「アイク」
ラグズ連合の軍議が終わり、最後に王宮の広間を出て行こうとする人影を呼び止める。
今日は何かと急務が多く、顔を合わせても話をする機会がなかったのだ。
「これからまだ、用事が残っているのか?」
否、と物言わず首を横に振られ、よし、と気持ちを入れ替える。
ガリアは獣牙族の国だが、夜目が利かない鳥翼族が駐留しているため、たくさんのたいまつが焚かれている。本来であれば、暗闇でも月明かりを頼りに視界が利く連中ばかりなのだが、リュシオンたち鷺の民を庇護している手前、数年前から王宮内は夜間に火が取り入れられるようになった。
ゆらゆらと動く灯りの中には、ベオクが作るランプが幾つか入り混じっている。
「…そういえば」
自身の部屋へ誘い、石畳の廊下を進む途中、珍しくアイクから話を切り出された。
普段からあまり、必要以上のことを多くは語らないが、無口というわけではない。愛想はないが、団を束ねる人間として、周囲の動向には気を配っているようだ。
「スクリミル将軍と話をした」
内心、ぎくりとした拍子に、頭にくっついた青い耳が一斉に相手の方へ向けて逸れた。
多忙だったため、あれきり顔を合わせることはなかったのだが、仲間の中でもあいつは有言実行を至高とする男だ。アイクに対して、何らかの行動を起こしたとしても不思議ではない。まさか、と危ぶんでいたことが、どうやら現実のものとなったらしい。
「面白い男だな」
アイクの感想は、気が抜けるほど素っ気ないものだった。
話があると言ってやって来た、自分よりも頭一つ分大きな男は、単刀直入に、先刻と同じ宣言をしたそうだ。
俺は、ライの片恋を応援するぞ、と。
「…………………」
思わず壁に手をついて脱力をしてしまいたくなったが、勿論向こうに悪気はないのだろう。
第三者であるスクリミル本人としては、おのれの立場を明確にしたかっただけなのだろうが、当然、それが応援すると言った先の言を実行した結果だということも充分に理解できる。
わかり易過ぎる行動は、鴉の民を除いたラグズ全体の専売特許だが、ここまで果敢な奴も珍しい。言った直後にこれなのだから、心の準備というか、もう少し状況を考えてくれとこちらが言いたくなったとしてもおかしくはなかった。
はあ、と大きなため息を吐き、ライは豪胆にして大胆が売りの獅子の血筋を恨めしく思った。
「…で、お前は何て返したんだよ」
まったく関係なくはないだろうが、自身の身内とも言うべき輩から、宣戦布告のような真似をされてどう思ったのか。
「……『そうか。』」
がっくり、と今度は肩だけでなく、耳も尻尾も地面に向かって下降する。
興味のない話題ならばともかく、そこまで淡白な応答も珍しい。
「そりゃ、それしか言いようがないって言えばそうだけど…」
その一言だけで、スクリミルは大人しく引き下がったらしい。
言いたいことだけを伝えて、反応がなくても気にしないというのではなく、恐らくまだ手始めだと言いたかったのだろう。
そのうち、何を仕掛けてくるのか。
放任してほしいというのが、当事者の率直な希望なのだが。
「悪いな、うちの大将が迷惑をかけて」
「いや」
問題はないと告げられ、本当にこの頭の中には今何が詰まっているのだろうと疑わずにはいられなくなる。
何もない、空虚なものであれば、これほどまでに力強い眼差しをしているわけがない。ゆえに、その内面には強い意思が存在していることになる。だからこそ、懸念する材料はないと言い切ってしまえるのだ。
「俺が面白いと思ったのは」
終わったと思われた話題に続きがあることに少なからず驚きながらも、発される声音に耳を澄ました。
アイクの声はそれほど低くはない。無理に大人びた声を出そうとしているわけでもなく、大声を張り上げることが多いため若干掠れてはいるが、若者らしい張りがある。潜めてしまえば瑞々しさすら感じる声を聞くことができるのは、そう滅多にあることではない。
アイクはまるで他人事のような口調で、最後をこう結んだ。
「おまえの思いは、まだ成就していないのか、ということだ」
淀みのない音が真っ直ぐに、寄越される視線とともに自身に降り注ぐ。
いつの間にか歩調が撓み、わずかな距離を残して互いに立ち止まっていた。
「成就、ね……」
ふう、と嘆息し、ライは腰に手を当てた。
困ったような、嬉しいような時に、目を伏せて口元だけで笑う仕草をよくしてしまう。
癖だとわかってはいても、馴染みの相手を前に素の自分が出てしまうのは不自然なことではない。
口に出して言った方がわかる思いもある。告げられて、それで満たされる感情もある。
けれど。
「…成就したとしても、終わらない思いってのもあるってことさ」
「?」
わからん、と態度で示すように、アイクの唇がへの字に曲がる。
憮然としたような、不可解な表情で見つめてくる双眸を、下から覗き込むように見返した。
反応が不十分であるのは、若いからだ。そう感じてしまうのも、自分が若輩である証拠かもしれない。
終わらない、終わりのない、終焉を見ないこの感覚。情感は、本当に一言では言い表せないほど溢れ出てくる。それを伝える術を毎日模索しているのだとしたら、まったく間抜けなことをしていると卑下したくもなるというものだ。
アイクはすでにこちらの思いが遂げられていると言った。間違いではない。体を重ねたのは成り行きとはいえ、各々の意思に従った結果だ。それ以前に、そこへ至るまでの過程がぎこちないものではなかったのは、互いに感じる部分があったからだ。
好きだと行為で伝え、受け入れて微笑ってくれたのもアイクだ。だから、叶えられていないと思われたのは、アイクにとっては心外だったのだろう。
だからこれが、自分の我侭であることは明白だ。
「俺にはわからんが、そういう考え方もあるのか…」
悩む素振りではなく、玩味するようにアイクが呟く。
恋をしない生き物も、確かにいるだろう。目的を持って生きていることと、幸福は同一ではない。抱いている愛情の形も、同様に同じものではないのだとしたら。
「お前は気にするな。俺が勝手に、お前を追いかけてるだけだから」
だから、哀しいと思うのは、こちらの身勝手な感傷だと。
硬い石畳の上を再び歩き出そうとしたところで、遅れを取った側が珍しく喉を震わせた。
ラグズの内でも獣牙族でなければ聞き取れないだろう微動は、揺れる灯りの下であれば殊更鮮明に浮かぶ。
何事かと振り向き、様子を窺うと、どうやらアイクは笑っているようだ。
「……化身されたら、すぐに追い抜かれそうだ」
険しい山道や木々が生い茂る密林も、獣牙の足にかかれば数日も必要としない。その例を持ち出して口元を押さえた若者に釣られるように、青いラグズの青年もくくくと声を漏らした。
確かに、ずっと追いかけていれば、いつかは辿り着くかもしれない。
同じ場所に。その傍らに。
そうだ。獣になって会いに行こう。
思いを届けるために、一心不乱に駆け続けよう。
時に自由に、気ままな風を受けながら、心のしるべを辿って行こう。
その先にあるのは、終わりなどではない。また始まる、再生。
今のように、相手の顔がすぐさま視界に飛び込んできても、抱えた気持ちはなくならない。また湧き上がってくるのは、深い深い憧憬。
「じゃあお前は、俺を待っていてくれるんだな?」
辿り着くまでの距離。永劫と思しき無限の道に向かう者を、覚えていてくれるかと尋ねる。
片方の頬を吊り上げて一瞥を投げれば、こくり、と若者は顎を引いた。いっそ、そのままどこかへ攫ってしまいたい。
「ああ、待っている」
進み続ける足は決して弛まないだろうが、追いかける者のあることを心に留めてくれると断言する。
独り善がりの旅ではなく、いつしかそれが一人と一匹の道行になる。そこに時間的、空間的隔たりがあろうとも、追いかける者は独りではないとアイクは言ってくれた。
もしかすると、その胸の内にあるのは常に、命をともにした仲間たちの姿なのかもしれない。
「本当に、お前は巧いよ」
かすかな敗北感を覚えながらも、ライの目元は穏やかなままだった。
人として不器用であるはずの青年があそこまで他人を惹きつけるのは、根本的な部分でアイクが彼らを思っているからかもしれない。
どんな人間であれ、無情に突き放すことなく、むしろ何もかも抱え込んでも崩れない、大きく柔軟な器を持っているのだろう。
もし、彼を恨むような人間が出てきたとしても、それは単に運がなかったというだけなのかもしれない。アイクに、ではなく、彼自身と出会えなかったおのれの不運だ。
だが会ってしまった自分は、ひたすら一つのことに執心せざるを得なくなった。束縛ではない自由な意思で、彼とともにいることを願う。
そんなんじゃ益々、離れられなくなるだろ?
接するたびにどんどんのめり込んで行く自身を軽く叱咤しながら、そっと傍らへ寄り、服から覗く肩を抱いた。
確かに、すでに思いは叶えられている。それなのにどうして、先を行く者との境を感じてしまうのか。
答は出ている。獣牙と、そうではない者と。自分と、アイクと。
だから、俺は。
追わずにはいられない。お前を、思わずにはいられないんだ。
たとえ現実が目の前にあっても。
(それは絶対に、不幸なんかじゃない。)
-2007/05/30
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