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くら闇の下で2
 山岳地帯に近いこの場所は、夜になれば相応の気温になる。
 昼間とは異なる乾いた空気が、ひんやりとした闇を連れて来た。
 寝付くには丁度良い、わずかに肌寒い様子に無意識に目を細めながら、自分で作った寝台の上にライはごろりと横になった。
 こうして、自身では侭ならない、闘争本能よりももっと強い血を感じたのは久しぶりだ。
 故郷の長老たちから見れば、まだ若輩と言っても過言ではないが、それなりに年数は経ている。特に、こうやって熱情をやり過ごす手段には長けているつもりだ。少なくとも、あいつがいなければ、こうして正気を保つことができる。
 それに、自分はどうやら役を担っている時が一番自由であるらしい。働くことが好きだ、と評す連中は滅多にいないが、王の命令で外交に携わる今の仕事は性に合っていると思う。様々な人種に触れ、交流することで、思う存分見聞を深められるからだ。
 猫の民には珍しい性分ゆえに獅子王に取り立てられ、一年前のあの日、あいつとも接点を得ることができた。
 ちり、と焦げ付くような、擬似的な痛みを鼻の裏に感じ、忌々しく皺を寄せる。歯を食い縛り、加熱の余波を何とか霧散させることに集中した。
 少し考えただけで、これだ。
 深い森の中、初めて顔を見た瞬間の、あの双眸を思い出しただけでごりごりと喉奥を突き上げるものがある。牙を剥き出しにして唸り出してしまいたい衝動に駆られながら、生まれて初めて見たおのれとは異なる者に対する少年の無垢な驚きを回想した。
 アイクは、知識の素地に何もなかったと言わんばかりに、真っ直ぐな目をしてそこに立っていた。
 半獣という呼び名を知りながら、それの持つ真実を正しく理解できてはいなかった、まだ子どものような若者。取り立てて人目を引く外見ではなかったが、頑固そうに引き結ばれた口元がどこか懐かしいような気さえした。
 現実を体験し、見極めてからは、彼は率先してラグズに対する蔑称の使用を禁ずるようになった。部族が違うだけで、同じテリウス大陸に生きている者同士だと、頭よりも身体が先に動いたのだろう。
 ベオクらしくない、直感を頼りにしている人間。
 面白い、と思ったのは、潔さに好感が持てたからだ。
 進むも退くも、その身一つ。未練など残さず、すべからく淀みがない。まるで生まれた頃から、躊躇いが即座に死を意味すると知っているかのようだった。
 熱しやすく、容易には諦めない。けれど仲間の意見を取り入れ、すぐさま決断を実行に移す。傭兵団の頭領として、他人の生命を預かる手前、少しでも迷いがあれば一〇〇パーセントの力を出すことは不可能だと知っている。戦いの真理を肌でわかっているかのように、アイクは常に簡潔で明瞭だった。
 自分の正義を貫いているように見えて、その心はとても自由だ。変幻が自在なのではなく、真っ向から受け入れる姿勢を崩さない。懐と解すべき器が、誰に教わったのか、非常に深いと思った。でなければ、ただ物を知らない若造だと高を括りたくもなっただろう。
 確かに、出会った当初のアイクは学ぶ者、だった。おのれの無力から庇護者であった父親を目の前で亡くし、彼は彼の傭兵団をまとめあげなくてはならなくなった。まだ下っ端という身分でありながら、分不相応な役を負うことを思い切らせたのは、本人以外の何者でもないのだろう。だからこそ、あれほどまでの覚悟で、他者と接することができるのだ。
 時に愛想がなく、不遜だと誤解されがちだが、打ち解けてしまえば内面が木石でないことがわかる。生真面目ながらも、底に流れる純粋な気持ちが実に素朴で、とても心地良いと思った。
 たった一日離れていただけで、懐かしいと思う自らの性根を嘲笑いたくなる。
 ぐつぐつと煮えたぎった物で全身が沸騰しているのに、どうやら自分は彼のことを思考せずにはいられないらしい。
 あの、真っ青な青よりも蒼い、紛れもない色。眸と同色の燃える色彩が、星のように目の裏で明滅する。
 片腕で面を覆い、重厚な生地が折り重なったベッドに仰臥しながら、襲ってくる岩漿のような滾りと向き合った。

 このまま眠りに就くかと思われた予想を裏切って、外に他人の呼吸音があることを耳が拾う。
 数丁先で土を踏みしめる足音は、ベオクの履く深靴のそれだ。
 さっと血が引くように感じたのは、それが何者の足取りであるかを瞬時に察したからだ。
 大きく、深い歩調で前進する。用心深くはないが、夜間であることを考慮した静かな歩み。鼻腔に届くのは、清潔な皮膚と柔らかな布の匂い。
 それが示す答は、一つしかなかった。
「…っ」
 闇の中で鋭く舌打ちし、ライは上半身を起こした。
 あまりの速さに、敷き布に皺ができる暇すら与えなかった。
「……ライ」
 天幕の厚い布地を隔てて届く快いはずの声音が、今ほど残忍に聞こえたことはないだろう。
 入口の正面で立ち止まった影は、中の様子を窺うように、言葉を継いだ。
 大丈夫か、と尋ねる声を、ライは鋭い叱責で遮った。
「何、考えてんだよ、お前は…っ!」
 真剣に憤っていることを荒々しい語気から察し、相手はふと口を噤んだようだ。
 閉口したくなるのも無理はないほど、自分は今、まともな状態ではない。
 すでに気配を察してからというもの、勝手に動き出そうとする四肢を抑えるのに必死だった。暴走する自我に抗い、最後の理性に縋って、立て続けに声を放つ。
「さっさと行け。俺に……っ」
 脳裏に、相手の姿が浮かぶ。
 あまり日に焼けることのない、素肌。額を覆う長い布が肩にかかり、すらりと伸びた身体は上質の青い外套に包まれているだろう。
 何よりも、焦がれていた匂いが、すぐ側にある。森の中で眠るような、自身の安息をつれてくるものに、魂を根こそぎ持って行かれそうになる。
 血を吐くような怒声を受け、それでも面は揺らがないだろう。そう確信できるだけ、自分はアイクを知っている。知ってしまったのではなく、昔から彼を知る人間であったかのように馴染んでしまったからだ。
 なぜかはわからない。わかる必要がない。肉親よりも懐かしいと感じる血。存在。おもい。そのすべてがそこにある。ただそれだけだった。
 鋭敏に研ぎ澄まされた肌膚が、嗅覚が、紛うことなき生身の肉体を、その中身を、確実に捉えている。
 心の臓が血脈を沸騰させ、ちかちかと眼球の裏で見たこともない炎が点滅する。熱い、と思うのが呼吸なのか細胞なのかの判別がつかない。否、つけられない。
 だが、ここで箍を外してはならなかった。
 歯を食い縛り、獣化しかけた手で尻尾を握り締めた。長く伸びた爪が肉に食い込み、体毛を通って尾を傷つける。この状況で平静を保つには、手っ取り早い痛みが不可欠だった。
「…ライ、俺は考えた」
 鼓膜に、はっきりとした音声が届く。
 呟きではない呼びかけは、発する側が正気であることを聞く者に訴えた。
 何があろうと相手が揺らがないだろうと信じられたのは、覚悟なくここへ訪れることはしないと悟っていたからだ。
 だからこそ、言葉の続きに耳を塞ぎたくなる。
「……おまえが苦しんでいるのに、俺は何もしなくて良いのか」
 いや、良いわけがない、と。
 物言わぬ反語が、胸の奥に突き刺さる。
 口調や態度の端端で、こちらを気遣っているのがわかる。良心よりももっと根底にある心で、アイクは自身のことを考えてくれているのだ。
 その心情に感謝したい気持ちがないわけではない。けれど、今は条件が悪過ぎる。
 どんな配慮も、ただの好機だと捉える肉体が、皮膚の下で荒れ狂うのを止められない。
「そういう問題じゃ…」
 ないんだ、言わんとした語尾を遮るように、強い語調が鼓膜を打った。
「一人で、抱え込むな」


 アイクが入口を開いたのが先だったのか、こちらが相手の胸倉を掴んで中へ引き摺り込むのが早かったのか。
 本能に従った結果なのだとしたら、恐らく向こうの顔を知覚する前に腕が伸びたのだろう。
 呼吸は乱れているのに些かも無駄のない動作に、驚いたようにアイクの双眸が見開かれた。
 それよりも、纏った気配が通常の何倍も異質であることに違和感を覚えたのだろう。クリミアで船を調達し、ベグニオン帝国へ王女エリンシアを護送する際、妹のミストが告げたラグズに対する潜在的な恐怖。化身する、おのれとは異種の存在に、本質的な畏怖を感じたと言われたことを頭の隅で思い出したのだろうか。
 しかし、それは明らかな絶望ではない。アイクに、失望はない。眼前にあるのは、おのれを強者たらしめている真っ直ぐで強い意思の光だけだった。
 狂いかけた親友を見ても尚、折れない心。
 まるで見透かされているような気になってくる。こんなに熱く、焼け爛れた本性を抱えたまま、それでもまだどこかで恐れていることを。
 お前に、嫌われるんじゃないかってことを。
「………ったく、お前って奴は…」
 野性の獣が吐くような呼気と吸気にかき消されそうになりながら、最後に残ったプライドだけで、呻くように声を発する。
 仰向けに倒した体に跨り、ともすれば突き立ててしまいそうな爪を庇いながら、指で額の布を解く。
 ばらりと、長い巻き布から解放された白い肌に、濡れたような濃い蒼がいくつも覆い被さった。
 前髪を分けて覗く邪気のない眼に、体の奥で小さくなった理性が呟く。
 どうして俺の、恰好悪いところまで見たがるんだ?
 その時自分がどんな顔をしていたのかは覚えていない。笑ったのか、微笑い返したのかさえ記憶にない。  網膜に焼き付いていたのは、相手の緩やかに細められた確かな眼差しだけだった。


-2007/06/12
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