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くら闇の下で4
 もう数刻したら、ほの明るい光とともに朝の匂いがこの地を満たすだろう。
 そうすれば、朝餉の準備をするために、ラグズの仲間たちも、ベオクの連中も、同時に目を覚ますはずだ。その前に、どうしてもしておかなければならないことがあった。
 素肌に外套を羽織っただけの青年を背に乗せたまま、青い獣は茂みの間を縫うように闇の中を駆け続けた。

 夜営する場所の近くに前以て水場を見つけていた理由は、それがなくては野宿自体が困難であるために他ならない。風に乗って流れてくる水の匂いを探りながら辿り着いた先にあったのは、湖と呼ぶべき代物だった。
 山の中なのでそれほど大きさはないが、横幅がある。時刻は未明。まだ空には星が瞬いているような時間だったが、幸い、遅くまで残る月が味方してくれたようだ。視界は、闇夜に目が慣れたベオクにとってもさほど悪いとは言い難い状況だった。
 大人しく背中で身を投げ出していた者は、目的地に着いたとわかると、おもむろに地面に足を下ろし、抱えていた上着と履物を前に放り出した。
 マントを一枚肩にかけ、前を合わせただけの恰好で、辺りを警戒もせずに岸辺へ近づく。普段ならば注意深く周囲を探ってから緊張を解すのに、些か行動がぞんざいであるのは、体中に鬱積する疲労のためだろう。足取りは、見るからに覚束ないが、それでも均衡を失うような醜態は晒さなかった。
 ライという名の獣牙の青年は、化身を解き、素早く若者の傍らへ移動した。
 背中に腕を回して支えようとしたが、大丈夫だと軽い首肯で辞退されてしまった。
「…頭を冷やしてくる」
 ついでに、身体も、と言いたいところだろう。
 ここまで足を運んだのは、火照ったように熱い箇所を冷水で清める目的があったことは言うまでもない。
「ほんとに大丈夫か?」
 盛んに交わった自身が言うのも不自然かとは思ったが、やはり見ているだけでは危ない気がしてくる。
 こんなところで溺れられては厄介だと判断し、面倒とは思いつつも、自らも甲を包む手袋や包帯ごと、衣服を草の上に放り投げた。
 クリミア・ガリア軍の総指揮を任されている者が、自分のために災難を被ったとあっては、カイネギス王に合わせる顔がない。ただでさえ獅子王は、アイクの父グレイルとも親交があった。彼の息子のことを亡き旧友同様に気にかけている事実は、腹心である自身こそがよくわかっている。それだけに、予断は許されない。
 獣に化身してしまえば身に着けているものすべてがそれへと同調するが、人の姿で水に入れば諸共に濡れる。普段であればこのまま水に浸かることは滅多にないのだが、緊急の事態だとばかりに足を踏み入れた。
 すらりと伸びた手足と、立派な太さを備えた自慢の尻尾までもが露になり、水辺でそれを目にした側が訳もなく眉間を寄せた。
「何か、変か?」
 ラグズは裸身を他人に見せることはない。肉に刻まれた墨のような灰青色の文様は獣牙の誇りそのものだ。だから、おかしなことをしている自覚は充分にあるのだが、ベオクの青年に憮然とされる根拠が甚だ不明だった。
 首を傾げていると、ベオクでも他人に裸は見せないと説かれた。
「ああ、やっぱりな」
 予想していたと漏らすと、小さく鼻で笑う音が聞こえた。
 さっきまでは意識があるのかないのか定かではないほど物静かだったが、どうやら自分の足で立つうち、意識がはっきりしてきたらしい。
 良かった、と内心で安堵し、同じように口元に笑みを浮かべる。
「別に良いだろ?今更、お前に隠さなきゃいけないことなんかないんだし…」
 服を取り払ったその下に隠されたラグズ独特の模様は、同族の間でも見せ合うことはない。
 恋人や伴侶が精々で、他の者の前で服を脱ぐこと自体があり得なかった。
 その上、発情期の自分も知られたとあっては、実際に目の前の人物に対する隠し事などゼロだと言っても過言ではない。
 そういう、恥ずかしい部分や遠ざけたかったところまで知られてしまった後では、気兼ねすること自体、他人行儀に思えてしまう。
「なあ。…実は、後悔したんじゃないのか?」
 ばしゃばしゃと水音を立てて顔を洗っている人影の側へ歩み寄る。
 水中の段差のある岩に足を取られないよう注意しながら、離れた距離を惜しむように近寄った。
 前方と左右に向かって大きく波が描かれ、緩やかな孤が二つの影をつなぐ。
 素肌が真っ白というほどではない若者は、それゆえにあまり日焼けをすることもない。健康的な肌の色は、かすかな月明かりの下で見つめれば、どこか幽玄にも感じられた。
 全身をすっかり水で濡らし尽くしたベオクの蒼い肢体は、刀剣のような灰色と白の光をその身に宿していた。髪の先はすっかり濡れそぼり、動く度、辺りに雫を滴らせている。
 そんな光景は、ライにとって、毎朝見慣れていたものだった。
 汗にしろ水滴にしろ、少しでもそれらに触れると、途端に幼く見えるのがアイクの特徴だ。目の保養、と称すのは些か贔屓目であるかもしれないが、人目を引く雰囲気に包まれると言えば相応なのか。とにかく、それが見たくて、早朝の忙しい時間にグレイル傭兵団のテントまで出向き、顔を覗かせるのが日課になりつつあった。
 野外で全裸を目にしたのは今日が初めてだが、アイクの堂々とした態度に、不謹慎なことを考えているのは自分だけかと思わずにはいられない。まだ体内に欲情の火種が燻っていることを認めながら、何とかそこへ至る導火線を別の方向へ向けることに専心した。
 もしかしたら、近くにいること自体、自殺行為なのではないかと考える。しかし、自身の欲求はそれとは逆のベクトルを向いている。
 大いなる矛盾を抱えるとともに、不埒なことを思考しそうになる自我を嗜め、胸中で意味もなく相手に詫びながら、その返答を待った。
「したとしても、ほんの少しだ」
 おまえが気にするほどじゃない、とあっさりと告げられる。
 アイクが大物だと思うのは、こんな時だ。
 過ぎ去ってしまえば当時の苦痛や苦難も過去のものだと断定してしまう。
 自身に及ぼされた災難に関して、結果論を重視する傾向にあるのは、ただ単に頭の作りが単純であることにも等しい。無論、それがこちらに対する配慮であることは言うまでもない。
 こういう時、随分と優遇されていると思い上がるのは、少々危うい兆候だろうか。
「まあ、おかげで、俺は助かったけど」
 ぐっと伸びをするように背筋を伸ばし、両腕を頭の上で交差させる。
 大きな猫の姿に変わることは大した負担ではないが、片方に偏ればそれなりの弊害が生じる。
 獣牙の気に身を置き過ぎると人型に戻りづらくはなるが、自分たちにとってはさほど重大な問題ではない。感覚がずれると評すのが一般的ではあるが、完全にその状態が解けなくなるという状況にまでは至らないからだ。
 勿論、化身と人と、二つの型を持つラグズは、バランスこそが重要な要素であることは言わずもがな。心身が健全であるためには、環境に適した姿を取ることがラグズにとって最も自然な在り方だと言えた。
「大変だな。おまえたちには、あんなものがあって」
 ベオクとて思春期特有の壁が待ってはいるが、暴走するほど大仰なことではない。とりあえず、これは病気ではないから、とオスカーに諭された当時を思い出しながら、青年は片方の腕を大きく回した。
 小気味良い音が、夜の静寂に沈む。
「慣れだ、って言いたい所だけど、やっぱアレはまずいよなあ…」
 本来ならば、モゥディがアイクに告げたように、抑制できる類いの欲求であるはずだった。
 好意を持っていた相手がいたとしても、任地が異なるなら、しばらく休息を取っていれば、その間にほとぼりも冷める。現実に、これまでの経験からは危険だと捉えるような事態には遭遇しなかったのだ。
 今夜のように、化身するほどおのれの制御が利かなくなり、半ば無理矢理身体をつないだのは、ライにとっても初めてのことだった。アイクを相手に、性交の途中で自制が働かなくなるという失敗をおかしたことはあるが、最初から、というのは失態以外の何ものでもない。
 まさか、あそこまでやってしまうなんて。止められるはずがないとわかってはいても、吹っ飛んだ理性の断片が遠くから行為の一部始終を注視していたような感覚がどこかに残っていたことを認める。
 本当の情動であるならば、後悔する謂れはない。けれど、純粋な肉欲であるだけに、弁解の余地がないと感じているのだ。
 だからこそ、普段どおりを努めて装いながら、どこかしら打ちのめされたような気配があったのだろう。
 声にすれば、最悪だ、と聞こえてきそうな親友の態度に、アイクはふと顔を上げて後ろを振り返った。
「前から気になっていたんだが…」
 思わず話しかけられたことに、勢い良く、ぴん、と青い耳が立つ。
 怒りはない、と断言された手前、理不尽な感情をぶつけられるとは思わなかったが、べらべらとこちらから話しかけるのもどうかと思案していたのだろう。相手からの反応が、よほど嬉しかったようだ。
「ラグズは、髪が伸びたりすることはないのか?」
「……………」
 脈絡のないことを尋ねられ、一瞬、ライの面が固まった。
 アイクに限って、慰めや労わりの言葉をかけてくれるわけがないと諦めてはいたが、この状況下で話が一気に飛躍するとは夢にも思わなかったのだろう。
 まさに、子どもだ、と言いたい心中を飲み込んで、逆立つようになびく頭上の短い毛を上目遣いに眺めながら一房摘まみ上げた。
「…俺たちの場合は、生まれた時からあんまり変わんない、かな」
 ベオクのように、時間の経過とともに、伸びたり伸びすぎたりすることはないと答えれば、感心したような視線が返った。
 羨望を含んだ目線に、思わず苦笑が漏れる。
 化身する種族であるラグズは、生まれながらに二つの姿を持っているが、どちらが本来の形であるとは言い難い。元々の祖先は獣の一種であったという伝説が残っているが、人型に近い外見を得たのは特に理由があってのことではないようだ。自然と化身することを覚えたのだとしたら、双方の姿があって初めて、自分たちという種族だと言うことができるだろう。
 化身後の体毛が抜け替わることはあっても、ベオクの髪が延々伸び続けるように、表面に際立った変化は起こり得ない。ゆえに、人型の外観が突然変わるようなことはないと説明をする。
「だったら、長髪のリュシオンたちが髪を切ったらどうなるんだ?」
 そのままなのか、と問われる。
「その場合は、元に戻るだけだろうな」
 時間はそれなりにかかるだろうが、以前と同じ位置まで髪が伸び、変わらぬ姿を取り戻すだけだと答える。老若によって若干質に差があるかもしれないが、若いラグズならばすぐにでも回復するだろうと付け加えた。
 やはりそうか、と独りごちる親友の傍らに、そっと青い影が忍び寄った。
 薄明るい闇の中、背後からおもむろに両腕を伸ばし、胸の前で交差するように手を組んだ。
 アイクの米神からは幾筋もの水の液が流れ出し、胸部の緩やかな谷間を伝い、引き締まった腹へと流れて行く。拭いもせずそのままであるのは、火照った身体の所為だろう。
「もしかして、俺たちが羨ましいとか思ったのか?」
 熱を持った素肌に触れ、自分のそれの方が熱いことを実感する。
 傍目にはわからないが、獣牙はラグズの一般的な体温よりも高めの傾向にある。不快なほどではないだろうが、要するに、その肌の下には誰よりも活発な血が流れている証拠のようなものだった。
 だが、ベオクも熱い。何より、先刻まで最も熱された場所を探っていたのは、紛れもない自身だという事実を回想する。

「俺と結婚したら、ラグズになれるかもしれないぜ?」
 まったくの冗談だったが、聞くなり、真剣に考える素振りの横顔を目にし、ライはかすかに寂寥の念を覚えた。
 なぜかははっきりと判別ができなかったが、たとえばという例を当てはめること自体、アイクには似合わないと心のどこかで感じたのかもしれない。
 今の若者ではない存在。たとえ同じ名前を持っていても、現在と違う者となるならば、それはアイク自身ではないとわかっていたからだ。
 どんな身体を得ても、境遇、条件、血統を持っていたとしても、アイクであることに変わりはない。けれど、アイクではなくなるのだと考えたら、喪失感にも似た漠然とした感傷が身の内に浮かんだ。
 と同時に、どんなに形を変えても、きっと自分は見つけ出せる。そんな、驕りがふと胸の奥に去来した。
 おのれ自身の率直な感想にわずかに驚きを感じながら、抱きしめた体躯に触れていると、そこで抱いていた懸念や不安がやわらかく溶けて行くような錯覚に包まれる。
 アイクの皮膚の底へと染みこんで行く、緩やかな感覚に陶然としながら、時期に耳に届くだろう相手からのいらえを待った。
「……いや、俺はベオクで良い」
 すんなりと、回答を弾き出す。
 躊躇はなく、かといってそこには、ラグズというものへの歴然とした嫌悪感があるわけではなかった。
 ただ、現状を明確に捉えた結果なのだろう。
 常に誠信で物事にぶつかり、問題を打破してきた人間であるからこそ、選び、認めることができる。
 過去に後悔がないわけではなく、それを越えて尚断言できる強さ。
 本心でのみぶつかり合うラグズの連中が、一様に彼に肩入れするのは当然だといえた。
 ベオクの中でもあいつは別格だ、と評すのではなく、アイクは、と語る、主要国の面々を思い出す。
 肩書きを必要とせず、単体の名のみで受け入れられ、認識されている人間。
 グレイル傭兵団のアイクは、垣根のない身近な存在として、各国の主たる人物たちに受け入れられていた。
 そして、それは自分とて例外ではない。

「ラグズのお前も、中々いけると思うんだけどなあ…」
 戯れめかして頬に口を寄せれば、困惑したように眉が寄せられた。
「それは、困るだろう」
 むっつりと噤まれた唇を抉じ開けるように、ぺろりと口角を舌で舐めれば、促されるままぽつりと呟きが返った。
 発情した時、一体どう対処すれば良いのか、と。
 助けを求めるような、一途に悩んでいるかのような声音を耳にするなり、覆い被さる側が噴き出した。
 恋人や伴侶がいる奴は、それと同時期に発情するから大丈夫だと。
 肩を叩いて不安を解消してやれば、ラグズというのは巧くできているな、と素直に感じ入ったようだ。
 これが、複雑怪奇、が代名詞の、ベオクの青年だとは到底思えない。
「俺も相当変わり者だけど、お前も、かなり変な奴だよな?」
 賛辞には程遠かったかもしれないが、怒り出すわけでもなく、アイクはそうか、とだけ答えた。
 消沈していた親友がようやく笑ったことに安心したのか、その頬にはわずかな笑みが浮かんでいる。
 そして後ろから抱きつかれている体勢であるのも構わず、前屈みになって汚れを洗い落とす行為を再開した。
 少しでも睡眠が取れるよう、専念して早々に終わらせてしまおうという魂胆なのだろう。
 邪魔をするつもりはなかったので、大人しく腕を解いたが、自身もまた燻った火の粉を清潔な水で鎮めてしまわねばならなかった。
 たった一日や二日で治まる類いのものではないだろうが、相手の努力の甲斐あって、体はかなり楽になった。
 この借りは必ず返そうと心に誓いながら、ちらりと隣の若者を盗み見る。
「なあ、アイク」
 少し潜ったのか、頭部の側面を下にして水滴を落としていた青年が首を傾ける。
 馬鹿馬鹿しい想像だとは思ったが、どうにも安心できないので、先手を打って釘を刺すことにした。
「…他の連中が発情したら、絶対にお前は近寄るなよ?」
 ラグズの中には絶対入ってくるなと。
 自分のように、好きな相手がいたら真っ先に飛び掛ってしまいたくなる衝動を抱えるのだとしたら、アイクにとって危険極まりない状態だ。
 発情期自体、種族や個体によって周期が不明なのではっきりと言い切ることはできないが、とにかく人間にとって危ない条件であることに変わりはない。
 切実に懇願したつもりだったが、その真意は相手には伝わらなかったらしい。
「………善処はする、…が……?」
 今一つ腑に落ちないといった風情で頭を傾げ、蒼い勇者は暗がりの中、何度も面を顰めた。


-2007/06/20
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