだろうか。
「わかった。…どこへ向かえば良い?」
「王宮の西。中央から真っ直ぐに進んで行けば、そこにあいつの部屋がある」

「ねえねえ、レテ」
 双子の妹が、彼女の影に隠れたまま耳打ちする。
「どうしてライ隊長が、ベオクなんかに用があるの?」
「ライとアイクは親友だ。二人には、ベオクもラグズも関係ない」
 戦友に対する失言を言外に咎めるような目つきの姉から淡白な返答を受け、リィレはあからさまに眉を顰めた。
「隊長に友達なんて、信じられない」
 妹のライに対する片恋は知っていたが、嫉妬混じりとはいえ、自身が一目置く人間がけなされるのは我慢がならない。けれど、感情を荒げないよう訓練を積んでいるレテは、動じないまま声を発した。
「それはお前が、友人を持っていないからそう思うんだ」
 途端に相手はむっとしたように唇を突き出し、絡めていた腕を突っぱねた。
「そんなもの、レテがいれば必要ないもん!」
「アイクは、獣牙のなかまダ。ライにトって、アイクがとくべつナのは当たり前ダ」
 隣から身を乗り出したモゥディにも窘められ、わけがわからないという風に少女は口を歪めた。
 大体、ベオクは敵だ。そうではないと言う者は自身の周りにはわずかしかいなかった。だから、みんなそう考えているのだと思っていたのに、ここではそれが違うという。
 本当はもっと我侭なことを言ってしまいたいのだが、この場にいるラグズは彼女たち以外は、飄々としているのか、落ち着いているのかわからない、親しくもない鳥翼族の二人だけ。誰も味方になってくれそうにないと踏んだ少女は、ぶつぶつ言うだけでそれ以上不平を零さなかった。
 確かに、妹が不審に思うのも当然かもしれない。
 フェニキスの王ティバーンでさえ、彼らを評して『よくつるんでいる』と言うくらい、ライとアイクは実際に仲が良いと思う。
 むしろ、ライが入れ込んでいると表すべきか。
 今まで自身が見てきたことはリィレにはとてもじゃないが言えないと、悟られぬようレテは嘆息を吐いた。


「おっ、アイク」
 こっちだ、こっち、と王宮の廊下に面した一室から手招きをする人影を見つける。
 あと数歩で辿り着く距離すら惜しむように、手を捕まえられて室内へと招きいれられた。
 何をそんなに急いでいるのか皆目見当が付かなかったが、無理を押してきた怪我は良くなったのか問おうとして、機嫌良く持ち上がった目じりに敢え無く霧散してしまう。
「食い物はないが、茶くらい淹れてやるからさ」
 お前をここへ招待したかったのだと告げられ、示された床に腰を下ろす。
 丈夫な乾いた草で丸く編まれた茣蓙は、何年も使われていないような代物だった。
 ラグズはあまり、自分のテリトリーに他人を入れるのは好まないのだと教えられ、もう一度相手の面を窺う。
 ハタリというデインの東に位置する死の砂漠の向こうにあるという、狼のラグズが住む国では、家族以外の者とも親しい親交を持つらしい。伴侶を持たない者は、子を持つ者の補佐をして一族の繁栄のために協力をする。今まで聞いたことのない風習を女王ニケから教えられ、新鮮な驚きを感じたものだ。
「もっと休まなくて良いのか?」
 いくらベオクよりも治癒力に優れているとはいえ、スクリミルを相手に大立ち回りをしてみせ、ベグニオン帝国最強と思しき将軍ゼルギウスを相手に命辛々助かったというのに、この明るさは何だろう。
 連戦をともにしてきたというのに、自分よりも活き活きとしている友人が、逞しいのかタフなのかがわからない。
「ま、俺は、色々と器用なわけよ」
 じゃなけりゃ、現国王の信任が厚かったり、次期ガリア王補佐なんて自称していられないと快活に笑う。
 祖国に帰ってきたというだけで、背負っていた重責から解き放たれたようだった。
 事実、帝国への進攻は彼らラグズにとっては覚悟の要る決断だったのだろう。
 戦を始めることで、メダリオンに封じられた邪神の復活を促してしまうのではという危惧もあったのだから無理もない。
 普段以上に陽気な獣牙の青年を前に、いつのまにか頬には笑みが浮かんでいた。
「……お互い、生きて戻れて良かった」
 差し出された香草茶を受け取りながら、つくづく実感する。
「このお茶ってのも、慣れると結構美味しいもんだよな」
 湧き出る清水と食料さえあれば事足りるガリアに於いては珍しい嗜好品だが、何でもわざわざクリミアで調達した物であるらしい。
 鍛錬の時は専ら水で、自身とて食事の時以外、あまり口にするものではない。まさかこの時のために用意してくれていたとしたら、どこか違和感を覚える。
 それは、決して気まずいものではなかったが。
 ラグズの青年は、茶が冷めるのを待つように厚手の布の下に充分な量の藁が敷き詰められた寝台に腰掛けた。
「お前には本当、心底感謝してるんだ」
 半ば無理かもしれないと思いながら、一緒に戦わないかと誘いに行った当時を回想する。
 ガリア国境に近い砦に、グレイル傭兵団の拠点があった。
 開戦の前、何度も足を運んだが、そこに期すべき人影が見当たらなかったことを持ち出し、ライは少々困ったように眉を下げた。
 進軍の時期を巡って連合諸国と協議を繰り返したが、その席で幾度もグレイル傭兵団の必要性を説いたと言う。本国にも名高い英雄の協力を取り付けるまでは、戦いを始めてはならないと王やスクリミルに進言してくれていたらしい。無論、カイネギス王は部下の言うことに耳を貸し、砦に兵が戻るまで待っていてくれた。
 他の奴らには任せられないから、自ら足を運んだ回数は十では利かないという。
 その時は、丁度クリミア国内に反乱の動きがあったため、エリンシア姫の智謀の臣ユリシーズの策に乗って姿を晦ましていたのだ。敵はおろか味方の目すら欺くためとはいえ、確かに長い間不在をしたと思う。
「切なかったなあ。出向く度、お前の影すら一つも見えなくて」
 やはり駄目かと失望しかけたが、会えた時には嬉しさで総毛が立ちそうだったと告白する。
 実際、表面には出さなかったが、太い尻尾が天に向かって持ち上がるのを抑えるのに必死だったことを正直に明かした。
「やっぱり俺はお前が、…なんてことまで考えたわけだよ」
 鼻を掻きながらしゃべっているその頬は、いつのまにか赤い。
「確かに被害は大きかったが、得たものも多い戦いだったな」
 大将だったスクリミルも、負け戦を経験して強くなった。ベオクや力なき者を軽視する態度を改め、おのれの力を過信することなく道理を弁えた戦士に成長した。敗軍の将となっても、誰も彼を笑わないのは、重傷を負っても最後まで仲間とともに戦い続けたからだろう。
「…まあ、そうだな。それがなくちゃ、何のために俺が骨折までしたのか…」
 暴走しかけた獅子王の甥スクリミルを、身体を張って止めた勇姿を思い出し、くすり、と鼻で笑う。そこでようやく、ライと目が合った。
 獲物を見つけた時のように慎重深くはないが、恫喝するような双眸。
 真っ直ぐにこちらを見、切れのある眼差しが視線を捉えようと寄越される。
 それにどういった反応を返せば良いのかが推し量れず、見つめ返しているとふっと目線を逸らされた。
「………駄目だ……」
 一言呟き、ぼりぼりと頭を掻く。
 何が駄目なのか今一つ状況が掴めないが、どうやら参っているらしい。
 まだ復調していないのだろうかと考え、ベッドに横になったらどうかと勧めようとして更なる呟きを耳が拾った。
「…ラグズの俺には、どう足掻いたって無理な話ってやつか…」
「何のことだ?」
 独りごちてから深い息を吐き出した友人に、仔細を尋ねる。
 が、返って来たのはらしくもなく、しどろもどろな答だった。
「なんていうか、その…」
 歯切れの悪い調子に、益々不信感が募る。
 眦を心持ち染め、その辺りを指で掻きながら、ライは躊躇いがちに凝視した。
「…触りたい、って思うわけだよ」
 言葉を交わすよりも早く、その肌に触れたいと願う願望。
 同族の間で会話を必要としないのと等しく、求めているのは音色よりも現実に感じることのできる体温。
 そういえば、以前にもここで夜を過ごしたことがある。三年前、クリミアがまだ復興の兆しを見せ始めた頃、資材を運ぶ人員を借りるために王宮を訪れた時のことだ。そのときはただ、互いが互いを貪るように身体を重ねてしまったが。
「俺がベオクだから、気を遣ってくれていたのか?」
 私室に友人を招き、持て成すなど、本来の彼らにはあるまじき行為だったのだろう。
 公の場であれば、客人に対する接し方は恐らく自分以上に熟知しているはずだ。けれど、こうして個人的に誘い、会話を楽しもうと、慣れないことに挑戦してみたものの、思うようには行かないなと本音を漏らす。
 語るよりも先に、呼吸を感じるように傍らにありたいと思う欲求は、肉欲などではない。
 むしろ、もっと精神を高揚させるものだ。
「ラグズなりに。…っていうか、白状するけど、惚れてるなりに、な」
 片目を瞑って降参した相手に、今度はこちらの居心地が悪くなる。
 確かにこういった空気は、今まで経験にないものだ。興奮というもの自体、滅多に動じない自分にとっては縁遠い感覚だったが、ライの発する精気に影響されたかのように、気恥ずかしい気分になってくる。
「…………遠慮は要らないと思うが…」
 種族の差など今更問題にはならないと告げれば、上機嫌な相貌へと変化する。
 あっという間の出来事だった。本来の調子を取り戻したしなやかな獣が床に降り立ち、距離を詰める。
 後頭部と首の付け根を捕らえられ、瞬く間に唇が重なった。悪戯をするように温かな肌の上を這い、なぞるように動かされた舌が歯列の間を抜けて滑り込む。手際の良い素早い動作は、ライの本質を表していると言っても過言ではなかった。
 巧みな手管に翻弄されながら、バランスを崩しかけて正気を取り戻す。しかし、相手はペースを崩すことなく攻めの姿勢を変えなかった。
「ライ、待て。…外に人が」
 布一枚で隔てられた扉から、いつ他人が入ってくるかわからない。廊下を歩く者がいたら、室内で起こっている事態が容易に察せられるだろう。
 服から覗いた肌の色に鼻先を寄せて心地良さげに喉を鳴らす男は、それこそ問題はないと嘯いた。
「獣牙族は耳が良い」
 だから、無粋な真似はしないと。
 遠く離れていても気配を察知できるから、こうして抱き合っている限り誰も寄り付かないだろうと説明する。
 それは、それで、無茶苦茶なことだと言いたいが。
「一刻経ったら戻る。…それで構わないか?」
 茶飲み話をしているレテやティアマトたちが心配すると提言すれば、お前は甘いんだか甘くないんだか、と零された。
 視界を覆うように映し出された眸には、絶えることのない光が溢れていた。


-2007/05/18
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